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炎の中へ  作者: 春日彩良
第5話【不知火(しらぬい)】
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(2)

 繁華街から少し外れた裏通りに自転車を滑らせると、夜の帳が下り始めたばかりのその通りは、民家の夕食の匂いに似た、どことなく懐かしい香りを漂わせて、学校帰りの隆志を出迎えた。

 キュッ――

 タイヤとブレーキの擦れる音を同時に上げて、隆志の自転車が馴染みの店の前で止まる。


『スナック不知火』


 今日も夜も更ける前から、賑わっている。

 隆志は地下へ続く階段をトトンットトンッと軽い足取りで下り、店の扉を開けた。


「よ!おっかえりー」


 入り口のすぐ脇の席の客に酒を運んでいたこの店のボーイ、マサが、真っ先に隆志に気がついて声をかけた。

 お気に入りのスタジャンは三年前と変わらないが、髪形はパンチパーマからスキンヘッドになっていた。

 ユル・ブリンナーのリバイバル映画を観て、今更ながら影響を受けたと本人は言う。アカリやその他の客には「出家でもする気か」ともっぱら不評だが、本人はどこ吹く風で、休日はその髪型にレイバンのサングラスと、誰も寄り付かないような風貌に磨きをかけている。


「おかえり、隆志君」


 奥のカウンターには、この場にそぐわない、だが一番リラックスした様子の細身の男が座っていた。

 隆志を見つけて片手を挙げると、ふわりと微笑む。


「また来てたの?」


 隆志は呆れた溜息をつくと、両手をポケットに突っ込んだまま、カウンターに向かった。


「飲酒運転で捕まるよ」

「心配後無用。ねぇ、アカリさん」


 男に話を振られて、カウンターの中のアカリが微笑む。小さな空き瓶をカウンターの下から出して顔の横で軽く振ると、隆志に向かってウインクしてみせた。


「ぬかりはないわ」


 空き瓶には『オレンジジュース』の文字。


「智之さん、下戸?」


 隆志の遠慮のない物言いに、智之は苦笑しながら手元の可愛らしいオレンジ色の飲み物をあおった。


「なのに、毎日よく来るね」

「僕は雰囲気で酔うタイプなんだ」


 アカリが智之のグラスに、新たに開けたオレンジジュースのビンから酌をする。


「こんなに礼儀正しいお客なら、大歓迎よ」

 

 智之は理穂子が世話になったことをきっかけに、ちょくちょく『不知火』に通うようになっていた。

 隆志が学校帰りに『不知火』に寄ると、智之が先着でいることも珍しくない。

 まるで家の者が出迎えるように、自然に「お帰り」などといいながら、アカリやマサたちと楽しげに談笑している。


「試験はどうだったんだい?」

「終わったばっかだよ」


 隆志は智之の隣の席に腰を下ろしながら、ぶっきらぼうに答えた。


「今日は何の試験だったの?」

「数Ⅱ」

「うえ、やめてくれ。その名前を聞いただけで、鳥肌たってくる!」


 給仕を終えてカウンターに滑り込んできたマサが、隆志たち二人の会話を聞いて、思いきり顔をしかめながら舌を出す。


「隆志君の得意教科だよね」


 智之が言うと、マサは大げさな仕草で天を仰いだ。


「隆志、お前絶対、変!」

「変なのは、あんたのアタマ!」


 アカリはそう言うと、マサの光る頭をパチンといい音を立てて弾いた。


「……別に、得意じゃないよ」


 気恥ずかしそうにそっぽを向く隆志に、智之は何やらゴソゴソとポケットの中を探って、幾重にも折りたたまれた紙きれを取り出した。


「証拠があるよ」


 そう言いながら、智之は小さな紙切れを丁寧に開いていった。


「あっ!」


 紙切れに書かれた文字を見た瞬間、隆志は思わず声を上げていた。


「じゃーん!こないだの全国模試、ほら、見てよ。数学、全国14位!!」

「えー?!ウソ、すごいじゃない!!」


 アカリもカウンターの中から身を乗り出す。


「な……何で、あんたがこんなの持ってるんだよ!!か、返せよ!」

 

 先日『不知火』に寄って夕飯を食べたとき、模試の結果を興味のない母親の元へ持って帰る気になれず、他のゴミと一緒に店のゴミ箱へ捨てたのだった。

 まさか、それを智之が拾い、大事に持ち歩いているなどとは思ってもみなかった。

「拾ったものだから、もう僕のものだよ」

 どこか得意げな智之をよそに、隆志は耳まで真っ赤になって俯いた。

 正直、やられた――そう思った。


「進路、そろそろ聞かれる時期じゃないの?」


 隆志はつまらなそうに、憮然とした表情で軽く頷いた。


「大学は?もう志望校決めたのかい?」

「……俺、行かない」

「どうして?!こんなに出来るのに、勿体ないよ!」


 珍しく智之が声を上げて、グラスの中の水を舌で舐める隆志に詰め寄った。


「やりたいこととか、ないの?」

「別に」

「ウソだよ!前、家建てるのとか、やってみたいって言ってたじゃない」

 

 隆志は智之の記憶力の良さに、心の中で舌を巻いた。

 確かに、智之の言っていることはあながち外れてはいなかった。駅周辺の再開発が進んでいるこの街では、ここ数年で競い合うようにして、駅ビルが乱立するようになった。

 実際、味気ない鉄骨を組み合わせるところから始まって、最後はガラス細工の様に太陽の光に乱反射する、繊細な建物が生まれるのを見るのは楽しかった。 

 学校帰りにわざわざ自転車を止めて、工事現場を見上げることもあった。

 

 智之に、それが好きだと漏らしたこともあったかもしれない。

 しかし、自分のそんなほんの戯言を、まるで大切な告白でもあるかのように、いつまでも記憶に留めている――そんな智之の優しさが、嬉しくもあり、同時に苦しくもあった。


「斎木は、保育士になりたいんだろ?」


 隆志は話題を変えたくて言った。


「ああ、あの子は子どもが好きなんだ。小さい頃からそうだったよ。この前も、いくつかの短大を見学しに行くって言ってたな」

「会ってるんだ?」


 隆志が言うと、智之は少し恥ずかしそうに、しかし、嬉しさを隠し切れない様子で頬を染めて頷いた。


「本当にたまに……だけどね」


 中学三年生の時、母親の再婚が決まる直前に智之に会いに来た理穂子は、その後すぐに東京の住まいへと戻って行った。

 しかし、それをきっかけに、智之とも年に数回、理穂子の母や祖父母の目を気にしながらも、こっそり会うようになっていた。


「そうだ。今度の日曜、理穂子がこっちに来るんだよ。久しぶりだろう?会ってくれないかな。理穂子も喜ぶよ」

「……別に、いいけど」


 隆志は一気に速度を上げた鼓動を智之に気づかれないように、乱暴にグラスの中の氷水をあおった。

 それでも、小さく手が震えていた。

 

 確かに会うのは一年以上ぶりだが、中学三年生のあの日以来、隆志は理穂子と、日々の学校生活のことなどを中心に、細々とした手紙のやり取りを続けていた。

 しかし、それは智之にも黙っていた。

 例えままごとのような他愛のないやりとりでも、隆志にとっては、二人だけの、小さく大切な秘密であった。



    ※



 週末、智之の設定した喫茶店で、隆志は理穂子を待っていた。

 約束の時間よりも、一時間も早く着いてしまった。

 店内では、少し前に流行った「ペドロ&カプリシャス」の『ジョニーへの伝言』の哀切なメロディが流れている。

 日頃、縁のない洒落た雰囲気の店内に、隆志はなかなか落ち着かなかった。


 低カロリーなダイエット食品として話題になっている、発売されたばかりの「シュガーカット」なる商品がテーブルの端に置かれていたので、隆志は緊張を紛らわすために、それをコーヒーの中に何杯も入れてかき回しては、むやみに甘いその飲み物を飲み下して時間を潰していた。


 カランコロンカラン……


 店の入り口に取り付けられた鐘がなり、隆志はビクッと肩を震わせて振り返った。

 紺色のダッフルコートに赤い毛糸のマフラーを巻いた理穂子が、頬を上気させてそこに立っていた。


「遅れてゴメンネ」


 理穂子は真っ直ぐに隆志のいる喫茶店の一番奥の窓際の席までやってくると、まだ息を上がらせたまま、コートと長いマフラーを取った。

 隆志は黙って、理穂子のコートを受け取り、自分の後ろの壁にかかっているハンガーを取り、そこへ吊るしてやった。


「待ってないよ。時間、ぴったりじゃない」


 隆志がそう言うと、理穂子はホッとしたような顔をして「そう?よかった」と微笑んだ。

 

 コートを脱いだ理穂子は、赤いタータンチェックのプリーツスカートに、ふわふわした白いセーター、黒いハイソックスと、女学生らしい可愛らしい姿だった。

 もう昔のように、髪を赤く染めてもいない。

 生まれつきの栗色の髪は肩の辺りまで下ろされていて、ふわふわと彼女の小さな顔の周りを彩っていた。


「智之さんとの約束は、何時から?」

「七時から。パパが仕事が終わったら迎えに来るから、夕飯一緒に食べようって。島貫君も連れてきなさいって言われてるよ」

「俺は、いいよ」


 隆志は照れくさそうに首を横に振った。


「久しぶりだね」


 腰を下ろし、ウエイトレスに差し出された氷水を一口飲んで落ち着いた理穂子は、改めて隆志を見て微笑んだ。


「みんなは元気?」

「うん、相変わらずだよ」


 隆志は理穂子に質問されるまま、最近の圭子や健吾たちの様子について話した。圭子とは今でも連絡を取り続けているようで、隆志が知らない圭子やさゆりの話も交えながら、時間が過ぎていった。

 

 そして、期末試験の話から、不意に理穂子が言った。


「そういえば、この間の全国模試の話、聞いたよ」


 隆志の頬がカァッと熱くなる。


「智之さん?」


 理穂子が悪戯っぽい目で笑いながら頷く。


「……まったく、あの人ってば」


 短く刈り挙げた頭を抱え込んで、隆志は真っ赤になって俯いた。


「島貫君は大学どうするの?やっぱり、理系選択?」


 みんなそのことを聞くんだな――

 隆志は答えに詰まりながらも、小さな声で言った。


「……俺は、大学には行かないよ。そんな金ないし。高校出たら、働くよ」

「そんなのダメだよ!」


 隆志の言葉に理穂子は目を丸くして声を上げた。


「島貫君、小学校の頃から成績は良かったじゃない。それに、前にもらった手紙にも建築の仕事に興味があるって書いてたの覚えてるよ。お金なんか、奨学金だって、なんだってあるんだから。簡単に諦めちゃだめだよ」

「俺は斎木みたいに、ちゃんとした目標があるわけでもないし、いいんだよ……でも、ありがとう」


 しかし、理穂子は納得しない様子で更に重ねた。


「東京に、出ておいでよ」

「え?」


 突拍子もない話だったが、理穂子の目は真剣だった。


「私も東京の短大に行くし、一緒に行けたらいいなって思ったから」


 理穂子は頬を染めながらも、きっぱりと言い切った。これには隆志の方が面食らった。


「……何で、急にそんなこと」

「嫌?」

「い、嫌じゃないけど……東京なんて、思いもしなかったから、ちょっとビックリして」

「……ごめん、勝手に押し付けるようなこと言って」


 理穂子も急に恥じ入ったように小さく俯いた。


「いや、そんなことないよ。ありがとう……ちょっと、考える時間をくれないかな」

 

 理穂子は頷いたまま黙り込んだ。気まずい沈黙が続き、耐えられなくなった隆志は別の話題を探した。


「それ、自分で編んだの?」

 

 隆志は小さく畳まれてテーブルの隅に置かれた、理穂子の赤い毛糸のマフラーを指差して言った。

 以前の手紙に、手編みに凝っているという話が書かれていたのを思い出したからだ。


「あ、うん。これで、三作目なんだ」


 理穂子が顔を上げ、救われたように、いつもの屈託のない笑顔を浮かべて言った。


「上手いじゃない。店で売ってるやつみたいだ」


 隆志が言うと、理穂子は嬉しそうに笑みを深くした。

 

 その時、理穂子はコーヒーカップにかけられた隆志の手先が、酷く荒れていることに気がついた。

 アカギレだらけの手は皮がめくれ上がり、血が滲んでいる。


「バイトのせい?……すごく、痛そう」

「ああ、これ?もう慣れたよ」


 隆志は気恥ずかしそうに自分の荒れた両手を擦って、テーブルの下へ隠した。


 その時突然、理穂子が視線を向けていた喫茶店の窓のところに、サンタクロースの扮装をした男が、鼻先をつけるようにして窓に張り付き、喫茶店の中にいる隆志や理穂子に向かって、おどけた顔をしてみせた。


「キャッ!」


 思わず驚いて悲鳴を上げた理穂子だが、その正体を知ると、自分の大げさな反応に、かえって声を上げて笑った。

 窓の向こうのにわかサンタも、自分の悪ふざけに今更少し恥ずかしそうな表情を浮かべて、丁寧にお辞儀をすると、手にした商店街のクリスマスセールの開催チラシを、また配るために通りへ戻って行った。


「ああ、びっくりした」


 理穂子は胸に手を当てて、まだこぼれる笑いを止められないようだったが、そんな理穂子を見ていると、隆志までつられて笑みがこぼれた。


「もうすぐ、クリスマスだね」


 ようやく呼吸を整えた理穂子の視線が、ゆっくりと窓の外へと移る。

 にわかに活気付きだした街並みは、もうすぐ迎えるクリスマスの色に染まって浮き足立っていた。


「クリスマスプレゼント、もう買った?」

「うちは、そういうのやらないから」


 隆志の返事に、理穂子は聞いてはいけないことを聞いたのではと、顔を曇らせた。

 隆志は慌てて付け加える。


「ウチは、ほら、無宗教だからさ。特別にキリストの誕生日を祝ったりしないわけ」

「それじゃあ、プレゼント交換もしたことない?」


 隆志はぎこちなく頷く。


「じゃあ、やろうか?プレゼント交換」

「え?」

「二人で、やろうよ。クリスマス当日まで、プレゼントの内容は秘密だよ。でね、相手が一番欲しそうなもの、用意するの」

「……俺、そんなの分からないよ」

「ダメだよ、考えるの。それが、面白いんだから」


 理穂子は大きな瞳をクリクリ動かして、躊躇する隆志を説き伏せた。


「だったら、ヒントくれよ」

「ヒント?」


 隆志は苦しそうに眉間に皺を寄せ、真剣な口調で言った。


「そ、ヒント。例えば、斎木の好きなものとか、最近のお気に入りとか。そっから、斎木が欲しそうな物、考えるからさ」

「いいよ」


 理穂子は面白そうに微笑むと、わざわざ姿勢を正して椅子の上に座り直し、隆志に向き直った。


「私の最近のお気に入りはね、ずばり『ある愛の詩』だね」

「何、それ?」

「知らない?ちょっと前に、大ヒットした映画だよ。アリ・マックグローの」

「……アリ?」


 キョトンとする隆志に、理穂子はじれったそうに言う。


「主演の女優さんの名前。素敵だったんだぁ」


 理穂子はその映画の内容を思い出すかのように、机に肘をついた姿勢で両手の上にアゴを乗せ、ウットリとため息をついた。


「すごく、愛し合っている恋人同士が、彼女が白血病になったことで引き裂かれるの。最後に彼が、誰もいない思い出のスケートリンクで一人、彼女と過ごした戻らない日々を想うところが、すごく切ないけど、大好き」


 隆志は映画の筋よりも、夢見るように語る理穂子の方に見惚れていた。



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