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炎の中へ  作者: 春日彩良
第5話【不知火(しらぬい)】
11/85

(1)

 僕は母の匂いが嫌いだ。

 安物の甘い香水の匂い。

 その匂いを嗅ぐと、母よりも女を生きたあの人の

 全てが透けて見える気がするから……


     ※


 星が出ている――

 学生服の襟元にマフラー代わりに巻いたボロボロの手拭に顔を埋めるようにして、隆志は油の切れた中古自転車を漕いで帰路についていた。

 高校へ上がってから一日も休むことなく続けている、街の片隅の工場の機械を冷水で洗う早朝のアルバイトのお陰で、冬はあかぎれだらけになる手でハンドルを握り、寒さに長身の背中を丸めて走る。


 長屋の前で自転車を止めると、キーキーと気弱な小動物のように鳴いていたペダルの音が止まった。


「ただいま」


 隆志が真っ暗な部屋の中に向かって声をかける。

 返事はない。

 サイズが合わなくなり、踵を踏んで歩いているスニーカーを玄関先に脱ぎ捨てて、構わず家の中に入った。

 誰もいない時でも「ただいま」と声をかけるのは隆志の長年の癖なので、特に気にもせずに、隆志は居間の扉を開けた。

 

 部屋の中に足を踏み入れた瞬間、隆志は部屋の空気が異常に悪いことに気がついた。

 見れば、部屋の片隅で石油ストーブが赤々と燃えている。部屋の窓は締め切られたままだ。

 隆志は慌てて、窓に走り寄ると、鍵を外し窓を開け放った。途端に、澄んだ冷気が部屋に流れ込んでくる。

 隆志はホッとして振り返ると、部屋の反対側の扉も開けに走った。

 たったこれだけの距離を走っただけで、頭に鈍い痛みが走る。どれだけ空気が淀んでいたかが分かる。

 

 その時、隆志の足元の炬燵の布団が、モゾモゾと動いた。


「なぁに?寒いじゃないのよ」


 寝ぼけ眼を擦りながら炬燵から出てきた女は、座ったまま大きく伸びをして、瞳の端に滲んだ起きぬけの涙を拭った。


「寒い、じゃないよ。死ぬ気かよ?」


 隆志は女を冷たく見下ろして言った。


「あはは、ごめん。昼過ぎに帰ってきてさぁ、ついウトウトしちゃって」

「一酸化炭素中毒って言葉、知らないの?」


 ちっとも悪びれる様子のない女に向かって、隆志は硬い声を出した。


「帰ってきたら、死んでました……なんて、俺ゴメンだぜ。あんたが一人で死ぬのは勝手だけど、ウチには葬式出す金なんかないし。まかり間違って火なんか出して、隣家まで焼いちゃったら、どう責任取るんだよ」

「はいはい……あー、怖い怖い。昔は「母ちゃん、母ちゃん」って、泣き虫であんなにかわいい子だったのにねぇ」


 女は最近拾ってきた、炬燵の傍で添い寝していたブチの野良猫を抱き上げて、言った。


「今の私の味方はお前だけよ。ねぇ、たーちゃん」

「その呼び名、やめろよ」


 隆志が苦々しげに顔をしかめて言う。


「猫と同じ名前なんて、気分悪いよ」


「いいじゃない。今はたーちゃんって呼ばせてくれないんだから。猫くらい、私の好きな名前で呼ぶわよーだ!」


 少女じみた仕草でアッカンベーをすると、女は猫を抱いたまま、またゴソゴソと炬燵の布団の中に潜り込んだ。


「あー、お腹空いた」


 力なく呟く声に、隆志が振り返る。


「食ってないの?」

「店が混んでてさ。タイミング逃しちゃった」


 そう言われて、女が店の客から譲り受けた調理場の小さな冷蔵庫を試しに開けてみても、見事なほどに何も入っていなかった。


「……玉子かけご飯でいい?」

 調理場から振り返る隆志に、女は気の抜けた返事を返す。


「お金ないわよ」

 

 隆志は居間へ踵を返すと、ぶっきらぼうにポケットをひっくり返して、畳の上に小銭を落として見せた。


「今日、バイトの給料日」

「うっそ!すごい、やるぅ」


 女は寝そべった姿勢のまま、抱いた猫を『高い高い』して上機嫌だ。 隆志は空気が入れ替わったのを確認すると、黙ってまた窓を閉め始めた。


「買い物してすぐ帰ってくるから平気だと思うけど、喚起は本当に気をつけろよな」

「分かってる、分かってるって」


 女は嬉しそうに顔を輝かせながら、ヌクヌクと炬燵にもぐっている。


「ねぇ、隆志。前にもこうやって、隆志が玉子かけご飯作ってくれたことあったよね。私が風邪ひいて、寝込んでた時」

「覚えてない」


 素っ気無く言う隆志に構わずに、女は思い出すように目を細めた。


「ううん、私は覚えてるよ。まだ小さかったから、下手クソでさぁ。玉子上手に割れなくて、殻がいっぱい入ってたの。私、思わず怒っちゃって……あんたは、あんなに小さかったのにさ、一生懸命だったのに……あの時は、ごめんねぇ」

「急に何だよ?」


 怪訝な顔をする隆志に、女は照れ隠しのように笑った。


「何だろうね。最近よく、昔のこと思い出すのよ」

「年取った証拠じゃないの?」


 隆志がわざと意地悪くそう言うと、女はちっとも年を感じさせない少女のような表情で「かもね」と微笑んだ。


「取りあえず、行って来る」


 隆志が背中を向けると、背後から女が声をかけた。


「……たーちゃん」


 隆志が振り返る。


「俺?それとも、そいつ?」


 隆志が女の抱いた猫を顎でしゃくる。

 女は炬燵の布団の陰から、フフッと微笑んだ。


「……ガキみてぇ」


 隆志は呆れたようにため息をつくと、近くにあった膝掛けを取って、炬燵から出た女の肩に無造作にかけてやった。



    ※



「よーし、鉛筆置け」


 チャイムの音と共に教室中が深いため息に包まれる。

 二学期期末試験最終日は、数学Ⅱの試験で締めくくられた。

 一番後ろの席の隆志は、試験の途中からすでに諦めて、残り三十分近くを睡眠時間に当てた伊藤健吾の背中をつついた。


「……んあ?」


 健吾がマヌケな声を出して上半身を起こす。健吾の下敷きになっていたテスト用紙は、既にシワシワで涎の痕までくっきりとついていた。


「テスト、終わったよ。回してよ」


 隆志がぶっきらぼうに自分の答案用紙を健吾に押し付ける。


「嘘?マジ!?」


 目の覚めた健吾は、自分の真っ白の答案用紙を見て今更焦りだし、隆志の答案用紙を引っつかんだ。


「ヤベ、島貫、見せろ!」


 そう言うと慌てて隆志の回答を自分のまっさらな答案用紙に写し出した。


「先生!伊藤がズルしてます!」


 斜め前の席に座った萩原圭子が真っ直ぐに手を挙げて、すかさず告発した。


「あ!萩原、てめぇ!」

「伊藤!また、お前か!」


 教師は健吾のところまで飛んでくると、小学生の男子にするように健吾のこめかみをグリグリ拳で攻めて、健吾に悲鳴を上げさせた。


「赤点でもカンニングでも落第させるからな!」


 狭い街の中で、この公立高校には同じ中学から多くの者が進学した。

 下宿して東京の学校や、私立の学校へ進む者もいたが、ほとんどの学生は経済的な理由から、街で唯一の公立の普通高校であるこの高校に進学した。

 隆志もランクを相当下げて受験することになったが、電車賃がかからず、自転車通学が出来るこの高校に進学することに何の迷いも不満もなかった。

 

 隆志が愛用している自転車は、だいぶ錆付いてガタがきていたが、高校の入学祝に、智之がかつて家財道具屋を営んでいたときのコネを使って、廃品を手に入れ、綺麗に整備してプレゼントしてくれたものだった。


「まだ席から離れるなよ。これ、提出したやつから帰ってよし」


 健吾を絞ってから教壇に帰った教師は、テストをみな回収したのを見届けると、新たなプリントを前から回した。

 痛みに突っ伏している健吾を飛び越えて、二つ前の席の生徒からプリントを受け取るなり、隆志はその紙をクシャクシャに丸めてポケットの中に突っ込んだ。


『進路希望』

 隆志が丸めた紙には素っ気無く、そう書かれてあった。


「三年になったら、それを元に進路別にクラス分けするんだからな。これは最終希望だから、必ず真剣に考えて出すように」


前の席では、健吾が鉛筆を口に咥えて唸っていた。


「……文系、英語嫌い。理系……数学分かんね……文理系、国立かぁ、うーん、全部分かんね……就職なんて、まだ早いしなぁ」

「伊藤、うるさい」


 圭子にすげなく言われた健吾は、伸び上がって圭子の進路希望を覗き見した。


「は?何、お前。看護学校?お前が、ナース?」

「何よ、勝手に見るんじゃないわよ!変態!」

「お前なんかがナースだったら、殺されちまうよ。人類のためにやめとけ」

「親の脛かじって、アンポンタン大学に裏口入学しか道のないあんたより、私は将来、よっぽど人類のためになるわよ」

「裏口入学とは何だよ!?」

「あんたの偏差値で普通に入れる大学なんかこの世にないってこと」

 

 相変わらずの二人を見ながら、隆志はこっそり教室を抜け出すタイミングを計っていた。教師が後ろを向いた瞬間、そ知らぬ顔で後ろの扉から出ようと準備する。


「伊藤、あんたも少しは人の役に立つこと考えなさいよ。さゆりはエスカレーターで付属高校から音大に進んでピアノの先生になるって言ってるし、理穂子は短大で保育士の免許取るって言ってるわよ」

 理穂子――の名前に、隆志の鼓動がビクンと跳ね上がった。

「オレ、オレ!オレもそこにする!斎木と同じ短大にする!」

「女子大だよ、バカ!」

 

 中学の同級生たちは、未だに理穂子を小学校の時の『斎木』の苗字で呼ぶ。

 その方が馴染みやすいのだ。

 今の彼女の名前は正式には『早川理穂子』であった。

 

 教師がこちらに背中を向けた。

 今だ!と隆志が席を立ち上がった時、前の席の健吾が突然振り向き、隆志の腕を掴んだ。


「待てよ、島貫。一勝負、やってけよ」


 健吾は細い目を更に細くして、ニヤッと笑う。

 おもむろに学生服のズボンのポケットを探ると、子どものように目をキラキラ輝かせて、小さなマッチ箱を取り出した。


「今日は、負けねぇ」

 

 最近健吾が凝りに凝っているゲームだ。

 何のことはない、マッチ棒をいくつも積み上げて城を作る。

 交互に積み上げて行って、先に城を崩した方が負け。勝った者はそのマッチ箱ごと、全てのマッチ棒をもらえるのだが……


「俺、急ぐんだけど……」


 隆志の迷惑そうな表情などお構いなしに、ジャンケンもしない内から自分が先攻と決めてかかり、健吾は勝手にゲーム開始を宣言する。

 仕方なく隆志も椅子に座りなおして、イヤイヤながら小さい城を築きあげていく。

 

 かなり積みあがってくると、それなりに緊張感がある。健吾の手もブルブルと震えていた。


「……うーん」


 声にならない声を出しながら、かなり不安定に揺れる城に、健吾が震える手で一本落とした。

 その瞬間――

 マッチ棒の城は、もろくも崩れ去った。


「ああー!!」


 絶望に打ちひしがれる健吾は、悔し紛れに隆志に食ってかかる。


「島貫、お前今揺らしただろ」

「何もしてないよ」


 いつものことに、隆志は冷め切った声で反論する。


「今のはどう見ても、あんたの鼻息ね」


 圭子の冷笑に、健吾は耳まで真っ赤になって怒り出す。


「うるせぇ!ズルしたから、この勝負は俺の勝ち」


 無理が通れば道理引っ込むとは、まさに健吾のためにある言葉だった。


「あんた、ほんとガキね」


 圭子の哀れみさえこもったため息に心の中で深く同調しながら、マッチ箱の一つや二つ別に惜しいわけでもないので、隆志も呆れながら健吾にマッチ箱を押しやる。


「俺、帰るから」

「そこ!進路希望の紙出したのか?早くしろ!」


 教師が教壇から檄を飛ばす。


「出しましたー」


 隆志はシレっと嘘をつくと、悠々と席を立ち、後ろの席から教室を出て行った。



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