海に潜むもの
生暖かい海風が、鼻腔から肺に侵入して、体の中を潮の臭いで満たす。
慎二は砂浜に下りると、煙草の火を点けた。
すぐ後ろにある駐車場に立った薄暗い外灯でぼんやりと照らされた砂浜に、煌々とした火が灯る。
ゆっくりと煙草を吸い、吐くと、潮の臭いは掻き消えた。しかし、すぐに波音と共にその臭いは戻って来る。
ザザァ……ザザァ……。
慎二はぼんやりと海の向こうを眺め、歩き出した。
左右に伸びる砂浜の、より暗い方へ。
夏とは言え、こんなにも遅い時間にわざわざ海に来る者はあまりおらず、明るく照らされている方の浜で花火をする小さな集団と、浜へ下りる階段にポツポツと座り込むカップルが居るだけだ。
右側に海の音を聴きながら、煙草をふかしつつ慎二は歩いた。
ふと胸の中に怒りがこみ上げ、それを抑えるように息を吐く。
「はぁ、うぜぇ……」
仕事ではいいように使われ、恋人には訳の分からない理屈ともいえない理屈で罵られ、母からは不要な連絡が届く。息抜きにと友人に連絡をすれば、誰一人返信はなかった。
明日は久々の全休だ。
慎二は、疲労が溜まっている筈なのに、家に居る気分にならず、車を飛ばして海を訪れていた。
ただ、歩く。
不快に感じていた波音も、潮の臭いも、歩く内にどこか心地の良い気すらしてきていた。
長い息を吐くと、胸に溜まった苛立ちが外へ抜け、海風に攫われていくような感覚があった。
ふと顔を上げた時、駐車場と砂浜を隔てる柵に括りつけられた看板が目に留まった。
【場内禁煙】
思わず舌打ちをしてから、手元の煙草に目を落とし、口に咥えた。
──知るものか。
より暗い方へと進むにつれ、ポツポツと居たカップルの姿もなくなっていた。ただ、暗闇に砂浜が沈んでいるだけだ。
慎二はその場で一本を吸い終え、携帯灰皿に押し付けると、新たな煙草に火を点けた。先程よりも煌々とした火が、暗闇に映える。煙がむぁ、と上がり、吹いた海風に消えていく。
再び歩き始めた慎二は、ふと何故こんなにも暗いのか、と疑問に思った。
後ろを振り返れば、既に遠く、反対に伸びる浜は外灯に照らされている。薄暗いと感じていたそれは、こちら側から見れば随分と明るい。
わっという声が上がり、ドラゴン花火がさく裂する。
ぼんやりと花火に騒ぐ集団を遠目に見やってから、慎二は煙草を吸い終え、携帯灰皿に押し付けた。
明るみに背を向け、歩き出す。
──何故、こうも暗いのか。
頭を空っぽにして歩くというのはなかなか難しいもので、慎二は見るともなしに辺りを見やり、頭の片隅で暗がりの理由を考えた。それを止めてしまえば、ふつふつと苛立ちが再燃して、頭を支配してしまう。
靴越しに伝わる砂の感触。波音。潮風。遠くに聞こえる歓声。
そうしたものに意識を向け、暗がりの理由を考える。
「あぁ、そうか」
思わず出た声に、気恥ずかしい思いがして、慎二は靴に入った砂を取りながら辺りを見回した。
──誰も居ない。
内心で安堵の息を吐きつつ、改めて辺りを見回した。
浜のこちら側は、海の家を始め、そこそこ大型のアウトドア系店舗や、レストランが軒を連ねている。当然、このような時間では営業している筈もなく、店内は灯りが消され、暗く沈んでいる。建物の向こうには駐車場があり、外灯もある筈だが、建物に阻まれその灯りは浜には届かない。だから、暗い。
判ってしまえば、ただそれだけのこと。
手持ち無沙汰になってしまった慎二は、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面の明るさに目を細めながら確認し、誰からも返信がないことに鼻を鳴らす。
──帰ろうか。
道の先を見た慎二は、遠くに浜の終着点を見て、思った。視線を横にずらし、海に突き出る遊歩道を確認する。
──あの先まで行って、少しぼーっとしたら帰ろう。
暗がりの浜を、歩き出す。
遊歩道はタイルが敷かれ、随分と歩きやすい。靴の中の砂を取り、ぶらぶらと歩いた。
進むに連れて、海風は強くなる。辛うじて届いていた僅かな外灯の灯りも今は遠く、浜で騒ぐ者達の声も届かない。
遊歩道の途中で、ぐっと暗さが濃くなった。
一瞬、躊躇った脚は、構わず一歩進んでみせた。
慎二は、内心で小さく笑った。
ぐるりと巡らされた柵に寄り掛かり、海を見つめる。
波音は背後に。前方の海からは静かな水音だけが聞こえる。
チャポ……チャポ……チャッ……。
遠くを見つめていた慎二は、ふいに足元の水面に目を落とした。暗く、底は見えない。水質は綺麗な方だが、例え昼でも底は見えないだろう。眺める海は、遊泳可能な場所ではない。鮫除けのネットは慎二が立つ遊歩道の横に伸びている。
ここ迄が、許された範囲だ。
じっと水面のその先を見通すように見つめていた慎二は、引き込まれそうな感覚に慌てて視線を上げた。
月が浮かぶ空に、星々は霞んで見えない。夜空の中に浮かぶ雲が時折月を覆い隠した。
煙草に火を点け、煙を吐く。
最早、輪郭が薄っすら見えるだけの手元に、煙草の火が灯る。手を動かす度に、大袈裟に火が揺れた。
ふと、視界に違和感を覚え、慎二は動きを止めた。
暗く沈む海に、何かが見える。
目を凝らす。
引き込まれそうな感覚に抗いながら、海の中に見えた何かの正体を確かめようと覗き込んだ。
キラッと何かが光った。
──魚、か……?
再び光が煌めいた。それは薄緑の輝きをもって水中で揺らめいている。
「緑の魚?」
そんなまさか。南国にならそういった魚もいるだろうが、この海にはそんなものは居ない。ならば、ゴミか何かだろう。
視線を上げかけた慎二は、水中に信じられないものを見つけ、声を上げた。
わっ、と響いた声は虚しく海に散っていく。驚いた拍子に取り落とした煙草が水中に当たって消えた。
知らず固く握っていた柵に寄り掛かるようにして、不穏に打ち始めた心臓を落ち着ける。
──いや、そんな、まさか。
恐る恐る海を見下ろし、忙しなく一帯を見回してから、頭を振る。
──いや、居る筈がない。……あれは、人の頭だった。そんなものがある筈がない。
慎二は、もう一度海を見つめ、踵を返した。
暫くぼーっとしたら帰る。そう決めていた。今は、すぐにでも家に帰りたかった。
遊歩道を歩く。
ジャバ、ヒタヒタ……。
突如、背後で聞こえた音に、体の芯が凍り付いた。止まりそうになった息を吐き出し、吸い、歩みを速める。
ヒタヒタ……ズリリ……。
音は、確実に背後から届いてくる。
慎二は、短くなっていく息を意識して大きく吸い込み、ゆっくりと後ろを振り返った。
暗がりに遊歩道が伸び、その先により暗い海が広がっている。
遊歩道の曲がった先に気を取られた慎二は、息を飲んだ。
そこには、遊歩道や、海や、夜空よりずっと暗い影がわだかまっている。
うっすらと緑色の光を明滅させているそれが、ゆっくりと動いた。
──こっちを、向いた。
暗がりの中の輪郭が、こちらを向いた。そう感じ取った慎二は、すぐに背を向け走り出した。
ヒタヒタヒタ、という音が追いかけて来る。
「な……なんだってんだ、よ」
声が震え、荒い息と共に漏れる。
やがて遊歩道は途切れ、浜となる。砂に足を取られながら、前方に見える駐車場に向けて駆けていた慎二は、突然足を引かれ盛大に転んだ。
砂が口に入り、強く打った腹や顎が痛む。
しかし、それよりも、湿った感触のある足が気になり、慎二は顔を上げると自身の右足に目をやった。
うわぁあ、と情けない声を上げ、足を振るう。砂浜から突き出た腕が足を掴んでいた。湿った手は、ブンブンと振るのに付いて来る。
「な、なんだよお、離せよぉ!」
最早泣き声混じりの声で慎二は叫んだが、緑色に明滅する手は力を緩めなかった。左足でこそげ取るように蹴り飛ばしても、足を力強く振っても、離れない。
慎二は思いっきり顔を顰めながら、両手で緑色の手を掴み、引き剥がそうとした。ぺたりとした冷たい手の感触に鳥肌が立つ。
砂がぼごりぼごりと音を立てて沸き立ち、緑色に発光し始める。砂が零れ落ちていき、砂の中に埋まるものがゆっくりと姿を現わそうとしている。
引き攣れるような悲鳴を上げた慎二は、上げた視線の先に信じられないものを見た。
遊歩道を追ってくる緑色の何か。
その横、遊泳可能な海の中から顔を覗かせる複数の緑色の輪郭。
ぼんやりと立ち並ぶそれらは、ゆっくりと浜の方まで歩いて来る。
「な、な、な……」
慎二は、これ以上叫び声さえも出すことが出来なかった。
めちゃくちゃに脚を動かし、そうしながらも未だに足首を掴む湿った手を引き剥がそうと藻掻く。
砂から姿を現わした何かが、くぐもった声のようなものを発した。
「……え?」
対話など出来る筈がない。意味の分からぬ、言葉かどうかも判らない音につい反応してしまった慎二は、この状況だというのに、思わず小さな笑い声を漏らしていた。
──緑色の、人間。いや、魚だ。
それは、慎二の足を無造作に引っ張り上げた。あまりの勢いと力強さに後ろに倒れ込み、頭を打つ。
呻く慎二を、海から上がって来た緑色に光る何かが取り囲む。ペタペタと湿った手で触り回し、ふいにそれらは慎二の体を掴み上げた。
足を、腹を、腕を、無造作に捕まれ、頭が下がったまま運ばれていく。
逆さに映る視界の中で、駐車場の灯りが遠ざかっていく。
「や、やめ、ろ……」
慎二の声が虚しく響く。
潮の臭いがむっと濃くなっていく。
ジャボ、ジャボ、ジャボ、ジャボ……。
「放せ……!」
そう声を上げた時、慎二の頭は水中にあった。開けた口から海水が流れ込み、息が出来なくなる。
もが、という声にならない声が水泡となって消える。
それでも慎二の体を引く力は弱まらない。より速く、水の底へと引いていく。
暗い海の中で、緑色の光が明滅している。
それらは、慎二を取り囲み、明滅の速度を上げた。
苦しく、滲み、霞んでいく意識の中で、慎二と向き合うように浮いた何かが腕を伸ばした。ひり、と首に痛みが走る。
今や煌々と光るそれらは、身を躍らせると慎二に向かって迫ってきた。
人間のような顔の中で、大きく開いた口から鋭い牙が覗く。
慎二は、緑色の光に群がられながら、意識を手放した──。