表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

普通になれない私達へ

作者:

短編ですが、第十章まであります。

第一章 正しさという檻の中で

 ――例えば、誰にも見せてはいけない「欲望」があるとして。

 それを隠し通すことが、正しさなのだとしたら。

 私はずっと「正しく」生きてきた。

 夜の帰り道、街灯に照らされる自分の影が、まるで別の誰かのように見える。

「模範的な女性」でいれば、災いは遠ざけられる。

 そう信じて生きてきた。

 ――けれど。

 あの夜。

 私は、崩れた。

 けれど、あの人は、逃げなかった。


「お疲れ様です」

 繰り返す挨拶。

 きちんとしたスーツ。

 崩れない笑顔。

 誰よりも模範的で無難な女性でいること。

 それが(はるか)の習慣だった。

 職場では頼りにされていた。

 上司からは気配り上手と言われ、後輩には憧れの対象として見られていた。

 誰から見ても、“ちゃんとした人“だった。

 でも、心のどこかで――もう限界だと思っていた。

「遥さんって、ほんと隙がないですよね」

 会議の帰り、後輩が無邪気に言った。

 褒め言葉のつもりだろう。

 けれどその言葉は、遥には小さな棘のように刺さる。

 隙がない、というのは、壊れない、という意味じゃない。

 むしろ、壊れていることを隠すのがうまい、ということかもしれない。

 電車の窓に映る自分の顔は、よく見れば疲れていた。

 化粧という仮面のの奥で、本当の自分の顔を忘れていた。

 家に帰って、シャワーを浴びる。

 身体を拭くタオルが、やけに重く感じる夜だった。

 このまま布団に潜って、何も考えずに朝を迎えられたら――

 そんな願いが、叶ったことはない。


 目を閉じると浮かぶのは、

 夜のコンビニの明かり。

 その前にいた、あの男の姿。

 直哉(なおや)

 一度きりしか会っていないのに、彼のまなざしだけが、焼き付いて離れなかった。

 あの時、私は泣いていた。

 彼の前で、どうしようもなく、壊れていた。



第二章 壊れていても、逃げない人

 日曜の夜。

 駅前のベンチで、缶コーヒーを手にしていた男がいた。

 何の変哲もない風景。

 でも、遥の足が止まった。

「……直哉くん」

 思わず声が出た。

 男は、ゆっくりと顔を上げた。

 変わらないまなざしだった。

 あの夜、コンビニの前で、ただ黙って遥の涙を見ていた男。

 何も求めず、話を聞いてくれた人。

「おう」

 それだけ言って、彼は缶コーヒーを差し出してきた。

 遥は受け取らなかった。

 でも、少しだけ、笑った。

「まだあの辺に住んでるの?」

「うん。相変わらず狭いとこだけど、居心地はいい」

「仕事は?」

「それなり。荷物運んだり、人の代わりに謝ったり。世の中、謝らないと動かないこと、けっこうあるからね」

 遥はその言葉に、少し胸が詰まった。

 “謝らないと動かない”――まるで自分自身の人生を言われたようだった。

「どうしてあの時……逃げなかったの?」

 ふいに、遥は聞いた。

 直哉は少し間を置いてから、答えた。

「俺も、似たようなもんだったから。壊れそうで、誰にも触れられたくなくて。でも、本当は誰かに知って欲しかった。……それだけ」

 遥は何も言えなかった。

 心の奥にしまっていた感情が、静かに揺らぐのを感じていた。

「触れたら壊れるんじゃなくて、触れられなかったから壊れたんだと思うよ」

 直哉は言った。

 それは、どこまでも優しい声だった。

 缶コーヒーのぬるくなった温度と、春の夜風が、遥の頬をなぞった。

「また会ってもいい?」

 そう聞いたのは、自分の方だった。



第三章 ちゃんとしすぎた女

 あの日、遥がふらりと立ち寄ったのは、小さなブックカフェだった。

 家にいても心がざわついて、本を読もうとしても文字が頭に入ってこない。そんなとき、偶然通りがかったこの場所が、なぜか少しだけ安心できそうに見えた。

 木の看板には、手書きの文字で控えめに店名が書かれている。中を覗くと、落ち着いた照明と、ほんのり香るコーヒーの匂い。人も少なく、静けさが漂っていた。

 遥は窓際の席に座り、バッグから本を取り出した。けれどページを開いても、内容がまるで霧の中にあるようだった。

 そのときだった。

「その本、いいですよね」

 突然の声に、遥は少し驚いて顔を上げた。

 奥の席で一人、ゆっくり本を読んでいた男性が、静かにこちらを見ていた。

「僕も、何度か助けられました。その本に」

 声は落ち着いていて、押しつけがましさはなかった。

 遥は一瞬、警戒した。見知らぬ人と話すのは、あまり得意ではない。けれど、その男性の目はまっすぐで、どこか寂しげで、距離を大事にするようなやさしさがあった。

「……はい。疲れたときに読むと、ちょっと落ち着く気がして」

「わかります。僕も、今日そんな気分で来たんです」

 少しだけ、会話が続いた。無理に盛り上げようとすることもなく、沈黙すら自然に感じられた。

 やがて遥が席を立とうとしたとき、男性が言った。

「また、会えたら嬉しいな。無理しない感じで」

 そう言って、紙片を差し出した。そこには、名前と連絡先が丁寧な字で書かれていた。

 遥は迷った末に、その紙を受け取り、そっとポケットにしまった。


 数日後、直哉から短いメッセージが届いた。

『こんばんは。この前はありがとう。よかったら今度、仕事帰りに近くの公園で少し話さない?無理しないで大丈夫です。風が気持ちよさそうだったから』

 画面を見つめながら、遥はしばらく指を止めていた。

 普通なら、こんな誘いには絶対に応じなかったはずだ。見知らぬ人。公園。夜。

 それなのに――不思議と、怖さはなかった。

 あのときの静かな声。目を逸らさずに言葉を交わしてくれたあの時間。

 どこか、心の奥に染み込むような、安心感があった。

 遥は一度深呼吸してから、ゆっくりと返信を打った。

『うん、話しておきたい』

 その夜、遥は少しだけメイクを薄くして出かけた。

 ヒールじゃなく、スニーカーを履いて。

 肩の力を抜いたまま、彼と会った。

「今日、疲れてる?」

 直哉が言った。

「分かる?」

「分かるよ。俺もよく、そういう顔するから」

 ふたりで歩いた夜の公園は、どこか懐かしい匂いがした。


 ベンチに座って、遥はぽつりと呟いた。

「私ね、ちゃんとしてれば、大丈夫だと思ってたの」

「うん」

「でも、大丈夫じゃなかった。ずっと、壊れそうだった」

「……そうだろうね」

 直哉はただ、静かにうなずいた。

「誰にも言えなかった。女なのに、性と向き合う事が気持ち悪くて、寂しいのに誰にも触れられたくなくて…」

 それでも、直哉は動じなかった。

「ちゃんとしようとしすぎると、そうなるよね」

 遥は、初めて人前で泣いた。

 ただの人間として、壊れていてもいいと思えた。



第四章 似た者同士

「ねえ、直哉くんって、なんで逃げないの?」

 遥がふと、そう尋ねたのは、二人で静かな個室の居酒屋に行った日の帰り道だった。

 終電の時間が近づいて、都会の喧騒が少し落ち着きを見せ始めたころ。

 直哉は、すぐには答えなかった。

「……俺もね、ずっと逃げてたんだと思うよ。でも、逃げ続けたら、結局、自分のこと嫌いなままになるじゃん。

 それって、しんどいよね」

「うん……」

「俺ね、昔……ほんとに好きだった人に、触れられるのが怖いって言われたことがある。気持ち悪いって。それから、人を好きになるのが怖くなった。見られるのも、触れられるのも、怖かった。でも……遥さんと会ってから、なんか違うって思ったんだ」

 直哉の声は、静かで、震えていた。

 遥は思わず、自分の胸の内をさらけ出したくなった。

「私ね、男の人が怖かったの。無意識に見られる目とか、笑いながら触れてくる手とか。でもね、直哉くんなら話せる気がしたの」

 立ち止まった二人のあいだに、長い沈黙が落ちた。

 でも、それは苦しいものではなくて、どこか優しい時間だった。

「⋯⋯そういうの、俺たちだけじゃないんじゃない?」

「え?」

「世界のほうが歪んでるだけかもって思ってさ。俺たちは、ちゃんと生きようと無理しただけだよ」

 遥は、直哉の言葉に、不意に涙がこぼれた。

 誰かにこんなふうに言ってほしかったのかもしれない。

「ちゃんとした人間」じゃなく、「傷つきながらちゃんとしようとしてきた人間」として、見てほしかったのだ。

 その日、遥は初めて、直哉の家で朝まで過ごした。

 何もなかった。ただ一緒に、眠っただけだった。

 けれど、それがどれほど大きな一歩だったかを、遥はよく分かっていた。



第五章 触れられたくない

 直哉の部屋。夜。

 その日は、映画を見ながら、並んでソファに座っていた。

 なんの下心もないそのぬくもりに、少しだけ心が安らぐ。

「ねえ……遥さん、今日は泊まっていく?」

 直哉の声は、いつも通り優しかった。

 遥もこくりと頷く。

「ありがとう……」

 眠る前、歯を磨いて、布団に入る。

 今日は隣にもう一組、布団を敷いてくれていた。

 ちゃんとした距離感。遥はほっとする。

 でも、その夜、ふと目が覚めた。

 眠れない。

 隣の布団から、静かな寝息が聞こえる。

 遥はそっと布団を抜け出して、リビングのソファに座った。

 真っ暗な部屋の中、ただ、自分の心臓の音が聞こえる。

 ──直哉くんは、優しい。

 でも、もし触れられたら、私はまた、拒絶してしまう気がする。

 安心するのに、性的な感情が一切湧かない。喉が詰まる。

 逆に、彼の手が自分に触れたら……きっと私はまた、あの時みたいに、壊れる。

「……最低だな、私」

 遥は、ぽつりとつぶやく。

 好きなわけじゃない。恋愛感情じゃない。

 でも、逃げてほしくない。

 でも、抱かれたくもない。

「どうしたいの?」と聞かれたら、答えられない。

 自分が矛盾しているのがわかっている。

 だけどどうしようもない。

 直哉の足音が近づいてくる。

 遥はびくっと身を強ばらせる。

「……起きてたの?」

 直哉が静かに尋ねる。

 遥は、言葉が出なかった。

「……無理しなくていいよ」

「……え?」

「触れてほしくなければ、それでいい。

 俺は、ここにいるだけでいいから」

 その一言が、遥の中の何かをほどいた。

 目から、涙がすっと落ちる。

「……ごめんね」

「謝ることなんか、なにもないよ」

 直哉は、隣に座ったけれど、触れてこなかった。

 ただ、同じ闇の中に、同じように座ってくれていた。

 その沈黙が、遥にとってどれほどの救いだったか──

 彼には、きっとわからなかったかもしれない。

 でも、遥は知っていた。

 これは「治す」ための夜じゃなく、「壊れてても、いていい」と思える夜だった。



第六章 名前のない関係

 朝。

 薄く差し込む光の中で、遥はリビングのソファでまどろんでいた。

 隣にいた直哉は、毛布を遥の肩にかけて、もう起きていた。

 キッチンから聞こえる、小さな物音。

 卵を割る音、コーヒーの香り、トーストの焼ける匂い。

 遥は目を細めた。

 ああ、朝が来たんだ──そんな、当たり前のことに安堵する日があるなんて、昔は思わなかった。

「おはよう、遥さん。朝ごはん、作ったよ」

 振り返ると、エプロン姿の直哉がいた。

 無造作に結んだ髪、眠たそうな目、でも、どこか静かな温度のある顔。

 遥は思わず笑ってしまった。

「……なんか、変なの」

「え、どこが?」

「この感じ。私たち……恋人でもないのに、家族でもないのに、こんなに、安心できるなんてさ」

「うん。でも、それでいいんじゃないかな」

 直哉はそう言って、食卓に座った。

 遥も向かいに座り、トーストに手を伸ばす。

 熱々のそれをかじると、ちょっとだけ焦げていて、香ばしかった。

「私さ、ずっと『触れられるのが怖い』と思ってたけど……」

「うん」

「本当に怖かったのは、自分の気持ちがバラバラになることだったのかも」

「バラバラ?」

「うん。安心したいのに、触れられると拒絶したくなる。愛されたいのに、誰かの欲望に触れると、不安が強くなって……」

 遥は、言葉を選びながら言った。

「……私が触れていたのは、人じゃなくて、過去の恐怖だったんだと思う」

 直哉は、黙って聞いていた。

「でも、不思議だね。直哉くんには触れられなくても、傍にいられると、過去じゃなくて、“今”を感じられる」

「それ、たぶん……俺も似てるからだと思う」

「え?」

「俺も、過去に触れたくなくて、触れられるのが怖くて、人の期待とか役割の中に逃げてた。でも、“ちゃんとする”のをやめたら、自分の居場所が見えた気がしたんだ」

 遥は、じっと彼を見つめる。

 その目の奥に、自分と同じ“無理してた自分”を感じる。

「じゃあ、私も──ちょっとずつ、降りていっていいのかな」

「もちろん」

「“ちゃんとしない自分”を、ここに置いてもいい?」

「遥さんの全部が、ここにいていいんだよ」

 ──この人は、私の「正しさ」を期待しない。

 だから私は、この人のそばで、自分の弱さに触れていける。隣にいてもいいと、心から思える。



第七章 帰る場所

 職場の空気は変わらずピリついていて、誰かの評価、立ち位置、成果。

 そうした“目に見えない戦争”が、静かに、でも確実に繰り広げられている。

「遥さん、こっちの案件もお願いできますか?」

 部下の言葉に「はい」と答えながら、遥は心の中でため息をついた。

 いつからだろう。“できる女”を演じるのが、日常になっていたのは。

 ──ちゃんとしなきゃ。

 ──期待に応えなきゃ。

 ──強くいなきゃ。

 無意識に、自分の輪郭を削りながら、他人に合わせていた。

 いつしか、自分の本音をどこに置いたかも忘れてしまっていた。


 昼休み。

 一人でビルの屋上に出て、風に吹かれながら、遥は携帯を見た。

 直哉からの短いLINEが届いていた。


『仕事帰り、良かったらうちにおいでよ』


 遥はその文を見た瞬間、涙がこぼれそうになった。


 その夜。

 遥は直哉の部屋のソファに座り、スーツのジャケットを脱ぎ、靴を脱いだ。


「おかえり」

「ただいま……あのさ、直哉くん」

 遥はぽつりと言った。

「私、“ちゃんとしなきゃ”って、ずっと思ってた。職場でも、家族でも、恋愛でも。でも、もう……無理かも」

 直哉は鍋の中をかき混ぜながら、うなずいた。

「うん。いいと思うよ、やめてみても」

「そんな簡単に言わないでよ……」

「簡単にじゃないよ。でも、“やめてもいい”って言う人、あんまりいないからさ。俺が言っとく」

 遥は、泣き笑いのような表情で、うつむいた。

「私ね、あなたに触れられると、安心する。なのに、同時に嫌悪感があるの。あなたじゃない。“触れる”ことそのものに。こんな矛盾、どうしたらいいの」

「それ、普通のことじゃないかな」

「普通……?」

「人間って、矛盾の塊だよ。俺もそうだし。好きなのに離れたくなったり、近づきたくて避けたくて……。そのままの遥で、ここにいてくれていいよ」

 遥は微笑んだ。

「ありがとう、直哉。私、もう少し、自分を許してみる」


 遥は少しずつ変わり始めた。

 本当に自分が感じていることに耳を傾けるようになった。

 仕事では、完璧を求めるプレッシャーに囚われることなく、自分のペースで業務をこなすことを意識し始めた。

 ミスをしたり、予定通りにいかないことがあっても、それが必ずしも大きな問題ではないことを理解した。

 直哉との関係も、自然と深まっていった。彼に対して抱く違和感や嫌悪感は、少しずつ和らいでいった。

 最初は、触れられることに強い拒絶反応を示していた遥だったが、彼が隣にいると安心できるようになっていった。 



第八章 降りていく場所

 会社の会議室。

 遥は資料をめくりながら、上司の小言を右から左へ受け流していた。

 “もっと愛想よく。もっと積極的に。もっと周りと協調して”

 ――“もっと、もっと”って、いったい何をどこまで求められるんだろう。

 家に帰っても、SNSには「ちゃんとしている誰か」が溢れている。

 結婚して、子どもを育て、料理をして、キラキラした言葉で日常を彩っている。


「……ああいうの、全部嘘だとは思わないけど、あそこに自分がいなきゃいけないって思い込むのは、しんどいよね」

 その夜、直哉がふとつぶやいた。

 コンビニの帰り道。缶コーヒーを片手に、道端に座り込んで、夜風に吹かれながら。

「“ちゃんとする”のって、時々、暴力的だよね」

 遥は苦笑しながら言った。

「うん。でもさ、俺は遥が“降りて”も、ずっとそばにいるよ。むしろ降りた方が、ずっと魅力的だと思うし」

「……どうしてそんなふうに言えるの?」

「俺もずっと“ちゃんとできなかった側”だからかな。誰にも言えなかったし、自分でも責めてたけど……でも、君といると、“できなかった自分”のこと、ちょっとだけ許せる気がするんだ」

 遥は黙って、彼の隣に座った。

 夜の街は、あいかわらず騒がしくて、

 どこかがうるさくて、どこかが静かだった。

「降りていいんだね」

「うん。降りたって、ちゃんと生きてるよ。それに……君が降りた場所には、俺がいるから」

 遥はそのとき、不思議と涙が出そうになった。

 降りることは、負けることじゃない。

 “ちゃんとしない自分”を肯定してくれる誰かがいるなら、その場所が自分にとっての家になるのかもしれない。

 数週間が過ぎ、遥の生活は少しずつ変わり始めた。

 仕事では、少し前まで完璧を求められる場面で手を抜くことができるようになった。

 ミスをしても、何かを失ったわけではないと、心から思えるようになった。

 そして、家では、直哉と一緒に過ごす時間が心地よくなっていった。

 無理に「何かをしなきゃ」と焦ることもなく、ただ二人で過ごす時間が、

 遥にとっては一番大切なものになった。


 直哉には、何でもないような事でも電話ができた。

「最近、仕事が楽しいと思える事が増えてきたよ」

 遥は少し照れくさい笑いを浮かべながら、そう言った。

 直哉は、いつものように静かに答えた。

「それが一番だよね。良かった」

 そして、続けた。

「──遥の中で、守らなきゃって思ってたもの、たぶん本当に大切なものだったんだと思うよ。でも、それを“壊れた自分”って言わないで。俺は、壊れててもいいと思ってる。……俺もそうだから」

 遥の目に、涙がたまっていた。

 涙は、罪悪感ではなく、少しの安心に似たものだった。

「逃げないでいてくれて、ありがとう」

 その言葉に、直哉はただ、小さく笑ってうなずいた。

 それから数日。遥は何度も、直哉の言葉を思い返していた。

 “壊れててもいいと思ってる。……俺もそうだから”

 それは、どんな専門家の助言よりも、自分の中に深く染み込んでいった。


 仕事においては成長し、少しずつ自分を表現できるようになったが、

 内面の中でまだ解決していない部分が残っていることに気づいた。

 それは、性に対する恐怖、嫌悪感、そして人に対して心を開くことの怖さだった。

 彼女が「あるべき形」を強く求めてきたのは、社会や家庭からの圧力だけではなく、自分自身が抱えていた深い不安から来ていた。

 幼い頃から「性」は悪いことだと教え込まれ、それに対して異常なまでの抵抗を感じるようになった。

 その結果、遥は性に対する恐怖と嫌悪感を深く内面化してしまっていた。

 しかし、直哉との関係の中で、遥は少しずつその壁を乗り越えようとしていた。

 直哉は、遥が拒んだ時も、無理に迫ることは決してしなかった。

 ただ、彼は遥が本当に安心できる瞬間を待っていてくれた。

 その優しさが、遥にはとても心地よく感じた。

「性」とは一体何なのだろう?

 遥はその答えを探し続ける日々を送っていた。

 だが、今は少しずつその答えに近づいているような気がしていた。



第九章 波紋のように

 遥は少しずつ心の中で変化を感じ始めていた。

 その変化は急激なものではなく、まるで時間をかけてゆっくりと広がっていく波紋のようだった。

 しかし、確実に自分の内面で何かが動いていることを感じていた。

 毎日仕事に追われる中で、遥はふとした瞬間に直哉との会話を思い出すようになった。

 そしてその度に、自分が本当はどう生きたいのかが少しずつ見えてきた。

 その日も、仕事を終えた後、遥は直哉に会う約束をしていた。

 カフェで待ち合わせ、二人はいつものように静かな時間を共有していた。

 会話は普段通り、軽い話題から始まり、少しずつ深い話へと進んでいった。

 遥は直哉に、自分が最近感じている事について話し始めた。

「直哉と過ごせる時間が、私は凄く嬉しい。...でも...色々、迷惑かけてるよね。ごめんね...」


 窓の外を見つめながら、直哉はふと呟く。

「…俺さ、遥が、そういうのを求めてこないの、実はすごく安心してたんだよね。」

 遥は驚いて彼を見た。「え?」

 直哉は、少しだけ視線を落としながら続ける。

「俺、昔付き合ってた人がいたんだけど……ちゃんとできなかったんだ、心が。相手は何も悪くなかったのに、近づかれると逃げたくなって。自分でもわからなかった。好きなのに触れられたくない。相手を傷つけるのが怖くて、自分から離れた。」

 沈黙が流れる。

「だからさ、遥が『そういうの無理かも』って言った時、ちょっと救われたんだよ。一緒にいて、何も求め合わなくていい。ただ隣にいるだけでいいって、そう思えたことが、俺にとって初めてだった。」

 遥の胸に、何か温かいものがじんわりと広がっていった。

「……そっか。私も、直哉にそう思ってもらえて、良かった」

 二人の間に流れる空気が、また少し変わっていった。


 その後も二人はしばらく話し続け、やがて別れの時間が近づいた。

 遥は直哉に微笑んで言った。

「ありがとう、直哉。あなたと話すと、何だか心が軽くなる」

 直哉は穏やかな笑顔を返し、少しだけ頷いた。

「僕もだよ、遥。君が少しずつでも前に進んでいるのを見ると、僕も嬉しい」

 帰り道、遥は心の中で自分の歩みを感じながら歩いていた。

 これから先、まだまだ多くの壁にぶつかることがあるだろう。

 でも、彼との関係がある限り、少しずつでもその壁を乗り越えていける気がした。

 そして、遥は再び自分に問いかけた。

「これから、私はどう生きたいのだろう?」

 その答えが少しずつ見えてきているのを感じていた。

 今はまだ模索している最中だが、遥は確かに一歩を踏み出したのだ。



第十章 過去を越えて

 いつものカフェに向かうと、直哉が静かに座っている。

 彼の存在は、遥にとって常に安らぎであり、時には自分を見つめ直す鏡でもあった。

「こんばんは、直哉」遥が声をかけると、直哉は優しく微笑んで応えた。

「こんばんは、遥。どうした?今日は少し元気そうだね」

 遥は少し戸惑いながらも、心の中で感じていることを話し始めた。

「最近、過去の自分を少しずつ受け入れられるようになった気がする。でも、まだ完全に自分を許せていないんだ」

 彼女の目には少しの悩みが映っていた。

 直哉は、遥の言葉を静かに受け止めた。そして、ゆっくりと答える。

「君は、ちゃんと歩んできたよ。でも、過去を完全に忘れることはできない。大切なのは、今どう生きるかだと思う」

 その言葉に、遥は少し涙をこぼしそうになった。

「でも、私は自分に対して罪悪感を感じてしまう。過去の自分を否定するのが怖くて、それが私を縛りつけてる」

 遥の声には、心の中で抑え込んでいた感情が漏れ出していた。

 直哉は少しだけ間を置いてから、静かな声で言った。

「君は、もう過去の自分を許してあげてもいいんじゃないかと思う。その経験があったからこそ、今の君があるんだ」

 遥はその言葉に少し驚いた。

 直哉の言うことが、なぜか彼女の心に染み込んでいくのを感じた。

 過去を否定して生きることが、実は自分を縛り続けているのではないか。

 過去の自分を受け入れることで、初めて本当に自由になれるのかもしれないと感じた。

 その時、直哉は静かに言葉を続けた。

「無理にちゃんとしなくてもいいんだよ。君は“そのまま“で良い」

 遥はその言葉に、深く胸が震えるのを感じた。

「ありがとう、直哉」彼女は小さく呟いた。

 その後、二人はしばらく黙って過ごし、ゆっくりと帰路についた。

 遥は歩きながら、自分の中で何かが変わっていくのを感じた。

 過去の自分を受け入れ、他人と比較して生きることから解放される感覚。

 そして、直哉との関係が深まる中で、少しずつでも自分を認められるようになってきた。

 彼の存在が、遥の心を少しずつ解きほぐしていくような感覚があった。

 そして、少しずつではあるが、遥は自分を“ちゃんとする“ことから解放され、ただありのままの自分を受け入れられるようになった。


 二人は並んで散歩していた。

 秋の風が心地よく、紅葉が足元でカラフルに舞い散る。

 公園の並木道は、夕陽に照らされて黄金色に染まっていた。

 木漏れ日が地面に揺れる光の模様を描いている。


 遥はふと足を止め、空を見上げながら言った。

「直哉、私はもう少しだけ自由になりたいと思ってる。でも、それって、どういうことなんだろうね」

 空には、ひつじ雲がゆっくりと流れていた。風が吹くたびに、葉がカサカサと音を立てて舞い、まるで誰かが小さく笑っているようだった。

 直哉は少し考えてから、優しく答えた。

「自由って、自分を受け入れて、本当の願いに気がつける事だと思う。そうすれば、弱さと思っていた事が、強さに変わっていく気がするんだ」

 彼は遥に目を向けて、柔らかく微笑んだ。

「君が自分を受け入れて生きることが、周りの人にも良い影響を与えると思う。少なくとも、俺はそうだったから」

 遥はその言葉に深く頷き、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。

「ありがとう、直哉。あなたがいてくれて、本当に良かった」

 直哉は少し照れくさそうに笑い、遥の隣でまた歩き出す。

「俺もさ、まだ自由が何なのか、分からないときがある。でも遥と話してると、ちょっとだけ見えてくる気がするんだ」

 遥は空を見上げながら、小さく息を吸い込んだ。

「私もそう。少しずつ、自分のまま、生きてみる」


 その道すがら、小さな子どもたちの笑い声が遠くから聞こえた。枯葉を蹴りながら走り回るその姿に、遥はふと未来のかけらを見た気がした。

 冷たくなり始めた風が、ふたりの頬をやさしく撫でた。

 その風の中に、確かに今ここにいる命の温かさがあった。


 決して完全ではない。それでも、壊れていても、欠けていても、そのままで重なれるもの。きっと、こんな想いが、静かに、確かに、世界を支えているのだろう。


 了

読んで下さり、有難うございました(>ω<)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ