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キシとヒスイの告解


彼は天才と呼ばれていた。

思いのままに裁判をコントロールし、依頼者に最大の利益を常に与えられる。

将来を嘱望されていた。

いずれは裁判官になり、その中でも更に上へと登っていくことを期待されていた。

まさしく、期待のホープだった。


彼の死は、彼を知る全ての人が嘆き悲しむことだった。そして、同時に彼らは疑問を抱いた。

何故、彼は自ら死ぬことを選んだのか。




「提出する証拠はこれで全部となります」

キシの対面に座る検察官の顔が険しくなる。

「これこそが、私が彼を無罪であると確信している要素です」

キシは自分の出した証拠をまとめた紙のうち一枚を手に取り、自慢げに語る。

「たとえ起訴したとして、この証拠がある限り、有効な判決は下せないでしょう」

検察官も頷かざるを得ない。

「不起訴処分で、よろしいですね?」

そのキシの言葉に、検察官が頷くと、キシもまた、満足そうに頷き、去っていく。


彼は腕時計を見る。約束の時間がすぐそこだ。

拘置所へと彼は足を運ぶ。今日はそこに用事がある。

アクリル板一枚を隔てて、キシと容疑者、ここではAと呼ぼう。そう、Aが対面していた。

こうやって対面するのは初めてではない。既に三、四回程対面し、今後の方針を話し合っていた。

「それでは、変わらず不起訴処分、ひいては無罪判決を狙っていくということで良いでしょうか?」

Aは、組織的な売春行為と、それに類する罪で現在拘留されている、ある病院の院長だ。

「あくまで、行ってしまったのは脱税であり、それも病院運営と孤児院運営、その双方を行っていた事によるヒューマンエラーが原因だと」

Aは頷く。彼は病院運営の傍らで、近隣の孤児院の運営も行っていたという。つまりは、人格者として名を馳せているような人間だ。

「全く、心外な訴えです。聞いたところでは被害届を出したのは以前うちの病院に通院していた精神病患者だという事で……警察もよく動きましたね」

「近年はそういう犯罪に警察も敏感ですから……ともかく、現状だと不起訴か起訴か、五分五分です」

Aは残念そうに首を振る。

「病院内の資料も押収されてしまいましたし……こちらの主張を裏付ける証拠か、あちらの主張の矛盾となる証拠を見つけなければなりません。まずは、証言を集めたいと思います」

「うちの病院内に詳しい人を知っています。少し前までそういった事務管理を行っていた人です。まずはその人に聞くのがよいかと」

そういってAはある場所の住所と電話番号を伝えた。

「建設会社……?」

「今は転職してそこの事務をしているそうです。お恥ずかしい話ですが、彼がいなくなったこともうちの病院の杜撰な管理に繋がってしまい……脱税などするつもりは全くなかったのですが……」


「時間です」

壁の向こうから声を掛けられた。延長は可能だが、そこまで話をすることもないと考えたキシは最後に一言二言確認をして、その場を去る。


キシは書いてある建設会社へと向かった。雑多なビルの一室が事務所であるようだ。

扉をノックする。中から低い男の声で、どうぞ、と言われる。

中に入ると、大柄な男達が睨むような、品定めするような目で見てくる。その中の一人が、奥へどうぞと言ってくる。

進むと、小さな部屋に辿り着く。ノックすると、中から焼けた肌のスキンヘッドの男が出てくる。男は、扉の奥を指す。キシが恐る恐る中に入ると、顔に傷跡のある、スーツを着た男が座っていた。

男はキシを見るなり

「Aさんを弁護している方ですかね?」

と言ってきた。キシが頷くと、男は椅子に座るよう促してくる。

「一応、Aさんに連絡を頂いて、昔の記憶を引っ張り出してきました」

そう言って一枚の紙切れを見せる。そこには、何人かの氏名、役職、住所が手書きで書いてあった。

「多分本当はこういうのはダメなんでしょうけどね、まぁ、許してください」

キシは紙を受け取る。

「特にその一番上の人、その人は話をよく聞くべきですよ」

何故かとキシが問うと、男は返答した。

「今回の事件の被害者と名乗る患者と親しかった、と記憶しているので」

そうですか、とキシは返す。

「まぁ、私が出来ることはこれくらいなんですけど……」

そこで男は話を切り、頭を下げてきた。

「Aさんをよろしくお願いします、あの人は善人です。こんな罪で裁かれる謂れはないです」

キシは頷く。そのとき、部屋の扉から、先程すれ違ったスキンヘッドの男が顔を出してきた。

「ああ、すいません、今入り用でして……そろそろ……」

キシは協力に感謝を述べて、そこから去る。


キシのいなくなった部屋で、スーツの男が、スキンヘッドの男に確認していた。

「ちゃんと裏から手を回してるよな?あの女はしっかり締めとけよ。なんせ、院長殿を裏切った女だ」

スキンヘッドの男は問題ないと返す。

「まったく、弁護士なんかに頭下げて必死に騙して……ちっ、まぁ、しょうがないか。組との関係が悟られたらコトだしな。組付きの奴は使えん」

スキンヘッドの男は頭を下げて、スーツの男に対する敬意を表す。

スーツの男は一度深く溜息を吐くと、仕事と称した犯罪行為を行っていく。


そんなことも露知らず、キシは、紙に書かれた人を尋ねる。

彼女は家に篭っていた。キシがインターホンを鳴らすと、怯えた様子でチェーンを付けたまま扉を開ける。

「えっと、チェーンを外して頂けないでしょうか?話も長くなるでしょうし」

彼女は拒もうとしたが、中から別の女性の

「玄関前でそんな話して、ご近所さんに見られたらどうするつもり!?早く中に入れなさい!」

という声に負けてか、渋々チェーンを外し、中に招いてくれた。

その女性の髪はボサボサで、目元には濃い隈が出来ていた。

「先程のはお母さんでしょうか?」

キシがそう問いかけると、彼女は力なく頷いた。

「えっと、私はこちらに話を伺いに来たのですが」

キシと女性が玄関前で話す。女性は中に案内するつもりもなく、また、キシも上がり込むつもりはなかった。

「……です」

女性はボソボソと喋る。キシは聞き取れず、聞き返す。

「証言を撤回したい……です……」

その時、上の階から怒鳴り声のようなものが聞こえてくる。

「あ……すいません……兄です……この間、仕事を首になって……」

「いや、それよりも、証言を撤回したい、って……」

女性は持っていたノートを見せた。

「これを……見ると、前言ったことは、違ったので……」

キシがノートを借りようと手を伸ばすと、女性はノートを引っ込めた。

「えっと、その、患者さんのプライバシーなので……」


「それならですが、えーと、まず、証言というのは、どこからどこまで?」

キシは自分の手帳を開き、メモを取る準備をする。

「私が、警察の人に話したのは、その、院長が孤児院から少女を連れ出して、その、部屋に閉じ込めたあと、その鍵をあるロッカーに入れたっていう……」

それはキシも知っていた。Aの行った犯罪方法として、孤児院から少女を連れ出し、ある病室に放り込む。外から鍵をかけ、その鍵をあるロッカーへ保管する。そこに別の人が来て、鍵を取り現金を置いていく、という手口だと書かれていた。

まさか、目の前のこの女性が、その証拠となる供述をしたと?


「その証言の、撤回ですか……?どこからどこまで?」

女性は一度息を吸い、苦しそうに言葉を絞り出した。

「孤児院から連れ出した、という部分と、鍵を別の場所に隠した、と、言ったところを……」

流石にそれはキシも不安げな顔になる。

「それでは、証言の方向性が全く変わってしまいます。それは、揉めますよ……」

女性はその言葉を聞き、少し不安げになる。

しかし、奥歯を噛み締めたように、覚悟を決める。

「いえ、それで構いません。このノートに、当時のことが少しですが書いてありました。院長が孤児院から少女を連れ出したのは真実ですが、それはあくまで、その少女の就職支援として病院を紹介していただけでした。精神病患者を軟禁したことについては全く関係ない、医療のための行為でしたし、鍵はしっかりと保存されていたと思います。当時、私の家の鍵が一つしかなくて、ロッカーで母や兄と共有していたことと混同したのだと思います。警察の人に供述した後にこのことに気付き、どうしようかと思っていたんです」

急に饒舌に話し始めた。まるで、用意していた言葉をそのまま語っているように。

その余りの剣幕に、キシも頷くしか出来なかった。

「分かりまし、た。では、その、今後改めて証書を作りたいのですが」

「私が、そちらの事務所まで行きます」

女性は頷くと、そう言う。その後少し悩ましげに天井を見る。その視線の先には、恐らく先程言っていた兄が居るのだろう。

キシはその提案を受け入れ、一言二言事務的なやりとりをして、その家を去った。

玄関を出て、家を振り返ると、家の裏に、やや不審なバンが停まっていた。

その中にどんな人物がいるのか、キシには分からない。


それからキシが尋ねた何人かも、また、Aに好意的な、もっと言えば、裁判で有利になるであろう証言を残していった。

あまりにも都合がよすぎる。キシは今までの自分の、短いながらも濃い経験からそう感じた。


しかし、キシはそれ以上調べなかった。それは怠慢であるとも言えるが、それ以上に、キシには仕事が山積みであった。

早く解決出来るならば、それに越したことはない。彼の頭に、その考えが過ぎった。


そしてそのまま、Aの不起訴処分が決定した。

胸にしこりを残したまま、この事件は終わったように思えた。





谷の底で車が燃えている。

周囲には誰もいない。中にいた人も、当然生きてはいないだろう。

どこか、遠くの家で、一人の少女が、両親の帰りを待っている。

少女、ヒスイの待つ両親は、もう二度と帰っては来ない。


葬式が終わり、ヒスイは天涯孤独の身となってしまった。

両親の残した遺産は、事故の後始末と葬儀、債務整理で殆どが無くなった。

後には、小学校を卒業して間もない少女が一人、残された。

ヒスイは少し離れた街の孤児院へと預けられた。

彼女は、両親が死んだ時が人生のどん底だと思っていた。

ここからが真のどん底の始まりだと、知ることもなく。


彼女は孤児院で、覚悟していたよりもずっと良い暮らしをさせて貰えていた。

旧病棟を改装した孤児院は、施設自体は古びていたものの、待遇は非常に良かった。

かつての病室をリフォームした部屋は、一人一つ与えられており、一人になれる時間も多く作られていた。

食事は隣の病院食と同じものが用意されているらしく、栄養面では完璧に近いものが提供された。


職員も皆優しく、暮らしやすかった。

ヒスイと同じように両親を失った子が、孤児院のことを天国と呼んでいた。

確かに、新しく綺麗なような家ではなかった。

ただ、古びた施設でも、皆と助け合いながら暮らしていくその生活は、楽しかった。

ただ、一つ新しい家で恐れたのが、心霊現象だ。


ヒスイもまだ中学生になったばかりである。いや、正確には小学校を卒業して、中学校に入学する直前だから、まだどちらかと言うと小学生か。

ともかく、そんな子供にとって、旧病棟をリフォームした施設での怪談は、リアリティのある恐怖だった。

それは特にヒスイよりも小さな子達の集まりで、よく話される内容だった。

ヒスイは試しに、そのいくつかを子供達に尋ねた。

「人のいなそうな所にいくと、女の人が泣いてる声が聞こえるんだ!どっから聞こえるのかはわかんないけど」

「俺、それ聞いた事あるー、三階の廊下の隅で泣き声がしてた!やばい!」


「その女の人は夜な夜な人体実験に連れてかれてるんだよ、新しい方の病棟あるじゃん、あの地下……!」

「なんでそんなこと分かるんだよー!夜は病院の方行っちゃいけないって言われてるじゃん!」


「あ!でも、私、女の人がどっかに行ってるの見た!誰かは分かんなかったけど、髪長かった!」

「俺も見ちゃった!夜トイレ行った時、くらーい廊下を女の人が歩いてて、俺もうびびっちゃって!」

キャッキャッと子供達は話している。


これらは全て、子供達の間で囁かれる噂に過ぎない。そうヒスイは思い込み、それでも夜は早く寝て、途中で起きたりしないように気を付けていた。

そして、ここでもう少し長い期間をを過ごしたヒスイならばわかる。これらは、全て真実だったのだ。

それらは、連綿と続く人の負の側面の一端だった。


そう、あれはヒスイが孤児院に来て一年が経った頃の事だった。

彼女はこの環境に慣れ、愛着も湧いていた。

事実、彼女には親友と言えるような人が何人も出来た。

両親の死の悲しみも、彼女は忘れられる期間が増えた。

新しい学校も、少し嫌な人はいるが、友達も出来て、充実していた。

彼女はこの孤児院にいて良かったと思えていた。幸せに毎日を暮らしていた。

そんな頃の事だった。


彼女は、自分の机の上に、見覚えのないファイルが置いてあることに気付いた。

機密、院長以外閲覧禁止、そう書かれたファイルに、彼女は興味を惹かれた。

辺りを見渡し、部屋の鍵を閉め、彼女はそのファイルを開いた。


「資金繰り失敗 今季末で孤児院廃棄」

ファイルの一ページ目、赤文字で大きく書き込まれたその一文を、彼女は二度読み返した。

心臓が酷い音を立てる。部屋を見渡す。今度は、人が居ないかの確認では無い。これが夢でないか、幻でないか。そして、この部屋を、孤児院を、友人を、全てを失うという現実を、否応なしに頭に染み込ませるために。


ファイルを勢いよく閉じ、彼女は布団に飛び込んだ。

頭の中では、グルグルと悪夢のような想像が巡っている。全てを失い、また一人になるということ。

彼女は、両親を失った時のような絶望感が、足先から染み渡ってくるのを感じていた。全身の血の気が引いていく感覚。


夜、孤児院全体が消灯した後。ヒスイは一人で、持出禁止のファイルを持って、院長室へと向かっていた。

戸を開く。部屋の真ん中で、院長が、丸眼鏡をかけて何かを読んでいた。ヒスイに驚いた様子で院長は顔を上げる。

ヒスイは何も言わずに、ファイルを見せる。院長が微かに眉をひそめ、尋ねる。


「……中身を、見たんですか?」

ヒスイが頷く。院長は、大袈裟に天を仰ぐ。

「私に、出来ることは、ない……?」

ヒスイが、絞り出すように尋ねる。

「何でもするから、私、本当に、何だって、するから、ここを、潰さないで」

段々と彼女の目には涙が溜まっていく。視界は滲み、思わず俯いてしまう。

院長は立ち上がり、そんなヒスイの頭を優しく撫でた。

「……何でもするなんて、言ってはいけない」

ヒスイは首を振る。彼女は院長の服に縋り付く。

「お願い、私に、出来ること、何だってするから」

顔は涙で一杯になり、呂律も回らなくなっていく。

「お願い、お願い……お願い」

ただ、同じ言葉を発するだけのヒスイを、院長は優しく撫でる。

「…………もし、君が、本当に、何でもすると言うなら、一つだけ、方法がある」

ヒスイの顔が弾かれたように上がる。

「覚悟が必要だ。それも、強い。もし、君が、それをすると言うなら……明日、同じ時間に、ここに。……さぁ、もう今日は寝なさい」

ヒスイは、涙まみれになった顔のまま、何度も頷く。

そして、彼女が院長室の扉を閉じた後、彼女の背後で。院長が、醜く歪んだ笑みを浮かべていた。


暗い院長室で一人、院長が誰かと通話をしている。

「罪悪感、自らの選択……そして、まだ未熟な少女。そんな子らにこんな、洗脳じみたことをしたら、そりゃ検挙なんてされないですねぇ」

電話先で男がニヤニヤと笑いながら話す。

「何、証拠は無い。こちらは病院内の全員を意のままに証言させられるし、物的な証拠は一つも残しはしない。何せ、ここは私の病院だからな」

院長は、冷酷な顔でそう語る。

「しかし、検察の方か警察の方か、少し怪しい動きが見えます。ここから1,2年は気を付けるべきですね」

院長は当然だと言わんばかりに鷹揚な返事をし、電話を切る。

「さて、そろそろあの子が来るな」


院長は眉間を揉み、深刻そうな顔を演出する。部屋の電気を付け、いくつか用意を済ませる。そうしていると、ヒスイが扉の向こうから現れた。

「……誰にも、言ってないだろうね?」

院長は何の事かは言わずに、念を押すように尋ねる。

「……本当に、いいんだね?もう、後戻りは出来ないよ」

ヒスイは強く目をつぶった後、頷いた。


院長は、ヒスイの手を取り、暗い院内を歩く。

ある小さな部屋の前に、二人は着く。

院長はヒスイの背中を押し、彼女は一人で部屋に入った。

部屋の中には、一人の男が座っていた。

その男は手招きをして、ヒスイを横に座らせた。

「あなたは、その、何ですか?」

男はにこやかに答える。

「私が誰かなんて、重要じゃないでしょう?大切なのは、あなたが孤児院を守りたいという気持ち、だけですよね?」

男はヒスイの肩に手を回してくる。ヒスイは、それを拒否できない。

「君はどうしたい?ここで拒否すれば、君は何もしなくて済むよ。住む所は少し変わるだろうけど、それくらいさ」

男はヒスイの足に手を伸ばす。ヒスイは少し震えて、強く目をつぶった。

そこからのことは悪い夢のような心地で過ごした。その夜、ヒスイはよく眠れなかった。


それからも、同じようなことが何度も続いた。その度に、本当にいいのかと念を押されていた。

罪悪感はあった。ただ、それは単一のものではなく、自分や両親に対する罪悪感と同等に、ここで自分が折れれば、孤児院が続けられなくなるという、共に暮らしている仲間たちに対するものもあった。

孤児院を続けさせるために、院長も奮闘しているのに、裏切れないという思いもあった。とにかく、様々な物や人が、ヒスイを雁字搦めにして離さなかった。

ただ、ヒスイの中で、己、ひいては自分を産んでくれた両親に対する罪悪感が強まっていった。

汚らわしい行為を一つする度に、糞尿で塗りたくられたような悪意が、匂いが染み付いていっているような気がした。


一種の防衛反応なのか、段々とヒスイは己の心を殺していき、一年以上を悪夢のように過ごした。

そんな日々に変化が訪れたのは、ある曇った夜の事だった。

彼女はいつものように、相反する罪悪感を押し込めて用意された病室へと向かう。

扉を開けると、小汚い、太った男がベッドに寝転んでいた。

男はヒスイを見ると、ニヤニヤと笑いながら手招きをする。

ヒスイは流石に躊躇して一歩後ずさる。

男はその反応すら嬉しそうにニヤついた。


ただ、ヒスイはもうその場から逃げ出すことすら出来なかった。これまでの自分が、両親が、院長が、孤児院の子供達が、今まで出会った人全てが、自分を責め立てようとすぐ背に張り付いている気がした。

一歩前に進んだヒスイは、悪夢のような空間の中で自分の声を聞いた。ような気がした。

その声はこう言っていた。

「今まで、何をしていたと思うの?」

「私のしたことは正しい、でしょう?」

「お父さんもお母さんも、みんな認めてくれるわ」


ヒスイは、悪夢の中、薄らと目を開けて、目の前の小太りの男に、掠れた声で尋ねる。

「これをしたら、孤児院は、もう少し助かるよね?」

男は少し目線をさ迷わせた後

「まぁ、そういうことになってる」

その言葉がどことなく歯切れ悪そうだったので、ヒスイは問い詰めるように再度尋ねた。

男は明らかにタイミングを逃したかのように不機嫌になり、鼻息を荒くしながら返事をする。

「だから、そういう風に言えって言われたんだ!」

「もういいだろ!黙って目を瞑ってろ!……ちっ、萎えたわ、帰る」

ヒスイはその言葉を少し反芻するように脳内で回して、その意味を理解した時、弾けるように飛びかかった。

「誰!誰が……!誰に、そんな風に言えって……!」

ヒスイに飛びかかられた男は、しかし最初はよろめいたものの、元々ヒスイとの体格差は歴然、無理矢理ヒスイを突き飛ばし、ヒスイは床に転がる。

ヒスイは床に転がってからもずっと問い詰めていたが、男はそれ以上何も言わなかった。口を滑らせて言うべきでないことを口走ったことに気付いたのか、罰の悪そうな顔をしたまま、病室を出ていった。後には、一人ヒスイだけが薄暗い部屋に残された。


その場で暫く放心したあと、下を向いたままよろよろと部屋を出ていくと、院長にぶつかった。

院長はヒスイの肩を抱き締め、申し訳なさそうに囁く。

「すまなかった……今日は、辛かっただろう?」

以前までのヒスイならば、その言葉を素直に聞けただろう。

しかし、もうそれは出来なかった。

ヒスイは院長を押し退けて、自分の部屋へと帰って行った。


その晩、彼女は今までの全てを走馬灯のように思い出していた。

彼女の周りでは、両親が、院長が、子供達が、輪になって彼女を見ていた。

一つ走馬灯が駆け抜ける度に、それらの人々が、自分の幻影に変わって、自分を責めていく。

汚い体を、心を指差し嘲笑い、愚かな頭を呪う。

彼女自身が、彼女の全てを否定していく。

彼女は、自分の判断の全てを呪った。

そしてその時、孤児院の怪談の話を思い出した。

その怪談の主は彼女自身であり、また、他の女の子達であったことに、気付いた。

幾度も繰り返された犯罪。そして、これからも起きていく犯罪。

彼女は、それに気付き、しかし何も出来なかった。

孤児院が消えるのが恐ろしかったのかもしれない。我が身可愛さかもしれない。ともかく、彼女はその時行動出来なかった。


それが変わるのは、それから更に何ヶ月か経った後の事。

あの日以来、彼女が呼ばれることは少なくなり、しかしその分、院長から話し掛けられることが増えた。

それは警察の動き、ヒスイの変化、等様々な要因があるが、ともかく、彼女を取り囲む環境は少し変化した。

しかし、彼女は未だ過去のことに囚われて、かつ、それを誰にも告げられずにいる。

それこそが院長の狙いであるわけだが、彼女はそれにも気付けていなかった。


しかしある日、院長がいきなり、警察と名乗る人達に連れ去られた。

職員も多くが自宅待機を命じられ、彼女も一時的とはいえ部屋にこもり切りになった。

その間、彼女は部屋で一人、自問自答を繰り返していた。

毎日食事は部屋に届けられるが、基本的にはあまり外に出ることもなかった。職員の多くもいなければ、警察と思しき人達が常に、孤児院の中を見張っているからだ。


しかし、その軟禁に近い状態が、むしろ彼女を救った。

いや、救えてはいないが、しかし、彼女の思考に影響を与える院長の言葉が薄れていった。

孤児院にいる他の子供達に会わなかったことも幸運といえた。彼女にとって、孤児院という環境は最初、行動原理だった。困難に立ち向かう理由だった。しかし、それが今や、足枷となって彼女を縛っていた。

それらの洗脳に近い状態が薄れ、彼女は段々と思考が変化していった。


それは必ずしもいいものでは無い。前よりも更に自罰的になった。自傷行為も何度か行い、しかし、それは彼女にとって何も救いにならなかった。

鏡を見ることが出来なくなった。自分を見つめることに限界が来た。

しかし、彼女は一つ、ある意味では良いことをした。

告発を。これ以上、彼女のような被害者を産まないために。

そうして密かに書き上げた告発文を、警備の目を掻い潜り、いくつかの場所へ送ったその日。

院長、以前の文ではAと呼んでいたその男が、孤児院へと帰ってきた。

その目を、行動を見る度、ヒスイは目の前の男のことが恐ろしくなった。

彼が帰ってきた事で、彼女はよりおぞましいことをさせられるかもしれない。いや、予感ではなく、これは確信だった。


結局のところ、既に銃に弾は込められていたのだ。

ヒスイがいつ、引き金を引いてもおかしくはなかった。

ただ、告発がそれを先延ばしにしていただけだった。

院長と呼ばれる男の帰還。そして、告発文の完成。

自罰と、恐れと、そしてやり遂げたという幸福感。

やっと全てを忘れられる。捨てられると思いながら、彼女は、病院の屋上から飛び降りた。


それは、院長の手によって、精神病患者の発作的な自殺と片付けられた。


彼女の残したものは、もはや告発文一つとなった。

それは、いくつかの場所ではデマとして捨てられ、いくつかの場所では権力によって握りつぶされた。

しかし、ある一つが、届いてしまった。

ある職員が、ポツリと口に出した弁護士事務所。

その場所をヒスイは調べ、告発文をそこに送った。

しかし、手違いがあったのか、それが届いたのは、ヒスイが死んでから一月以上が経ってからだった。


それからの詳細は省くことにしよう。告発文を受け取ったキシは、必死に動いた。

真実を特定しようと、様々な人の協力を得ていった。

そして、辿り着いてしまった。普通の能力であれば、ただの凡人であれば、おおよそ普通の警察と同じような捜査能力であれば辿り着かずに済んだ真実に。


彼は、自分をこれ以上なく責めた。何故、Aをもっと詳しく調べなかったのか。何故、Aの事件の時に抱いた違和感を放置したのか。

彼は優秀であるが故に知ってしまった。そして、更に気付いてしまった。

自分が犯した過ちに。もはや、その過ちを修正することは不可能なことに。

Aの事件の時の原告は、連絡がつかなくなっていた。もはや、全ての道は閉じられていた。

キシが、己の過ちを正すために出来ることはひとつしかなかった。

彼は事務所で首を吊った。その足元には、ヒスイの出した告発文が広げられていた。


ヒスイの死は、何も変えられなかった。

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