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ヒスイ、アリス、クロト、アイは、島の南側、クロトの持っている地図に街らしき記号があった方向へ向かっている。

キシとネコハタの二人と別れる時、そこを合流地点にしていた。

「ごめんなさいね、大丈夫?」

アイの怪我した足の方を支えて歩くのは、三人の中で一番身長が高く、年齢も高いヒスイだった。

彼女は先程から分かるように大分無口な方で、誰ともあまり喋っていなかった。

とはいえ、流石に自分よりも大きなアイを支えているため、疲労を顔に滲ませていた。

「……はい」

それでも、小さく返事をするだけで、何も言おうとしたかった。


そうやって森を歩いている時、後方から爆発音がした。

キシたちの作戦は成功したのだろうか。分からないが、ともかく前に歩くしかない。そう結論付けて、太陽と地図を頼りにクロトが道を探り、アリスは荷物を持ち、ヒスイがアイを支え、歩き続ける。


そうして、森を抜けた先にあったのは、廃墟になったビル街だった。

壁には蔦が張り、いくつかのビルが倒れ、他のビルにもたれ掛かるような形になっていた。


「どっかに入ろう。とりあえず休まないと」

そう言って近場のビルに入ろうとするクロトをアイは引き止める。

「待って、崩れると危ない。せめて、もう少し丈夫な建物を」


「……丁度、あの病院みたいな?」

ヒスイが指した方向には、二階建ての、横に長い病院があった。

「あれって、病院なの?」

アリスが尋ねる。病院というには少し無骨で、殺風景な建物だった。

入口も窓も小さく、いくつかの窓には格子が嵌められていた。

まるで、監獄のように。

「とりあえずあそこで休みましょう。頑丈そうだし」

アイの提案に四人は病院の中に入る。入口はボロボロだったが、扉が開いたおかげで入れた。

アイを入口付近にあるベンチに休ませ、四人はその周りの地べたに座り込む。

「とりあえず、合流できるようなマークが必要ね」

「一応、地面に線は書いておいたよ」

アリスはアイに言われ、あの教会からここまで、枝で線を引いていた。

「でもそれだけじゃ確実性がないわ。なにか、もっとわかりやすいものが……」

アイが考え込む。

クロトが暇なのか足をばたつかせながら唇を尖らせる。

「なにか役に立つものがあるかもしれないし、俺、ぼうけ……じゃなくて、探しに行ってもいい?」

クロトは少しテンションがあがっているようだ。現代風のコンクリートの廃墟がそうさせているのだろうか。

「役に立つものってなに?」

「うーん、ケータイとか?」

アリスもまだまだ元気そうだ。子供だからだろうか。ご飯も食べてないのに。

「……ん?」

アイはなにか違和感に気付く。本来あるべきものがないような。

「なー、行ってもいいだろ?」

クロトが話しかけてきて、アイの思考は途切れる。

「んー、一人だと危ないからねぇ」

「ならアリス、一緒に行こうぜ!」

「君ら二人でもちょっとねぇ……」

クロトは提案をことごとく拒否され、周りを見渡す。

三人と少し離れた所で、周りを眺めながら休んでいる少女がいた。

「ヒスイさん、行こうぜ」

ヒスイは初めて三人に気付いたかのように勢いよく振り向く。

「クロト君がここを見て回りたいっていうんだ。一人で行かせるのは危ないからさ、」

「……いいよ」

アイの説明を遮り、ヒスイは返事をする。

その返事を聞き、クロトがガッツポーズする。

「じゃあ、行こうか」

そうしてすぐ立ち上がり歩き出す。クロトもその後を追う。

「二人共、気をつけるんだよー!」

アイが注意喚起する。二人はすぐに廊下の奥に消えていく。


玄関にはアリスとアイが残された。

「アリスちゃんは、どうしてここに来たの?」

「クロトに着いてった」

「あー、それより前とか、いや、言いたくなかったらいいんだけどさ」

アリスは首を傾げる。

「クロトに会う前?……わかんない」

「……うーん、そう……。あ、そうそう、二人はこの島から出たいんだよね?」

アイは意味ありげに頷き、話を変える。

「そう。クロトが……。アイさんは、どう?」

アイはそれを聞くと目線を逸らす。

「私?私は……どうかな。わからないや。

アリスちゃん。良ければ、モリさんの手帳、もう一回見せてくれない?」

アリスが頷き、手帳を渡すと、アイは座ったままそれを見始める。

アリスは体育座りで床を見つめながら、クロトの帰りを待っている。


ヒスイが先を歩き、クロトはその後を着いていっていた。

まるで道を知っているかのように、一直線に歩くヒスイは、いきなり一つの部屋の前で立ち止まった。

「なんかあった?」

クロトの質問には答えず、鍵を開けて部屋の中に入る。

その部屋は、他と比べて小綺麗な状態だった。

隣のヒスイが小さく息を飲むのが聞こえた。


二人は部屋の中に足を踏み入れる。

クロトは棚を、ヒスイは中央のベッドへ向かう。

棚には花瓶、風化した本、病院服、何かのフォルダがあった。

クロトはフォルダを手に取り、中身を見る。


手紙、何かのリスト、……絵?

幸せそうな家族の絵だ。そう。何の違和感もない、そゆな絵だ。

何故そんなものが、こんな場所に、こんな風に、保管されている?

それ自体が違和感なのだ。

そうだ。何かおかしいと思えば、この部屋。

鍵が外付けなのだ。


「ここから逃げられないように」

ヒスイがそう呟いた。

フォルダーの中のリスト、様々な人の名前が書かれている。

「そのリスト、客の名前が書いてあるの」

ヒスイがこちらに来て、見下ろしてくる。

今どんな表情をしているのか、何も分からない。

クロトが手紙の中を開こうとすると、ヒスイが上から手を押さえつける。

「遺書なんだ。それ」


クロトはヒスイを見上げる。彼女は変わらず、無表情なままだった。

それが異常なことだと、すぐには気付けなかった。

彼女はずっと無表情なのだ。まるで、感情などないかのように。

または、感情を押し殺しているようにも見える。


「ここは私の終着点。ここから、いつまで経っても逃げられない」

ヒスイは遺書をクロトの手から取ると、そっと窓際へ向かい、窓に嵌められた格子を撫でる。

窓の外の日は傾きつつある。夕日に彩られた島全体を覆う格子と共に、窓のすぐ前、二重になった格子が見える。

「大きな檻の中に、もう一つ檻があるみたいだ」

クロトがその感想を述べる。

そうだ、この部屋の鍵が外付けなのは、外から施錠するため。ここから出られないようにするため。

ここは檻なのだ。


「ここで何があったか、その遺書を読めば、分かる?」

クロトが尋ねる。ヒスイは答えない。

答えず、遺書をビリビリに破く。

「こんなもの、ただ悪意をぶつけただけの紙切れだよ」

ヒスイはそう言って部屋から出ようと踵を返す。

「なんで、遺書って分かったんだ?今もそうだ。中身を見ずに、まるで知ってるかのような事を言う」

クロトは後を追いながら質問を続ける。


ヒスイは前を向いたまま、小さな声で返事をする。

クロトからはその表情は全く見えない。

「幸せだった。12の冬までは」

「両親の乗った車が氷でスリップした。通行人8人を巻き添えにした、酷い事故だった」

「私は一人になって、ある病院に併設された孤児院に預けられた。それが向こう」

そこまで言って、病院の渡り通路の先を指す。

その通路の床は抜け落ち、とても先へ進める様子ではなかった。それだけでなく、向こうに見える別館は屋根が落ち、所々崩壊していた。

とてもまともな建築とは思えない。少なくとも、この病院と比べてもそうだ。

「旧館をリフォームしたって言ってたけど、出来るだけお金を使いたくなかったんだろうね。あそこは、いつも酷い状態だった」

「私は中学校に通う傍らで、仕事をさせられた。女にしか出来ない仕事だって」

「あそこはそうやって運営していた。病院を使って、怪しまれないようにしていたんだと思う」

「中学校でもいじめられた。不細工、人殺しの娘、買……」


そこで初めてヒスイさんは振り返った。相変わらず、表情は変わっていないようだったけど、その目は悲しんでいるような、怒っているような、静かな怒りを湛えた目だった、ような気がする。

「ごめんね、ちょっと汚い言葉が出そうになった。まだ小さいのにね」

「俺は、ヒスイさんは、不細工、じゃないと思う」

少し照れながらそう言うと、初めて小さく笑った。

「ありがとう、ね。嬉しかったよ」

そうして、初めて俺の頭を撫でる。

「私はね、もう私でいることが嫌なの。過去が、いつまでも私を追い詰めてくる。そんな妄想ばかりしてしまう」

「ごめんね、こんなことばっかり。私も、もう嫌になったの」

「帰り道はわかる?振り返って、真っ直ぐ歩いて、階段を降りたら、二人がいるはず」

「ヒスイさんは、どうするの」

前を向く。また、ヒスイさんの表情が見えなくなる。

「この先に、屋上がある。私が一度、飛び降りた場所」

それだけ言って歩き出した。

着いて行くか、迷って、悩んだ。

きっと、もうヒスイさんは決めてしまっている。

最後に俺に過去を語ったのは、きっと、誰かに覚えていて欲しいから。

……俺にも、その気持ちが分かる。

だから、進めない。


そうして少し迷っているうちに、建物の外から、水音のような、何かが潰れる音が聞こえた。

すぐに何の事かわかった。

せめて、祈ろうと思い、窓際へ寄る。


どこからか、カラスの声がする。

この島にもカラスがいるのかと窓へ手を掛けた瞬間。

何かが突っ込むような轟音と同時に、建物の一角が、クロトの目の前の廊下が、崩れる。

舞い上がる粉塵が収まり始めた時、その轟音を起こしたものの正体を見た。

あの不定形の怪物のような、醜い外見。

赤黒く盛り上がった肉の塊。

それが、鳥の形をして、クロトの目の前に降り立つ。


「……あ……」

クロトはすぐに気付いた。

これは、ヒスイなのだと。

ヒスイの成れの果てなのだと。

鳥はクロトを一瞥して飛び立った。


クロトが衝撃のあまり呆然としていると、また、振動と轟音が響いた。

きっと、ヒスイがこの建物を破壊しているのだ。

立ち上がる。そうだ。二人に会わなければ。


「それで、アリスちゃんは、クロトくんとどんな関係なの?」

アイとアリスが顔を近づけて話している。

「どんな……?」

「そうだね、クロトくんとはいつ会ったの?二人とも、仲良いでしょ!好きなの〜?」

ういうい、とアイがアリスをつつく。

「うん。クロトは好き。クロトは、私をいつも引っ張ってくれる」

アイがその言葉に笑顔になる。

「それで〜、他には?」

「……クロトは、この島から出たいって言ってた」

アイは笑顔のまま頷く。

「私も、そうしたい。クロトと一緒に、この島から出たい」

「かわいいねぇ〜!この島から出たら何したいの?」

「……わからない。私、この島以外の記憶がない」

その時、初めてアイの顔が真顔になる。

「……記憶が、無い?」


気まずいことを聞いてしまったと思ったアイは、黙って窓の外を眺める。

夕日が二人を橙色に染める。

「もう、一日が経つのね」

アイが寂しそうに語る。

「……不思議ね。私達、ここに来てから腹も減らないし、喉も乾かない。トイレにも行きたくならない」

アリスにはピンと来てようだが、アイは明らかに異変を感じていた。

そう、変化がないことこそが異変なのだ。


その時、建物全体に轟音が響いた。

すぐに反応したのはアイだった。

彼女は、キシたちの仕留め損ねた不定形の怪物が、やってきたのだと思った。

あの怪物は、昇降に弱い。アイがあの教会で感じた直感だった。

「アリスちゃん!すぐに、上へ逃げて!」

アリスは躊躇する。アイを置いていけないと。

「……私は大丈夫よ!ヒスイちゃんが戻ってきたら上に行くから、アリスちゃんは上に!」

アリスは振り向きつつも、アイの言った通り建物の奥へ向かっていく。

「……あっ!」

アリスが声を上げた時、二度目の轟音が響く。

その轟音の元は、受付。先程、アリスとアイがいた場所だった。

「アイ、さん?」

アイは返事をしない。


……気を失っていたアイが目を覚ましたとき、周囲は粉塵が舞い、瓦礫が散らばっていた。

どうやらアイの体は衝撃で吹き飛ばされたようだ。

アイは体を起こそうとして初めて痛みに気付く。

腹に刺さった、包丁くらいの大きさの小さな瓦礫。

それは十分に、致命傷になるものだった。


「……あ……」

アイは腹から溢れ出る血を抑えようとして、手を真っ赤に濡らす。

そうして真っ赤になった両手を見て気付く。私は死ぬのだと。

彼女は不意にポケットの中に、アリスに返し忘れたモリの手帳が入っていることを思い出す。

「ペン、ペン……」

辺りを探ると、瓦礫の下に、一本のボールペンがあることに気が付いた。


彼女は自分の最期に、何かを書き残そうとしている。

時間は限られている。彼女の腹からは今も止めどなく赤い血が流れている。


彼女は自問自答する。

何を書く?遺書か?

いや、私はもう一度遺書を書いた。

樹海の中で首を吊って、気付いたらこんな島にいた。

あの遺書は誰かに届いただろうか。いや、そんなことはどうでもいいのだ。

ただ、ここで死ぬのは悲しい。

あぁ、私が死にたくないと思う日が来るなんて。

生まれてからずっと、死にたいと思ってばかりだったのに。


足先の感覚が無くなっていく。死が近付いている。

死が近付いた時、人は本性を表すと言う。

私もそうだ。アリスちゃんのことも、クロトくんのことも、今はどうでもいい。

でも、そう。何か、この島の謎を掴めそうな気がしたのに。

死にたくない。あと少しな、そんな気がするのに。

これは、自分で死を選んだ私への罰なのか。

遅すぎると分かっていても、あの時の判断を後悔する。

今、一分一秒が惜しい。真実に近付こうとしている。


思考をそのまま手帳に書き写す。目が霞んでいく。

まだ真実は掴めないけれど、キシさんかネコハタさん。

あの二人のどっちかなら、この島の異変を繋ぎ合わせて、答えを導けるかもしれない。

そうだ、あの人へ、残せるものを書こう。

この島の謎を、解ける鍵を、手帳へ残そう。

体の感覚が無くなる。視界も真っ暗になっていく。宙に浮かんでいるようだ。

人が死ぬ時、最後まで残るのは聴覚だと言われている。

最後に、誰かの声が聞こえた気がした。





「アイさん……」

丸眼鏡を掛けた青年が、アイの死体の前で悔やむ。

彼がアイの脈を取った時、既に心臓も止まり、冷たくなっていた。


ネコハタとキシは、不定形の怪物がただの瓦礫の山になったのを見届けると、アイたちの後を追った。

しかし二人には、山道も、人の痕跡を追うことも、慣れないことだった。

結果、沢山の時間をかけて、ようやく廃ビル郡に辿り着く。

しかし、そこから三人がどこに向かったのか、分からなくなった二人は、廃ビル郡の中を二手に分かれて探すことにしたのだ。

そして近くで轟音を聞いたキシが廃病院へ駆け付け、ここに来たのだ。


アイは手帳を胸の上に開けたまま、死んでいた。

血まみれの右手にはインクが切れ掛けのボールペンが握られている。

キシは見るべきか一瞬逡巡して、すぐに見ることを選んだ。今は、何か一つでも情報が欲しかった。


手帳の最初はモリの記録だった。

キシにとっては初めて読むものだった。

いくつかの違和感を抱いたキシが、アイの書いたページを読む。

「……自殺……空腹……怪物……」

ブツブツと呟きながらキシが読み進める。

その手が止まる。

一つの単語を読み上げる。

「地獄」




アリスは走る。階段を抜け、クロトかヒスイを、誰かを探す。

「誰か……誰かっ!」

その手が引っ張られる。クロトだった。

アリスとクロトの目が合う。

「……何があったんだ」

「ヒスイさんは?アイさんが、瓦礫に巻き込まれて……誰か、必要なの」

アリスは珍しく狼狽しているようだった。ここまで感情を剥き出しにするのは珍しいような気がする。

クロトは短い付き合いだがそう思った。

「……ヒスイさんは、いない。怪物になった。ここから逃げないと、俺らも死ぬ」

アリスは視線をさ迷わせ、動揺する。本当に思考が止まってしまったように、驚くことしか出来ない。

「急ぐぞ!外に出て、キシさんかネコハタさんを呼べば、大丈夫かも!今はここから出ないと!」


クロトがそう言った瞬間にまだ轟音が響く。

どうやら、また建物のどこかが崩れたようだ。

あの鳥型の怪物は、ヒスイさんは、この病院を壊そうとしているのか。

だとするなら、いつ建物が潰れてもおかしくない。

早くここから出ないといけない。

「入口は、エントランスはもう潰れたんだよな!?」

アリスは頷く。まだ動揺は続いているようだが、とりあえず動けるようにはなったようだ。

「なら、裏口か何か探さないといけないな……窓は基本的に鉄格子が架けられてるし」

試しに近くの鉄格子を揺すってみたが、堅く閉められており、外れる気配もない。


「館内図とか、ないかな……?」

「壁を探せばあるかもな。適当に歩き回って探してみるか」

どのみち裏口がどこかもわからない今、1階に降りて闇雲に歩き回るしかない。

二人は壁に注意しながら小走りで移動する。病院内には土埃が舞い続けており、視界も悪い。足元に気を付けながら、必死に探し回る。

「……あ!あった!」

アリスが指した壁には、所々風化しているものの、原型を留めたままの館内図があった。

病院内の地図を見ていると、また轟音が鳴り、激しい揺れが伝わる。

「急がなきゃな……」

焦りながら二人は出口を探す。

「ここ!非常階段!」

アリスが指したのは、二階と三階にある非常階段だ。

確かにそこからなら、外に出られるだろう。

クロトが現在地と照らし合わせて最短距離を測る。

病院内は非常に複雑な形をしている。やましい事の表れか。

「あっちの部屋を通ると、上に向かう吹き抜けがある!それで左に曲がって少ししたら、非常階段だ!」

クロトはアリスの手を引いて走り出す。

何か、偉そうな机がポツンと置いてある部屋に二人は飛び込む。

二人は知らないことだが、ここはかつて院長、もっと言えば売春行為の元締めを行っていた犯罪者の部屋だった。

彼は逃げ場所を確保するために、わざわざ部屋に吹き抜けを作り、いくつもの通路に部屋を繋げていた。

ともかくそれが今は僥倖となる。二人が部屋に飛び込み、吹き抜けを登ろうとする。

ふとその時、机の上の書類にアリスの目が行った。

その書類に貼られている写真は、スーツを着たキシの物だった。

その下にはこう書いてある。「弁護人 岸 峰孝」と。




キシは、アイから貰った手帳を持って、宙を見詰めている。

彼は若い弁護士だった。そして、とても優秀であった。

無罪判決十八件。それは有罪率ほぼ百%の日本の裁判において、明らかに抜きん出た数字であり、キシの優秀さの裏付けでもあった。


しかし、若い彼は、気付いていなかった。

その優秀さ故に、本来裁かれるべき人物を、本来下されるべき罪を、捻じ曲げてしまっていることに。

彼は本当に、類を見ないほどの天才であった。

だからこそ、失敗したのだ。


その内の一件に、病院内での治療行為を装った売春行為の摘発があった。

若い彼は、加害者である被告人の申し出を純粋に聞き入れ、その訴えの全てを、精神病患者の妄想と断じた。

これが大きな間違いであったことに、彼が気付くのは、ある一人の少女の死であった。

屋上からの飛び降り自殺。それも、病院に併設された孤児院の少女。

彼はほんの少しの違和感を抱いた。少女は病院で治療など受けておらず、至って普通の子と言われていたのだ。

その違和感が、彼に真実を気付かせた。


しかし、彼に出来ることは何も無かった。

一度出た無罪判決は、滅多なことがない限り覆られない。皮肉なことに、天才と言われた彼の弁護が、その何よりの妨げとなったのだ。

正義を持った若者を、死に追いやるには充分な罪悪感だった。

キシは、後悔していた。

何故泣いていた少女を、被害者である彼女らを救えなかったのか。

そして、自分はそのような被害者を、何人も生み出してしまっていたのではないか。

だからこそ、彼は決意していた。

もし、次があれば……。

絶対に、少年少女らを苦しませはしないと。


そして彼は気付いてしまった。この島の真実の一端を。

「この島は、地獄だ」

「救いなどない。最初から、何も無かった」

「罪を自覚させて、苦しませるためだけの、地獄」

そして彼は考える。

怪物となったモリは、彼らが殺さなければ、どれだけ生きただろうか。

あのような姿の怪物になって、ただ、苦しむためだけに生きながらえさせられるのではないだろうか。

自分は良い。それだけの事をしてきた。

しかし、あの少年少女らは?クロトは?アリスは?ヒスイは?

そんな咎を、永久に続く苦しみを受けさせられるのだろうか。

あまりにも哀れでならない。

救わなければならない。

死によって。


……アイは、普通の死体になった。

その一つの理由に、自殺していない、ということが挙げられるのではないだろうか。

この島が、自殺者を裁く地獄だとすれば。

アイも、モリも、自分も、皆、自殺した人の成れの果てだとすれば。

「自殺しないこと」これは、救いを求める一つの法則ではないだろうか。


キシは、震える手で、ネコハタから貰った拳銃を抜く。

覚悟は決めている。やることも、その結果も、予測は着いている。

後は、実現するのみだ。

その時、入口付近から声がした。

「キシくん?」

ネコハタだ。あの轟音を聞き、キシよりも遅くだが、駆け付けてきたのだ。

「……何を、しているんだい?」

キシは、顎に拳銃を当てている。

「ネコハタさん……これを、読んで下さい。そして、逃げてください」

キシはネコハタに手帳を投げ渡す。

彼とは少し一緒にいただけだが、その聡明さの一端を見ている。

あの廃教会で、キシの意図を誰よりも早く理解したのは彼だった。

手帳には、キシの補足も付いている。きっと、彼ならば、こうする理由も分かってくれるだろう。

キシは言葉を続ける。

「そして、ネコハタさん。あなたは……」

「決して、自殺しないで下さい」


轟音と共に、鋭い破裂音が響いた。




アリスが吹き抜けを上った時、何度目かも分からない轟音と振動の中に、小さく、破裂音のような物が混ざったことに気付いた。

気の所為かもしれない、それくらい小さな音だった。

だが何故だろうか、それは聞き覚えのある音だったような、そんな気がするのだ。


アリスとクロトの二人は、非常階段へと着く。

扉を押すと、軽い抵抗があった後、勢いよく開いた。

あまりに勢いよく開くので、勢い余って二人とも転んでしまった。

急いで起き上がって、周りを見渡すと。

非常階段とビルの間、そこに、あの巨大な肉の鳥が、ヒスイが飛んでいた。

ヒスイは、しっかりと二人を見据えていた。そして、大きく羽ばたくと、勢いをつけて、突進してくる。

その瞬間、クロトは景色の全てがスローモーションに見えた。

死が間近に近付いた時の、走馬灯のような、ゆっくりとした時間の中で。

巨大な狼が、鳥に飛び掛るのが見えた。

物凄い音が響く。巨大な肉の塊が二つ、字面にぶつかった音だ。

あの狼は何だろうか。いや、今はそれよりも。

「アリス、行くぞ!あのビルに逃げ込もう!」

クロトはアリスの手を引き、非常階段を駆け下りる。

そしてその勢いのまま、隣のビルの壁に空いている穴へと走り込む。

その時、何かが駆けてくる音が聞こえた。

とても大きな物体が、俊敏に駆けてくる音だ。

二人はビルへ飛び込む。その後ろに、狼が飛び掛る。

狼はビルに入っては来れない。ビルの穴よりも、何倍も狼が大きいからだ。

精々が、口を開けて吠えることだけだ。

クロトが道へ視線を向ける。道には、瓦礫だけが転がっている。


クロトもアリスも気付いていないが、あれはヒスイの亡骸なのだ。

この島では、怪物の亡骸は、瓦礫になるのだ。

人も死ねばただの無機物だと言う。ならば、肉の塊も、瓦礫と同じようなもの、なのだろうか。

ともかく、二人はあの巨大な狼から逃れようと、狼の吠える方向とは逆へ逆へと、ビルの隙間、狼が入って来れないであろう場所を使って進んでいく。


大通りのような道路を避け、細い裏道を通りながらビルの間を縫って進んでいく。

その間も、狼はピッタリと着いて離れない。時に自分の居場所を誇示するように歪な鳴き声を上げる。


「……危ない!」

クロトがアリスの手を引く。その瞬間、上から巨大な狼が降ってくる。

アリスたちが細い裏道へ逃げると、威嚇するように鳴き、また姿を消す。

しかし、その巨体の鳴らす足音や、時折見える影が、未だアリスたちに執着していることを示している。


そして、同じようなことを繰り返して何度か。日が完全に落ち切り、空には丸い月が浮かんでいる。

足を止めれば追いつかれるのではないか。時折響く歪な鳴き声が、そう思わせた。

「足元、大丈夫か?手、握るか?」

月明かりだけが頼りの夜に、足場の悪い瓦礫の中を歩いているアリスを気遣い、クロトが手を差し伸べてくる。

「……ありがとう」

アリスはその手を握る。クロトは満足そうに頷くと、前を向いて慎重に歩き出した。

その横顔が月の光に照らされて、アリスは見惚れてしまう。

少し長めの、綺麗な黒髪。切れ長の目は、真剣に目の前を見ている。

夜が似合う人だ、アリスはそう思った。

「……ん?」

クロトが視線に気付いたのか、アリスの方をちらりと見る。

なんとなく、覗き見をしたような、そんな照れ隠しから、アリスが窓の外に目をやると、狼の崩れかけた目が、そこから二人を睨んでいた。

暗い夜の中でも、その目は鈍く光っていた。


アリスはなんとなく、感覚的に、その目に、優しさを感じてしまった。

何故だろう。間違いなく殺意を持って追いかけて来ている相手に、優しさを感じるなんて。

でも、あの丸い目は、睨んでいるというよりも、むしろ、見守っているような、そんな目だ。

アリスは考える。確かに、あの狼がこちらを殺すつもりがないと考えた方が辻褄の合う事もある。

そう、あの狼はビルを崩そうとはしなかった。ヒスイさんに出来たことが、あの狼に出来ないとは思えない。


もしそうなら、何故、あの狼は、いつまでもアリス達に執着してくるのだろう。

……どこかに導いているのか?

だとしたら、目的地はどこに?地図を見れば分かるだろうか?

いや、アリスは、自分が今どこにいるのか全く分かっていない。入り組んだ裏道を回っているうちに、現在地も何も分からなくなってしまったのだ。

現在地も分からないのに地図を見ても、何も分からない。

キラリと空の鉄骨が、月明かりに反射した。

「……あっ!」

前を歩いていたクロトが驚いて振り返る。

「空、あの檻……!」

そう、島全体を覆うあの檻は鳥籠のような形をしている。

中央から同心円状に、檻が広がっているのだ。

アリスの勘違いでなければ、病院よりも、もっと島の中心から離れているような気がする。

「クロト、地図!」

クロトは突然慌てだしたアリスを少し怖がりながらも、大人しく後ろのポケットから地図を出した。


アリスはそれを指でなぞっていく。最初の病院から、何度も月や檻を確認しながら、島の外側へと続く道を確認していく。

一つの仮説に過ぎない。もし、あの狼が何かに誘導しているとすると?

「……灯台?」

このまま街を進んでいくと、いずれビル群を抜ける。

その先にあるのは、島の端。灯台と、海。

すぐ側には、檻が。そしてその先には、外が。


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