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廃教会から出た時は、建物の外観なんて気にしていなかった。
しかしこうして見てみれば、ただの小さな教会ではなかった。
教会の高さからして二階もあるだろうし、教会の脇には倉庫かなにかの部屋が増設されていた。
何より、外観からも相当植物やツタに侵食されているのが見て取れるというのに、不安定さもなく、土台や建物の頑丈さがわかる。
どれくらい前の建物なんだろうか。とんでもなく昔のような気もするし、そうでもないような気もする。
ともかく、クロトとアリスは扉を開けて、教会の中へ入る。
中はがらんとしていた。確かに、先程まで人がいたはずなのに、人の気配がしない。
「みんなは……?」
二人は偶像の飾られた講堂を歩き回りながら人を探す。
「……こっち、扉」
アリスが教会の奥に繋がる扉を見つける。偶像が掛けてある壁の影になるような場所にあったからか、一目では気付きにくい。
中に入ると、講堂とは打って変わって冷たい石造りの廊下だった。
廊下は三又に分かれているが、正面にあるのは崩れて登れそうにない梯子だけだった。
「これ、なんとかなんないかな」
「止めた方が、良いと思う。手が届かない」
「いや、台とかでさ」
「崩れかけてるし、登らない方がいい」
二人はそんなやり取りをした後、とりあえず右に向かって、奥にある扉に手をかける。
「……開かない」
「奥になんかある感じ?」
そう言いながらクロトが扉に体重をかける。
扉が軋みながら、少しだけ開く。
「あ、やばっ……」
クロトがそう言い終わる前にドアノブが跳ねて外れる。
「……中、クモの巣ばっかり」
クロトが開けた扉の隙間から、部屋の中の様子を見る。
「何もなさそう」
「……みんな、どこ行ったんだろ」
クロトが不安そうに俯く。
「もう一部屋ある」
それを見て、アリスは反対側の扉を指す。彼女にとっての不器用な励ましなのだろう。
「うん、そうだな、行こうぜ」
クロトも顔を上げて、前を歩き出す。
「こっちも、開かない……」
アリスがそう言うのを聞き、クロトがドアノブに手をかけようとする。
「……やめよう」
その手をアリスが止める。先程、ドアノブを壊し、一つの扉を開かずの扉にしたクロトに任せられなかった。
クロトは腕を下ろし、外へ歩き出す。
「みんな、外にいるかもな。少し周りを探してみようぜ」
アリスも頷く。きっと、クロトにとってもアリスがいる意味は大きいのだ。一人ではないことが、この奇妙な島での救いになるのだ。
鳥籠、誰もいなくなった廃教会、地図の裏の「出れない」の文字。
恐怖を与える要素は多いはずだが、二人でいることが大きな救いになっている。そう思った。
廃教会を出る前に、クロトはもう一度、講堂を見る。壁にかけられた偶像も。
「……え、」
アリスとクロトが出てきた扉から、人が出てきた。
足取りはおぼろで、手をぶらぶらさせている。
しかし、視線だけは、アリスたち二人を見ていた。
「……少年、どこかで、会ったことがあるかい?」
中性的な声だった。髪も、長い髪を後ろで無造作に縛っている。
男、とも女とも言えない、そんな若い人だった。
クロトは頷く。
「あの、ここで、寝ていました、よね?」
緊張でつっかえながらも質問する。
「……ああ、そうだったかな。うん、そんな気もする……と、いうことは、隣のお嬢ちゃんも、そうなのかな?」
アリスは首を振る。
「……ああ、間違ったようだね。悪いね。こうなんだ、前から。いや、覚えてないんだけどね」
そう言って彼、もしくは彼女は自嘲気味に笑う。
クロトがアリスを庇うように立つ。
目の前のその人は気にせずに続ける。
「君たちの名前は?きっとすぐ忘れるだろうけど、メモしとこうと思ってね」
そう言ってその人は懐から手帳を出した。
「……先に、そっちが名前、教えてくださいよ」
クロトは怯えながらも、背後にいるアリスのため、少し強がる。
「ああ、わかったよ。……えっとね……ああー、うん、これか」
その人は、手帳をパラパラとめくり、何かを探している様子だ。
「……私の名前は、モリ ノゾミか。うん、まぁ、好きに呼んでくれていいよ。どうせ、名前に愛着なんてないんだ」
「俺は、クロト。こっちは、アリス」
クロトは警戒を解かずに答えた。彼にとってみれば、モリの行動は全て、意味がわからないものだった。
しかし、アリスにはわかった。自分の名前がわからない時、服に名前が書かれていないか探したアリスには。
「……あなたも、記憶が無いの?」
モリの目が細くなり、舐めつけるようにアリスの方を見る。
「鋭いね、きみは」
クロトがモリの視線を遮るようにアリスを庇う。
「あの!俺たち、もう行かなきゃいけないんで……」
「他の人を探しているのかい?私もなんだよ」
二人はゆっくりと後ずさりしていく。モリは、頭をぶんぶんと振りながら、胡乱げな様子で二人に近づく。
「私も、皆を探しているんだ。皆、どこへ行ってしまったんだろうね」
モリは上着に手を入れて何かをゴソゴソと探している。
「一人なんだ。ここで。きっと、すぐに君たちのことも忘れる。誰かがいたというその輪郭だけを残して、全て無くなっていく」
それを探し当てたかのように、上着の中に入れていたモリの手が止まる。
「ずっとそうだったんだろう。以前から」
「なぁ、君たちは、私が生きていると思うかい?亡霊じゃないと?」
質問の意図が掴めない。二人はいつでも逃げられるような体勢になって、モリを凝視している。
モリは、もう二人のことはどうでもいいかのように天井を、虚空を見つめている。
「記憶を失う、というのは辛いものだ。何かがあった、という喪失感だけが残される」
モリの上着から手帳がこぼれ落ちる。それを気にもとめず、モリは虚空を見つめている。
アリスは、今の言葉に引っかかる。記憶を失った喪失感、そんなものがあるのだろうか。アリスには、その感覚すら掴めなかった。
「もう、終わりにしよう。幾度もそう思う。自分が自分でなくなっても。何度だって」
モリは上着から手を出す。その手には、黒く光る鈍色の拳銃が握られていた。
それを、モリは自分の顎に当てる。
アリスとクロトは、息をすることすら忘れて、それをじっと見ている。
「――あ、」
一瞬、モリの目が何か、特別なものを見たかのように動き、そして銃声が鳴った。
脳味噌と血飛沫が舞い、モリの頭は後頭部を残して、完全に消し飛んだ。
誰から見ても確実な死だ。二人は、何も言えず、凍りついたかのように、ただ固まっていた。
モリの腕がピクピクと動く、死後硬直、というものなのだろうか。
途端、傷口も、手も、その全てが拍動し始める。
モリの肉の全てが、何か変質するように、内側から、何かが表れるように、蠢き始めた。
モリの皮膚を突き破るように、黒い肉が突出する。
ガタガタと、教会が揺れる。音にならない悲鳴が木霊する。
原因であろうモリの体は、何か、形容しがたい、黒い肉の塊になっていた。
その塊は天井近くまで達する程に大きくなり、命があるかのように脈打っている。
瞬間、それが意志のあるかのように、アリス達に向かってくる。
足もなく、腕もないそれは、這いずるように向かってくる。
「――に、げなきゃ!」
クロトがそう叫び、アリスの手を掴んで走り出す。
息も切れ切れに、教会から飛び出し、後ろを振り返った二人が目にしたのは、その怪物が、器用に教会のドアをくぐり抜けている様子だった。
「ひっ……」
クロトの顔が青ざめる。明らかに、その怪物は二人を追っていた。
それが、顔の前を飛ぶ虫を目で追いかけるような、無邪気さ故なのか、もしくは、何か他の目的があったのか。
ともかく、怪物は這いずるように、転がるように、不定形の体を動かしながら、二人を追いかける。
恐怖のあまり顔を青ざめ、思考のコントロールが出来なくなった様子で固まっているクロトの腕をアリスは叩く。
アリスが周囲を見渡した時、教会の傍に広がる、アリス達が出会った森が目に入った。
アリスは直感的に、そこを指さした。
逃げ込むならば、森のような、障害物の多い場所が良いと思ったのだ。
クロトもアリスの指した森を見て、そう思ったのだろう。二人は森へと飛び込んだ。
二人は木々の隙間を縫いながら、手を繋いで走る。
方向なんてわからない、とにかく、前へと走っている。
怪物は、音もなく二人を追う。足音もなく、木々の隙間に合わせて、さながらスライムのように体を変化させながら、丸々とした大きな黒い肉の塊が動く。
少し走って、恐れていた事態が起こる。アリスが、木の根に足を取られて転んだのだ。
急いでアリスが立ち上がり、クロトの手を取るが、それよりも早く怪物は二人に追いついた。
怪物は、二人の目の前で止まると、体を大きく膨らませた。
木々よりも大きく、木の葉を落とし、木の枝を折り、大きくなる。
その様子は怒っているようでもあり、威嚇しているようでもある。
途端、怪物が吼えた。
「――オオ――」
悲鳴のような、怒声のような、どちらともつかない声だった。
しかし、その次の言葉は、しっかりと二人の耳に入った。
「――誰だ――私は――あぁ――」
怪物が、体を縮めて震える。
泣いているかのように。
アリスは、その怪物を見て、モリの最期の姿を思い出した。
脳味噌を撒き散らして、頭の半分を失って、倒れているモリを。
怪物は身を縮ませて泣いている。震えている。
ああ、やはりこれはモリだ。
アリスは、その怪物に触れようと手を伸ばす。
その時、怪物の震えが止まる。どこか遠くを眺めるように、体を伸ばす。
瞬間、銃声が森に鳴り響き、銃弾が怪物の頭を撃ち抜く。
頭、と言えるかは分からないが、ともかく、怪物の伸ばした体の先端に銃弾が突き刺さり、黒い肉が弾け飛ぶ。
でろん、と流体のように溶け落ちる怪物。
「こっち、走って!」
藪の中から女の人が飛び出してくる。アリスとクロト、二人の手を掴み、引っ張る。
「……あ……」
怪物から二人は離れていく。遠くなっていく怪物を見て、アリスは何とも言えない声を上げる。
あの時、アリスは確かに何かを怪物の中に見た気がした。それは今や、遠くなって見えなくなってしまった。
怪物が緑に紛れて見えなくなるまで、ずっとアリスはその跡を追っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
薮から飛び出してきた女の人は二人を連れて、あの教会まで戻ってきていた。
途中、アリスが後ろばかり見て走っていないのに気付くと、わざわざ背負って走ってくれたためか、かなり疲れている。
「二人とも、大丈夫だった……?はぁ、疲れた……」
体に着いていた木の葉やゴミを払い、金色の髪を整えて、その女性は二人に話しかける。
「ほんと、何なのよあれは……」
喋らない二人を見て、緊張していると思ったのか、女性は自分から話しかけに行く。
「ああ、ごめんね……私は、ミハラ アイ。君たちの名前は何かな?教えてくれると嬉しいな」
膝を折り、目線を二人の高さまで持っていくと、アイは二人に優しくほほ笑みかける。
「俺は、クロト」
「私はアリス」
「クロトくんとアリスちゃんね……二人は、あの怪物を知っているの?」
二人は首を振る。そのうえで、先程のモリと話した内容について伝えた。その顛末である死についても。
「拳銃自殺……」
アイさんがなにか言いたげに呟く。
アリスは教会の中を指す。
「あの中で、死んでる」
アイがそれを聞き、深刻そうな顔をしながら、教会の扉を開ける。
中に、死体はなかった。
血飛沫とモリの服の切れ端が落ちているだけだった。
「私もね、不思議だと思ったの。この拳銃、そこに落ちていたやつ」
そういって服の後ろから拳銃を出す。
先程の銃声はアイさんによるものだったらしい。
「私は教会の奥で縮こまってたんだけど……ほら、あの銃声、あれで講堂を覗いたらこの光景でしょ」
そういってアイさんらは簡潔に、今までのことを教えてくれた。
まず、クロトがいなくなったことに気付いた大人が、探しに行ったらしい。
アイさんはもしクロトが戻ってきた時のために教会に残った。
そしてしばらく待っていると、虚ろな目をしたモリが帰ってきたらしい。
そのときにはもう、まともに会話ができる状態じゃなかったようだ。
モリは支離滅裂にアイさんを責め立てると、急に人が変わったように、教会の二階に閉じこもったそうだ。
アイさんはとにかくモリから隠れようと、教会一階にある部屋に入り、戸棚で扉を塞いだ。
そして恐らくは、その少し後にクロトとアリスが帰ってきて、一階を探索し、教会を出る直前に、モリが二階から降りてきた。
「二階には何が?」
クロトが尋ねる。
「私にもわからないのよ、行ってみる?」
アイの提案にクロトが頷き、アリスの方を見ると、アリスはアリスでモリが死んだであろう場所で何かを探していた。
「何だ?それ」
クロトが尋ねると、アリスは手に持っていた血が飛び散った手帳を掲げる。
「あの人が、持っていたもの」
気になってクロトがそれに手を伸ばそうとしたとき、教会奥からアイが呼んでくる。
「おーい、二人ともーはやく来なさーい」
「行こうぜ」
アリスは手帳を持ったまま、アイの下へ向かう。
「はいはい、確かにこの高さは子供には厳しいわな……どれ、お姉さんが持ち上げるから、気を付けて登りなさい」
二階に登ったアリスは随分と殺風景な場所だと思った。
「うお……秘密基地みてぇ……」
どうやら、クロトは違う印象を持ったようだ。
がらんどうの屋根裏、部屋の真ん中に一つ大きな机があるだけ。その机の延長線上に小窓がある。
確かに、殺風景とも取れるし、秘密基地とも取れる。
屋根裏というのもシチュエーションとしてワクワクするものがあるのだろう。
二人は部屋の真ん中にある大きな机に寄る。
机の上に、小さな箱と丸い包みがある。アリスはそれに気付き、手を伸ばす。
クロトは物珍しそうに小窓を覗き込んだりと、部屋を探し回っており、アリスの行動に気づく様子はない。
アリスが小包に手を伸ばし、それを掴もうとした直前、背後から腕を掴まれる。
アリスが振り向くと、アイが青ざめた顔で包みと箱を凝視していた。
「こ、れは……」
アイは慎重に包みを手に取る。それは、これまで彼女が触れたこともないものだった。
「手榴弾、それにこれって、銃弾……」
どうやら、包みの中身は正真正銘の爆弾だったようだ。それに、横の箱には銃弾のイラストが書かれている。
「これは、私が持ってるわ……。元々、銃も持ってるし」
でもこんなの、どうしたらいいの……
そうやってアイが銃弾と手榴弾を苦労しながら仕舞い込んでいる間に、アリスは机の上で手帳を開く。
それを見てクロトが寄ってくる。危険物を仕舞ったアイも二人の後ろから覗き込む。
「これは、備忘録である。すべてを忘れてしまう私のための」
アリスが読み上げる。
私の名前は「森 望」20○○年 ○月○日 ○○県 ○○市に生まれた。
母は森 ○○(死去) 父は森 ○(連絡途絶)
身元引受人 ○○ ○(090~○○○○~○○○)
括弧や身元引受人の文字は筆跡が見るからに違う。後から付け加えられたのだろう。
彼はいつからこの備忘録を書き始めたのだろうか。
今日、病院に行った。
診断は原因不明の健忘症および認知機能の著しい衰え。
警察は辞めた。仕事が出来ないからだ。今やめれば退職金もしっかり貰える。
どうして私は警察を辞めてしまったのだろうか。生きがいのはずなのに。
病気ごときで辞めるわけにはいかない。将来はどうするのだ。
母や同僚の話を聞くに、私が自分で決断して辞めたらしい。なぜ。
自分の中に別人がいるかのようだ。
忘れている?昔のことも、何が覚えていて何を忘れたかわからない。
卒業アルバムを見た。誰が誰だかわからない。
学んだことは忘れたくない。
警察行政法、その1……。
アリスは読むのを止める。ここからは暫く、専門的な内容が並んでいる。
ページを捲ると、拳銃の扱いなども書かれていたが、読んでみてもよくわからない。
後ろのアイが、「これで銃弾を詰めるのね……ねぇ、そのページだけちぎってくれない?」と言いながら拳銃や手榴弾の扱いが書かれた箇所をちぎって仕舞っていた。
ページを流し読みしながら捲ると、よくわからない取扱説明書のような内容から、また日記のような内容に戻った。
その内容は、今までよりももっと深刻なものだった。字は荒れ、所々に涙の跡がある。
自分がわからない。私は誰だった?
医者が、病状が深刻だと言う。
自分にまつわるものが出てこない。鏡を見ても、自分という実感が湧かない。
母と言われても、わからない。いや、思い出せなくとも、新たに覚えればいいのだ。
この手帳は救いになる。覚え直したたびに書き起こせばいい。
母が亡くなった?いや、死んだ?殺した?
わからない。刑事や裁判官に色々と聞かれた。
私が母を殺した?本当に?
何もわからない。覚えていない。母の顔すら。
精神病院に送られるそうだ。私が何なのかすらわからない。
私は最初「強盗に遭った」と通報しているそうだ。
強盗と母を間違えて殺したのか?手帳に入れている母の写真を見ても何の気持ちも湧かない。
私は何なんだ。私のことを知る人は、もう誰もいない。
私は生きているのか?
この後、若干の空白を経て、また違う筆跡が並ぶ。
変な教会に出た。ここはどこか、誰も知る人はいない。
子供が一人、いなくなったようだ。探しに行くことにした。
そして、また字が荒れる。名は体を表すというが、字はきっと精神を表すのだろう。
なんでこんなとこにいる
私は何をしていたんだ
だれだ
だれかいないか
だれか
女の人が一人、私に怯えている。
また、何かあったのか。
私が、また。
なぜ、こんな私が生きているのだ。
なぜ
そこで、手帳は終わっている。
このあと、モリがどうしたか、アリスたちはそれを見ている。
三人共、何も言えなくなって黙りこくっている。
内容にショックを受けているのか。
そのとき、地響きがした。悲鳴のような咆哮が響いた。
小窓から外の様子を見る。
今まさに、教会の扉の隙間から、不定形の怪物が中へ押し入ろうとしていた。
怒っているのか、ともかくあの怪物はアリスたちを追い、森林から這い出てきたのだ。
逃げようにも、教会唯一の出入り口は今、怪物が占領している。
いや、そもそもどこへ逃げる?あの怪物から逃れられるような場所は思いつかない。
この島は檻によって閉じられている。いつかは捕まる。いたちごっこだ。
殺す?あれを?
そんなことをしてもいいのか、あれはモリではないのか。
いや、殺せるのか。銃が当たっても、あれはきっと死なない。
堂々巡りの思考にどうしようもなくなり、頼るようにアリスは二人を見つめる。
クロトは小窓を見つめて、何か考え込んでいる。アイもまた、真剣な顔で手榴弾を握りしめている。
クロトは小窓を見つめながら、ぼそっと呟いた。
「ここから梁を伝えば、下に降りられるかも」
アリスも小窓から外を覗く。
クロトの言う足場は非常に細く、建物の高さも、小さな二人の何倍にもなる。
怖い。無謀な考えだ。
しかし、アリスには他の方法は思いつかなかった。
教会の、たった一つの入口は怪物に占領されている。裏口がありそうな気配もない。
これしか、方法はない。
まず小窓から最初に出たのは発案者のクロトだった。
「すごいわね……。落ちたら死にかねないわよ」
蟻や猫は自分の何倍もの高さから飛び降りられる。しかし、それは蟻や猫だからだ。
小さな子供が、自分の何倍もの高さに挑戦するには、果てしない勇気がいる。
怪物は教会の中にすっぽり収まったようで、アイはいつ怪物の頭が梯子の穴から現れるか警戒しながらクロトとアリスが小窓から降りるのを見守る。
「――あっ!」
そのときいきなり、強風が吹き、クロトの手がふらふらと離れる。
落ちる、そんなふうに思ったときにはもう、彼は落ちていた。
しかし、クロトが地面に叩きつけられる音は聞こえてこなかった。
「……無茶をするね……」
落ちるクロトをギリギリのところで受け止めた人がいた。アリスは見覚えがなかったが、クロトは知っていた。
この教会で目覚めた時、クロトに声をかけてくれた青年だ。
七三分け、丸メガネをかけた温和な青年。
その後ろに、グレーの紳士と、中学生くらいの少女が立っていた。
「ネコハタさん!キシさん!ヒスイちゃん!」
小窓から顔を出したアイが彼らを呼ぶ。
「今、どういう状況!」
キシと呼ばれた青年がアイに呼びかける。
ネコハタと呼ばれた紳士は半開きになった教会の扉へ向かい、中の様子を窺っていた。
「あの怪物は教会の奥の方に、恐らく上へ向かって行っています!」
「こっちは出口を塞がれてる!窓から子供を下ろすから、下で受け止めて!」
アイがアリスを抱き抱えて、窓から出す。
「――こっちまで登ってきた!アリスちゃん、降ろすよ!」
「大丈夫!受け止める!」
下ではキシが両手を広げて待っている。
アイが手を離し、アリスが落ちる。
二階程度の高さとはいえ、風で体が浮き上がり、体勢を崩す。
バランスを崩して背中から落ちるアリスを、キシが受け止める。
アリスを受け止めたキシがアイに呼びかける。
二階で何度か銃声が鳴り、下にいる人達は唾を飲む。
そんな中、窓を突き破るようにアイが飛び出し、地面に転がる。
「いっ、たぁ……」
転がるように落ちたアイを心配してキシとネコハタが寄る。
アイが二人に向かって手を振る、大したことはないとアピールしているようだ。
「足を、ちょっと挫いたかも……いてて……」
「肩を貸します、急いで逃げることにしましょう」
そう提案するのはネコハタだ。あの怪物を直に目にして、逃げるしか手がないと思ったようだ。
キシが落ち着いて反論する。
「子供と怪我人を連れて、先も分からないのに?逃げ続けられると思いますか?」
ネコハタもその意見には同意している。しかし、やはりあの怪物に勝てるとは思えないようで、承服しかねている表情だ。
「この二つで、何とかならない……?」
座り込んでいたアイが話に割り込む。彼女の両手の上には拳銃と手榴弾があった。
「あの怪物相手に拳銃と手榴弾でなんとかできるか?むしろ変に怒らせる結果になりはしないか?」
拳銃と手榴弾を受け取り、その重みを感じるかのように黙って自分の手を見つめているキシに、ネコハタが呼びかける。
「確かに、あれには銃弾なんて効果がない。手榴弾だって、どれだけ効くかはわからない」
アイが地面に座り込んだまま言う。アイも先程、怪物に銃を打ち込んだ。それでも、怪物は追ってきた。
「もう少し、有効打があれば」
ネコハタが悔しそうに言う。怪物を直に見たネコハタ、アイ、アリス、クロトの四人は手榴弾程度では有効打たりえ無いと考えているようだ。
「足止め、ですね。これらを使ってあの怪物の足を止める。その間に、逃げられるところまで逃げる」
「逃げる場所なんてあるのか?この島はあの檻に囲まれているのに」
クロトがいつの間にかキシ達の側まで来て、話に割り込んだ。そして、忌々しそうに空にかかる檻を睨む。キシたちも吊られて空を見て、皆一様に苦々しい表情をする。
「……クロト、地図、持ってる」
アリスもクロトを追うように、キシたちの傍に集まる。子供達の中で、離れて空を見詰めているのはヒスイだけのようだ。
思い出したかのようにクロトが後ろポケットから地図を取り出す。
全員でそれを見る。その時、教会の方から唸り声のようなものが聞こえてきた。
言うまでもなく、異形の怪物が出した声である。
全員の間に緊張が走る。
「方針を決めなければ、出来るだけ早く」
ネコハタが少し焦った声で呼び掛ける。
キシが、意を決した顔を上げる。
「ネコハタさん、残ってくれてありがとうございます」
キシとネコハタの二人は、教会の扉の前で用意をしている。
「若者に全てを押し付ける訳にはいかないだろう?何、銃の方は任せておいてくれ。若い頃、アメリカで何度か銃を扱った経験がある」
そう言いながら、手元の拳銃を扱う。アイから受け取った弾を装填し、いつでも撃てる状態にしている。
「キシくんは、手榴弾の方に集中してくれ。君の出した案だ。君が一番成功率が高い、と信じているよ」
よし、だいたいいい感じだ……とネコハタは言い、目の前を見る。
キシとネコハタ、二人は並んで、教会の扉の前に立つ。
そして二人は視線を合わせる。キシが合図代わりに小さく頷くと、扉を開け放った。
開けた扉の中に間髪入れずにネコハタが銃弾を撃ち込む。勿論、中にいる怪物に向けて。
怪物は銃が当たる度に一瞬固まり、そして何事も無かったかのように動き出す。
まるで撃たれたことを忘れたかのように。
「まだかい!?」
銃を打ちながらネコハタが叫ぶ。既に10発近く打っている。もう残り弾数も少ない。
「そろそろ弾が尽きる。装填には時間がかかるよ!」
キシは怪物がこちら側に近付くのを待っていた。いや、正確には壁から離れ、建物の丁度中心辺りに来るのを。
「……投げます!」
キシが叫び、手榴弾を投げ入れる。
怪物の後ろ、壁際へと。
少し前、全員で話し合っている時に、キシが言っていた。
「恐らく、あの構造の建物なら、中にある柱が要でしょう。昔の建物でしょうし、そこを崩せば、上の天井ごと崩れ落ちるでしょう」
つまり、キシの考えた、最善の足止めであり、手榴弾を使った、出来るだけの有効打とは、建物ごと怪物を潰す、という策だ。
それだけでない、手榴弾による爆発のエネルギーは、教会内を駆け巡る。ただの野原で爆発した時よりも多くのエネルギーが、怪物へ向かうのだ。
キシが手榴弾を投げ入れると同時に、ネコハタが扉を閉じる。そして二人は教会からできるだけ離れ、地面に寝そべる。爆発に対応した体勢だ。
二人が地面に寝転んだ瞬間、爆音が鳴り響いた。
爆音と共に土煙が舞い、そしてそれが収まった後、キシとネコハタの二人はゆっくりと立ち上がった。
二人の顔は土まみれになっていた。
「あれで、倒せたと思うかい?」
ネコハタが問い掛ける。キシは肩を竦め、土煙の収まったあとの教会を観察する。
後ろには、あんなに荘厳にそびえ立っていたとは思えない程に無惨な瓦礫に変わり果てた教会があった。
「……やったのか?」
ネコハタはそう尋ねながらも、銃を手放さなかった。警戒を露わにして、教会を見つめていた。
その時、瓦礫の中心が動き、隙間から、あの黒い肉が漏れ出してきた。
ネコハタは拳銃を構え、いつでも撃てるように撃鉄を起こした。
その肉は集まり、形を成そうともがき、一つになれず、個々のまま動き回っていた。
そして、静かに。断末魔もなく。
漏れ出た肉が、石と砂の瓦礫に変わっていった。
その光景に、ネコハタも、キシも、ただ呆然とその瓦礫を見るしかなかった。