第49話信長、慶喜に薦める
「つまり、その坂本なる者が仲介したと? 浪人にしておくには惜しい男だな」
「ええ。まことにそう思います」
会津藩邸の一室。
そこで信長と慶喜は話し合っていた。
いや、話し合うというよりは慶喜が聞きたいことを訊ねているという感じだ。
近藤と容保はこの場にはいない。
二人にも話さなければならないことが多いからだ。
だから席を改めて話している。
「それでだ。薩長同盟が組まれたのなら、先ほどそなたが言ったことをすれば解決するのか?」
「しないでしょうな。ただの気休めです」
しれっと信長が言うものだから、慶喜は目を丸くして「しないのか?」と素直に驚いた。
「余が考えても良き策だと思うが」
「武力に勝る者を朝敵や幕敵にしたところで意味はありません。何故なら武力の無い権威は文字通り無力ですから」
「ならば先の策は……ああ、容保殿に対する気休めか」
信長は頷いた。まったくのその通りだったからだ。
信長自身、足利幕府と敵対したことがある。そのときは将軍義昭を追放する結果となった。はっきり言えば、自分が協力して擁立した将軍を追放したときの気持ちは達成感よりも徒労感のほうが強かった。
「このまま、幕府は滅びてしまうのか?」
「ええ、残念ながら。儂には穏便に済ませる策は思いつきません」
信長は戦国乱世に生きた大名だ。
敵対した者は滅ぼすか従わす。それしか頭にない。
講和も考えにはあるが、それは捲土重来のためである。巻き返す力がない場合は意味がないと断じていた。
頑固な考えと思われても仕方ないが、五十年以上その思考で戦ってきた男だ。
柔軟な考えは持つが、あくまでも信長の度量の中での話である。
彼にも限界があった。
「幕府が滅ぶことはあってはならん。そうなれば海外から攻め込まれてしまう」
慶喜は幕府を主導する立場だが、さほど幕府の存続には執着がない。
無論、自分の立場が危うくなるのは嫌だが――それよりも日本のことが大事だった。
できることなら日本人同士の争いを避けたい気持ちが強かった。
大局的に物事を見られるのが慶喜の良いところだ。
しかし、大きく見据えて足元が疎かになるのも彼の悪いところだった。
「そなたなら戦でカタを付けるか? それとも政でカタを付けるか?」
「武力を持った者に対し、戦は愚策で政は時間稼ぎにしかならないでしょう」
「そうか……」
「一橋様は上様を補佐し、意見を述べられる立場。できる限り長州征伐を遅延できませんか?」
一番の理想は遅延よりも中止となることだった。
その後の展開は長州藩と薩摩藩次第だが、幕府の戦力を減らすことは避けられる。
しかし慶喜は「それは難しいな」とため息をつく。
「余は禁裏御守衛総督だ。幕臣よりも朝臣の立場に立っていると見られる。下手に反対すれば、朝廷が長州藩に工作されていると誤解される」
「そうなれば……一橋様だけではなく、幕府全体に混乱が起きるというわけですね」
「いかにもそうだ。幕府ができて三百年以上経っている。巨大になり過ぎた組織は個人が叫んでも意味がない」
厄介だなと信長は内心感じた。
おそらく家康は源頼朝や足利の政治機構の悪癖――独裁や一人の人物が力を持つことを避けた結果、こうした複雑で相互監視をさせる機関を作ったのだろう。もしかすると家康という大きな存在が無くなった後に作られたのかもしれない。
泰平の世ならば上手く機能する。むしろ、対外的侵略が無い場合は、慎重な決定は有効だったのだろう。しかし混乱が続くこの時勢では対応しきれない。即断即決が求められるのなら、独裁か寡頭政治のほうが素早く対応できる。
だからこそ巨大な力を持っているはずの幕府が、雄藩の手を借りなければならない現状に陥っている。これを解決する方法は一つだけだ――
「一橋様、将軍になる気はありませんか?」
「……何を唐突に言うのだ?」
面を食らうというよりは信長の正気を疑うような声。
信長は「今の立場ではできないことを大きく覆せます」と真面目に言った。
「今まで話していて分かったこともあります。一橋様は高いところから大きく情勢を見ることができるお方。それ故に――将軍に向いています」
「まだ家茂公が将軍なのだぞ? 継げるわけなかろう」
「市井の噂では病弱と聞きますが」
「……まだ二十歳そこそこなのだ。突然身罷われるわけもない」
信長は「新選組は将軍護衛の任務を与えられています」と言う。
「それがどういう意味を持つか、お分かりでしょう?」
「それこそ馬鹿なことを言うな! ……この話は無かったことにせよ」
信長は「かしこまりました」と頭を下げた。
慶喜は「恐ろしいことを考える奴だな」と恐れ戦いた。
「本物の織田信長に思えてくる……」
「そう思われても儂には何の支障はありません」
「死んだはずの人間、しかも戦国の世の人間が生きているはずもないわ」
そう断じた慶喜。そして「もし余が将軍となれば」と続けた。
「そなたを重用しても良い。珍しく戦に長けた男だからな」
「光栄ですね」
「時勢を読める者は大勢いるが、実際の戦となるとな。これもまた泰平の世の弊害だ」
信長は「一つだけわがままを申してもよろしいですか?」と言う。
「なんだ? 申してみよ」
「できることなら、儂ではなく新選組を重用していただきたい」
「ふむ……その心は?」
「儂以外にも優秀な人材が多い故。それに将軍となられた際には護衛も必要でしょう」
信長はにやにやと不敵に笑った。
「またどんな者でもたちまち斬り倒して御覧に入れましょう。仰せのままに」
◆◇◆◇
それからしばらくして、長州征伐に向かった将軍家茂公が亡くなった知らせが京の都を騒がせた。
信長はいつもの甘味処でやや興奮している町人から聞いた。
お汁粉を飲み干した信長は、これでまた時代が動くなと感じた。
信長は一層、新選組の軍事組織化に精を出した。
結果としてそれなりの動きや作戦を実行できるまでに育ってきた。
このまま訓練を積めば――と思った矢先、事件は起こる。
「失礼します。総長宛てにお手紙があります」
隊士の一人が信長に手紙を渡した。
なんでも飛脚が届けに来たらしい。
隊士が去った後、一人自室で読む信長。
「で、あるか……沖田と原田を連れて行くか」
実戦向きの男たちを連れて行くというのは余程のことである。
信長は手紙を火で焼いた後、二人を呼びに行った。
そして沖田と原田を捕まえるとそのままふらりと屯所を出て行く。
「なあ信長さんよ。俺たち誘ってどこに行くんだよ?」
「不逞浪士の居場所でも掴んだんですか?」
二人が不思議そうに訊ねても信長は「まだ言えんわい」と濁した。
顔を見合わせる二人。しかし黙って信長について行く。
ふと足を止めた信長。
まだ昼前だったので、日光で看板が見えにくい。
沖田は目を細めて――
「近江屋……ですか」
信長が素早く宿の中に入る。
宿の者が三人の羽織を見て大声を上げそうになる。
「し、新選組――」
「まあ待て。儂は織田信長だ。あやつから何も聞いておらんのか?」
宿の者は口を開け閉めして、ようやく落ち着いたのか「き、聞いております」と答えた。
「しかし、新選組の方だとは……」
「あやつはどこにいる?」
「に、二階にてございます」
信長は「二人とも行くぞ」と沖田と原田に告げる。
何が何だか分からないがとりあえず後を追う。
宿の者の案内で部屋の前に着くと、信長は素早く襖を開けた。
「な、なんじゃあ!?」
「御用改めである! ……なんてな」
いきなり襖が開いて驚いた者をさらに驚かせることを言った信長。
中にいた者はどたんばたんと刀を持ったりした。
「……って、なんじゃき、ノブかぜよ」
「ああ、久しぶりだな――坂本」
信長は「おう。お前らも入れ」と唖然とする沖田と原田に言った。
「おいおい。信長さんよ。こいつは斬らねえといけない野郎じゃねえのか?」
「原田、落ち着け。とりあえず座るのだ」
かなりの驚きと戸惑いの中、信長たち三人は部屋の中に座った。
そして「おぬし、狙われているらしいな、ふひひひ」と信長が切り出す。
「そうぜよ。まったく、俺のせいじゃないき、みんな誤解しちょるぜよ」
「泣き言言っても終わらんわい」
「冷たいのう」
「この二人と儂で刺客を撃退する。その後はどうする?」
坂本は腕組みをして「今更、薩摩藩と長州藩には頼れんきに」と言う。
「いっそのこと、新選組に匿ってもらうぜよ」
「そうしろ。近藤と土方たちは儂が説得する」
「良いんですか? 巷で有名ですよ? 薩長同盟のことは」
沖田の疑問に信長は「過ぎたことだわい」と答えた。
「それと中岡慎太郎も匿ってやろう。奴が望むならな」
「中岡は俺が説得するきに。任せてしもうせ」
「なあなあ。一体何を話しているんだよ? 俺には全く分からねえぜ」
原田の焦れた声に信長は「ふひひひ。教えてやろう」といつもの笑みを浮かべた。
「坂本龍馬を刺客から守るんだよ。儂ら新選組でな」