第36話信長、危惧する
「先生、お久しぶりです!」
藤堂平助は目の前の男に頭を下げた。
誰の目から見ても、尊敬してやまない人物への態度だった。
しかし先生と呼ばれた男は「そんなにかしこまらなくていい」と笑った。
「それに先生と呼ばれるほど、私は君に何もしていないよ」
「いいえ、先生が目をかけてくださらなかったら、北辰一刀流の目録は貰えなかったでしょう」
頭を上げてきらきらとした目で見る藤堂。
「竹刀の握り方を教えてくれたこと、一生の恩です」
「恩に着る必要などない……と言っても、真っすぐな君は聞かないだろうね」
苦笑する男に藤堂は「先生にお願いしたいことがあります」と熱心に言う。
「是非、新選組に加わって――尊皇攘夷のため、一緒に働きませんか!?」
その言葉は男の胸に突き刺さった。
男が言った通り、真っすぐな性根を持つ若者だからこそ、真実だと伝わった。
「知っての通り、私は君と同じ、北辰一刀流を修めている。そして師である千葉周作先生は学問を推奨していた。知っているね?」
「ええ。文武両道でなければ――剣の道は究められないと」
「そして千葉先生は水戸藩とつながりが深い。それゆえ、尊皇攘夷の志の篤い水戸学を学べと薦められた」
男はにっこりと優しげに微笑んで「私の剣と学問が実を結ぶときが来た」と言う。
「是非、近藤勇局長と引き合わせていただきたい。頼むよ――藤堂くん」
「――っ! ありがとうございます!」
藤堂は感激して「これで江戸での役目が全うできます!」と安堵した。
「君は近藤さんたちより先んじて江戸に入り、隊士を集めることが目的だったね」
「ええ。今のところ声をかけさせていただいたのは先生だけです」
すると男は「先生はやめておくれ」と穏やかに笑う。
「同志になるのだから。せめてさん付けで呼んでくれ」
「あ、はい! 分かりました――」
藤堂は無邪気に笑って――男の名を呼んだ。
「――伊東大蔵さんっ!」
◆◇◆◇
近藤が江戸へ下ったのは九月の頃だった。
ちょうど芹沢を暗殺した時期でもある。
彼の目的は永倉や尾形たちと共に江戸で隊士を募るためだった。
同時に江戸の松本良順という医者に会うためでもあった。
近藤は深刻な病ではなく、最近、胃痛が酷いために用心として診てもらう約束をしていた。
そこには信長は付き従わなかった。
江戸までの道のりは遠いのもあるが、京でやらねばならないことがあったからだ。
そんな彼は今、考えをまとめるついでに部屋で将棋を打っていた。
相手は部屋の主である山南だ。
両者とも巧みに駒を動かしており、なかなか決着がつかなかった。
「山南さん……ってなんだ。あんたもいたのか」
山南の部屋に訪れたのは土方だった。
素早く障子を閉めてちょうど三人が三角形になる位置に座る。
「おう。土方か。何用ぞ?」
「てめえに用はない……ていうか何してんだ?」
「弱兵をどうやって活用するか、考えておった……」
実のところ、信長と共にいるのは沖田が多かったが、二番目に多かったのは山南である。
彼は自分が死んだとされる本能寺以降の話を聞いていた。
山南も信長には信頼を寄せている。
「それで、何の用だい、土方くん」
「ああ。昨日、江戸にいる近藤さんから手紙が届いた」
土方は手紙を直接山南に見せた。
読んでいるところを信長は横から覗くが、土方は咎めなかった。
「ああ。伊東道場。あそこは北辰一刀流のところだろう? そういえば藤堂くんが話していたっけ」
「その藤堂の口利きで入隊が決まった……だけど、俺は気がかりなことがある」
「なんだ? そやつらは悪人なのか? それとも性悪なのか?」
信長の茶々を無視して「道場主の伊東が門弟や友人と共に入隊すると書かれている」と土方は苦い顔をした。
「俺の言いたいこと、分かるよな?」
「……ああ、なるほどな」
要は伊東を中心とした派閥――伊東派なるものができないかと土方は危惧していた。
芹沢が中心だった水戸派の再来となってしまったら無用な争いが起きてしまう。
それを山南に相談してきたのだ。
「うーん。彼は派閥を作って新選組を乗っ取ろうとか考える人ではないよ」
同じ北辰一刀流を学んで、何度か交流のあった山南は伊東の人柄を知っていたのでそう答えた。
それでも不安と疑いが晴れない土方は「どんな性格なのか、教えてくれ」とさらに聞く。
「生真面目でいい人だ。剣の腕だけじゃなくて、弁舌も達者だ。知識も知恵もある」
「あんたは過大評価するからなあ」
「ふひひひ。そんなに不安なら平隊士で良いではないか」
信長は簡単に言うが「それはできねえ」と土方に却下された。
「江戸の大道場の主で門弟を引き連れてくる野郎だぞ? 少なくとも副長助勤にしないと不満が出る」
「ま、道理だな」
「だから山南さんに相談してんだよ」
土方の言葉に「私に良し悪しなど言えないよ」と山南は駒を打つ――信長は「あっ」と声を上げた。
「既に近藤さんが決めているんだ。手紙にも書いてある」
「……それを言われると困るが」
「土方。もう入隊は決まっておるが、嫌な予感が拭えないのだろう?」
信長にずばり心中を言い当てられて口ごもる土方。
さらに信長は「その勘、大切にしろよ」と助言までする。
「なあ、山南。その者は――尊皇攘夷とやらの輩なのか?」
信長は山南に問う。
山南は「確か、熱心な方だったと思います」と答えた。
「ふむう。それは不味いかもしれんな」
「どういうことです?」
山南は不思議そうに、土方は怪訝そうに、信長の言葉を待った。
「そりゃあ、今の近藤は――」
信長は言葉を選ばずに言った。
「――もう尊皇攘夷などできぬと分かっているからだ」
◆◇◆◇
「松本良順先生、今の日本では――尊皇攘夷ができないとおっしゃるんですね」
江戸にて松本良順の治療を受けた近藤は再度問う。
目が細く、鼻の大きい顔をした松本は「ああ、無理だ」と短く答えた。
「西洋の武器や技術。それらを見れば無理だと分かる」
「そうですか……」
西洋通の松本は新選組の後援者となってから、近藤に説き続けていた。
このまま外国との戦争となれば――日本は植民地にされてしまう。
それも数年のうちに。
「だから尊皇攘夷なんて考えず、幕府と全ての藩、そして朝廷が協力して強い日本にするべきだ。不平等な条約を無視しても、西洋の技術や学問を取り入れて」
「先生のおっしゃることは分かります」
「私も近藤さんの言いたいことは分かるよ」
松本は「今までさんざん内外に言ってきたからね」と言う。
「新選組は――尊皇攘夷を行なう組織だって」
「ええ。しかしその局長である私が、無理だと悟ってしまった……」
「今更、宗旨替えなんてできるものじゃない」
松本は「欺瞞だけど」と短い前置きをした。
「京の都を守ることを勤皇とすればいい」
「では攘夷は?」
「有耶無耶にするしかないな」
近藤は「また胃が痛くなりました」と苦笑した。
「まあ気疲れから来る痛みだからね。仕方ないよ」
近藤は内心、仕方ないなと思いつつ、新選組の方針を表向き変えないことにした。
近藤勇という男は佐幕派、つまり幕府を助けるのを信条としていた。
かつて浪士組を結成した清河八郎に反発したのも、将軍家のために働けないことに憤ったからだ。
つまり、勤皇の志さえあまりなかったのだ。
近藤は幕府の天領である多摩で育った。
そこで健やかに過ごせたのは将軍様のおかげであると考えていた。
いや、信じていたと言い換えていい。
もしも朝廷と幕府、どちらかを選べと言われたら――彼は迷わず幕府を選ぶ。
近藤は幕府のために働くことしか頭になかった。
だから新選組局長に尊皇攘夷の志が無くとも、新選組は題目として掲げなければならない。
しかし、平隊士などは気づかないだろう――彼ら自身、尊王攘夷のことをよく分かっていないのだから。
けれど、もし――熱心な尊王攘夷の志を持った者が新選組に入隊したら?
知恵も知識もあり、新選組の内部にいるからこそ、矛盾に気づけるほどの賢い者だったら?
そしてその者に大勢の組する者がいたら?
――新選組の分裂は避けられないだろう。