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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第1章 頼むから余所でやってくれ
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【第1章】 林間キャンプ編 斉藤ナツ 3

 数年前、初めて予約したキャンプ場は、このキャンプ場に負けない山奥の立地だった。買ったばかりのキャンプギアをうれしそうに車に積み、おっかなびっくり受付をしてサイトにはいった。偶然休みが取れた平日だったので、客も多くなく、静かに過ごすことができる環境だった。

 しかし、火起こしすらも初めてだった私の初キャンプは、なかなか火はつかないわ、食材の買い忘れに気づくわ、テントは傾いているわ。リラックスする余裕など全くなかった。結局明かりが足りず薄暗い中でよく見えないよくわからない味の料理を食べ、重くてかさばるだけの大して暖かくもない寝袋に潜り込んで早々に眠りについた。その頃は地面に薄いマットを敷いていれば快適に眠れると信じ込んでいて、朝の4時頃には背中を痛めて覚醒するはめになった。

 キャンプ場はまだ薄暗く、濃い霧が漂っていて十メートル先も見えない。寝ぼけ眼でテントの前に座り込み、ぼーと霧を眺めていると、霧の向こうから影が近づいてくるのに気づいた。

 鹿だった。それも立派な角を生やした牡鹿だ。霧の中からぬっと顔を出した牡鹿は、私に気づく様子もなく、私のいるサイトの前をゆっくりと横切っていく。霧に濡れた毛皮が呼吸で揺れるのが見えた。牡鹿の重い息づかいがかすかに聞こえた。

 私はそれまで自分は動物が嫌いなのだと思っていた。誰かの飼い犬やペットショップコーナーで見かけるガラスの中の猫には一切魅力を関しなかった。むしろあまり見ていたいものではなかった。だが、目の前を横切る野生の鹿にはただならぬ胸の高まりを感じた。美しい。素直にそう思った。特に美しいのは目だった。その黒い瞳は、ガラスの中の猫には見いだすことのできない光を放っているように感じた。まるで自らの生に輝いているようだった。

 あまりにも生々しい生命の迫力に私は固まってしまっていたが、我に返って、こっそりと上着のポケットを探った。カメラはないが、せめてスマホで写真をとりたい。この出会いを残したい。探り当てたスマホを細心の注意を払いながらゆっくりと取り出し、カメラモードにすると牡鹿に向ける。

 カシャリ。

 指で押さえたつもりだったが予想以上に大きな音が響く。牡鹿ははじかれたように踵を返した。土が飛び散り、その一粒が頬をかすめる。すると霧に隠れて見えなかったのだろうか。牡鹿に続いて牝鹿が数匹、霧の中から甲高い鳴き声を上げて現れ、ドドドと大きな蹄の音を響かせながら一瞬で走り去っていった。

 あまりの出来事に呆けてしまい、その朝は日が完全に登るまでテントの前に座り込んでいた。

 その日辛うじて撮影できたピンボケの牡鹿の横顔は、1年近くスマホの待ち受けになった。

 その次の日には全く関心がなかった一眼レフをフリマアプリで購入した。Nikonのハイクラスシリーズで中古でも3万円したが、あの感動を高画質で納められるのなら高いとは思わなかった。私は同じキャンプ場を3週連続で予約し、同じサイトで早朝にカメラを構え、まんじりともせず鹿を待った。

 「株を守りて兎を待つ」ということわざがある。

 昔々の農民が、畑の木の株に偶然うさぎがぶつかって倒れるのに出くわし、幸運にも兎を得ることができた。それ以来、農民は同じ幸運がまた起こると思い込んで、後生大事に、来る日も来る日も切り株のそばでうさぎを待ち続けて笑いものになったという故事だ。

 まあ、結論を言えば私も愚かな農民と同類だった。鹿は毎日キャンプ場を訪れる訳ではなかったのだ。むしろあの日がなんとも珍しい幸運な朝だっただけだ。あの朝、鹿たちは偶然キャンプ場に迷い込み、これまた偶然私のサイトを通りかかっただけなのだ。そのことに気づいたのは3週目の朝だったし、うさぎのことわざを思い出したのもその日の帰り道だった。

 さすがに同じキャンプ場に通うことはなくなったが、自分の浅はかさに気づいてからも、私は一眼レフをキャンプには必ず持ち歩いている。ギアの軽量化を図り始めた後も、スキレット並みに重いこの一眼レフは決して持ち物から外さなかった。株を守っていると言われようが、一度幸運を経験した人間はどうしても2回目を期待してしまうものなのだ。


 コーヒーを入れて一段落し、読書にふけっていると、いつの間にか周りが薄暗くなり始めていた。林の中と言うこともあって、あっという間に真っ暗になりそうだ。焚き火台を組み立てて、集めた小枝で火をおこし、徐々に太い薪を加えていく。木々はよく乾燥していて、すぐに安定した炎となった。ただ、空気も乾燥しているのが気になる。山火事が心配だ。乾燥注意報など出ていないだろうか。スマホを取り出して調べようとして圏外であることを思いだした。見事なまでにアンテナ0本だ。山奥のキャンプ場ではよくあることなので、特に驚きはしない。

 いったんサイトを出て車に向かった。サイトの外ももうすっかり暗くなっていた。空を見上げると管理人の言っていたとおり、隙間もない分厚い曇天だった。暗くなるのが早かった原因でもあったのだろう。車に着くと、トランクからバケツを取り出す。トイレの横の電灯は予想通り白い光を放っていた。その光を頼りに手洗い場でバケツに水をくみ、サイトに戻った。

 たき火のすぐそばにバケツを置く。いざという時に一瞬で火を消化させるにはバケツの水が一番確実だ。椅子に腰を下ろしてトイレの方を見ると、木々の間からかすかに電灯の明かりが見えた。これぐらいならば全く気にならない。自分の判断に満足して、目を離した隙に弱まった火に薪を追加する。いい具合に熾火もできたので、夕食の調理を始めることにした。

 カゴの中のクーラーケースから、スーパーで購入したステーキ肉を取り出す。火のそばにしばらく置いて常温に戻すと、塩こしょうを降って下味をつける。焚き火台には五徳をはめ込み、スキレットをおく。スキレットのメリットは、熱伝導がいいため、肉を美味しく焼けるところだという。試させてもらおうじゃないか。

 スキレットが完全に温まったところで少量の油でニンニクを炒め、頃合いを見てステーキ肉をゆっくり投入する。水分が弾ける音とともに香しい匂いが漂った。

 頃合いを見て、スキレットを地面に下ろし、肉をスキレットにのせたままナイフで切り分ける。いい具合にミディアムレアに仕上がっており、一人にんまりとする。食べる前に、忘れずに一眼レフをパシャリとする。一枚目は自動でフラッシュがたかれてしまい人工の明かり感が否めなかったので、フラッシュ機能をOFFにした。フラッシュはオプションパーツの外付けタイプなので取り外してしまってもよかったが、もし、夜間に動物が現れたら、組み立てている間に取り損ねてしまう。フラッシュなしでたき火のそばで撮り直すと、火の柔らかい光でまさにキャンプ料理といった写真になった。

 撮影が済んだところで、ど真ん中の肉片からバクリと頬張る。ほどよい脂がたまらなかった。一口食べると止まらなくなり、ステーキ肉はあっという間になくなってしまった。さて、では2品目いきますかとカゴを探っていると、サイトの入り口に気配を感じた。動物か? とっさに一眼レフを引き寄せた私は、前方を見て面食らった。

 人間だった。

 私と同年代の女性だ。土汚れのついたパーカーにジーンズ。細見なスタイルだった。彼女はしばらく林の入り口に立ってぼおっとたき火の方向に顔を向けていた。そのわずかにうつむいた状態のまま、にこりともしないで言った。

「あたらせてもらってもいい?」

 私は断り方を思いつかなかった。


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