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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第7章 人は誰にもなり得ない
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【第7章】 廃村キャンプ編 28 ひまわり2


 28 ひまわり2

 

「おっかあ。こんなもんでいいか」

 ひまわりは石造りの堰堤の上に立って水門のハンドルを握りながら声を張った。

 水路の脇で水の勢いを見ていた母が手を挙げる。

 ひまわりは水門の開閉具合を調整するハンドルを固定すると、堰堤を滑り降り、母の元へ向かった。

 奥池と呼ばれる村の貯水池は山の中にあった。山から流れてくる水流はいちどこの貯水池にたまり、堰堤の中心に設置された水門で量を調節されながら村へと流れ出るのだ。

「雪解け水がたまる時期だからね。すこし出す量を多くしとかないと」

 母は水路を覗き込みながら誰に言うでもなくそうつぶやいた。

 母の腰は曲がり、長年の苦労で十も老けて見えた。

「おっかあ。落ちんといてな」

 水路は深さ三メートルはある。そのうち水の深さは一メートルもないが、勢いはかなりある。母の枯れ木のような体を押し流すには十分だ。

 この水路はこのまままっすぐ村に流れていき、ひまわりと母が住む家で二手に分かれて、村の田畑に水を供給しながら村の中を流れ、村の終わりでまた一本に合流し、さらに下流の村々へと流れていく。

 もし、水の勢いを間違えて水が水路を溢れたら、真っ先に飲み込まれてしまうのは我が家だ。損な役回りである。

「なんで、うちらが、こげに大変な役目を押し付けられなあかんねん」

 ひまわりのいつもの愚痴に、母はいつも通り笑った。

「この堰堤を作ったときの現場監督がお父ちゃんだったからの」

 母は堰堤をふり返った。

「昔は堰堤があんな立派なもんじゃなかったから、ため池がよう溢れかえっての。水害に毎年のように苦しめられとった。それで、お父ちゃん達が来てくれたんや」

 母は懐かしそうに目を細めた。

「職人さんたちにてきぱき指示を出してな。立派じゃったよ」

 ひまわりは鼻を鳴らして不満を表した。

「そんなに立派な職についとったんなら、母ちゃんを連れて村を出たらよかったんじゃ。なんでこんな、なんも無い村に居残ったんじゃ」

「……お母ちゃんのせいじゃよ」

 母は堰堤を見上げながら呟いた。

「お母ちゃんの家は昔、お侍さんでの。この山の水源を守ることが役目じゃった。川の始まりは下流の全ての村に影響するでの。大事なお役目だったんじゃよ」

 その話は母から幾度となく聞いていた。責任感の強い母は先祖代々守り抜いてきたこの水源の守人を放棄出来なかったのだ。

 だが、この水源を守っていた武家の子孫は別に母だけではない。むしろ、本家は別で、村の中心に大きなお屋敷を作ってでかい顔をしている。堰堤や水路の仕事は全て母に押しつけて、である。

くだらない。

 その一言を、ひまわりは口に出すことなく飲み込んだ。

「どれ。畑の様子も見ていこうか」

 母は曲がった腰で水路をそれ、獣道に入っていく。その足取りがあまりに頼りなくて、ひまわりはハラハラしながら後ろについて歩いた。

 ため池からほんの十数メートル。

 木々に隠されるようにして、山肌に三つの棚田が連なって作られていた。

 隠し田である。

 年貢の取り立てが厳しかった時代。村民達は脱税目的で山の斜面にこっそり田畑をつくり、役人に隠れて農作物を作った。

 ここは奥池からこっそり水も引くことが出来たし、貯水池の管理だと言えば人が出入りが多くても誤魔化しやすい。実際、この隠田は明治の地租改正でも見つからなかったらしい。

 しかし、今となっては山の中にある、不便なだけの、いわく付きの土地である。母とひまわりは、大して広さもないこの土地をなんとか切り盛りして糊口をしのいでいた。

 山の中だが、思いの外、日当たりは悪くはない。だが、やはり女手ひとつでは限界がある。

 だから、ひまわりが母を支えた。

 毎日山の中の畑の世話をして、水路の管理を母の隣で手伝った。

 学校には行かなくなった。行く暇などあるわけがなかった。


「ひまわり」

 もう鍬も振るえなくなった母は、棚田の縁に腰掛けて、畑の土を掘り返す娘に声をかけた。

「なんじゃ」

 母は少しの間、黙った。ひまわりは怪訝に思って、手を止め、ふり返る。

「……お父ちゃんを、恨まないでおくれ」

 今度はひまわりが黙る番だった。父の真似をして頭に巻いていた手ぬぐいを解いて、首元の汗を拭う。

「別に、恨んでおらん」

 父のせいでひまわりはいまだに「穴掘りの娘」と村で揶揄されている。だが、そんなこと、今さら気にはならない。

「お母ちゃんを許しておくれ」

 母が絞り出すように言った。木々の青葉の間から差す日差しが、母の頬を照らし、目尻がキラリと光った。

 母はいまだにひまわりの顔の麻痺を、自分のせいだと思っている。村の奴らにそう決めつけられたから。そう責められたから。

「許すも何もないわい」

 ひまわりは怒ったように返して、鍬を再び振るった。

 ひまわりの婚期はとうに過ぎていた。

 穴掘りの娘で、しかめっ面しか出来ないひまわりを、嫁に迎えたい家などあるわけがなかった。

 別に構わない。ひまわりはそう思っていた。女性の未婚率が二パーセントを下回る時代であっても、どれだけ村の中で後ろ指を指されても、恥ずかしいとは思わなかった。

 だが、この世界で、誰にも自分が求められていない、必要とされていないという事実は、どことなくもの悲しくはあり、夜な夜な彼女を苦しめることがなかったかと言えば嘘になる。

 でも、その程度だ。くだらない話だ。

「ひまわり」

 また母が呟いた。

 ひまわりはふり返らなかった。

 それでも母は言った。

「大好きよ。ひまわり」

 母は「大好きよ」と繰り返した。わずかに震える声で。

「お父ちゃんも、お母ちゃんも。あんたのことが大好きなの」

 ひまわりは下唇を噛んで、鍬を振るい続けた。

 その土ぼこりに汚れた頬を、一筋の涙が伝った。




 その年の冬、母が亡くなった。


 


 母の死後、ひまわりはあれだけ嫌がっていた堰堤と水路の管理を一手に引き受けた。

 ひまわりは母と違い、村人に媚びるようなことは一切しなかった。過度な要求をしてくる村民と、真っ正面からぶつかり、もともと父が持っていた平地の土地を返せとも主張した。そして村全体の水路をせき止め、その要求を強引に通した。ひまわりは土地を取り戻した。

 そんなひまわりを村人は謗り、見下しながらも一定の畏怖と敬意をもって接するようになった。

 堰堤を整備し、水門を調整し、水路を管理し、平地の畑と隠田を耕す日々の中、数十年の時間が過ぎた。

 時代の流れとともに、村は発展することはなく、過疎化の一途をたどった。

 次々と村民が土地を捨てて出て行った。

 村の田畑は次々に荒れ果て、家屋は一つ、また一つと廃墟に変わった。

 だが、ひまわりは決して村を去ろうとはしなかった。


 ただ一人、寂れていく村の最奥で。水源の守人であり続けた。





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