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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第7章 人は誰にもなり得ない
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【第7章】 廃村キャンプ編 23 ひまわり1


 23 ひまわり1


 向日葵という花が嫌いだった。

 夏に自分の背丈を超すほどに伸び、辺りを見下ろすその大きな頭も好きにはなれなかった。花と言うにはあまりに慎ましやかさに欠ける。どうせ自分の名前につけるのならば、すみれとか、百合だとか、せめて桜にしてほしかったと、麻原ひまわりは物心がついてからずっと思い続けていた。


 父は母の妊娠がわかってすぐ、赤紙で招集された。

若者が根こそぎ戦争に連れて行かれた村で、歳を食っているにも関わらず活動的な父は貴重な男手であった。

 父は、若い頃にため池と水路の治水工事のために村に働きに来た。その際に、母に一目惚れし、村に婿に来た変わり者だった。そんな経緯もあり、水路の整備、ため池のダムの管理を一手に引き受けていた。炭鉱で働いた経験もあったそうで、戦争が始まってからは防空壕を至る所に掘って村人に日々感謝されていたし、頼りにもされていた。

 とはいえ、四十をとうに超えていた。そんな年配の父の徴兵に村民は驚いたし、大まかな日本の戦況も理解した。このタイミングで父がどんな状況の戦場に送られるのかも想像に難くなかった。

 ずっと子宝に恵まれず、田舎で肩身の狭い思いをしていた母にとって、僥倖と悲劇の合わせ技はさぞ堪えただろう。だから、父が夏に生まれるだろう娘に「太陽のように笑って家を照らしてほしい」と向日葵の花の名を与えたのは安直ではあるが理解の出来る話ではあった。

 

 ひまわりが生まれた夏。

 ひまわりが産声を上げる数日前にアジア太平洋戦争が終結した。

 だから、ひまわりは玉音放送をその耳では聞いていない。都市部では大変な騒ぎだったらしいが、ラジオの数が少ない田舎ではその放送の意味を理解できたのは一部分だった。ひまわりが生まれた麻心村にいたっては、村唯一のラジオがうまく電波を拾わず、村民は誰一人として昭和天皇の声を聞き分ける事が出来なかったらしい。村民が終戦を知ることとなったのは数日後だったそうな。

 戦争の終わった夏に生まれた赤子に「ひまわり」という名はぴったりだと村民は盛り上がったそうだ。これからはいいことばかりだ。笑顔が溢れる村にしてくれと。

 だが、皮肉な事に、生まれたひまわりが笑顔を見せることはほとんどなかった。というより、笑えなくなった。精神的にではない。身体的にである。

 まだ一歳も迎えていなかった冬に、ひまわりは高熱を出した。三日三晩うなされた挙げ句、なんとか峠を越えることは出来たが、顔面に麻痺が残った。片目が垂れ、口角は下がったまま動かなくなった。食べることもしゃべることも問題は無かったので、町から来た医師は「運のいい方だ」と表現をしたものの、これから一生、常に怒っているかのような顔になった向日葵の花の名を持つ我が子に、母がどんな思いを抱いたのかは考えたくもない。

 女手一つでひまわりを育て、寝ずの看病をしていた母を、村民はよってたかって責めたてた。そういう村だった。そういう時代だった。

 それでも、母はひまわりの前ではずっと笑顔だった。笑顔を作りながらも目の端の涙を拭っていた。だから、幼いひまわりは、人は誰しも笑うと自然と涙も出るものなのだと思い込んでいた。自身が笑うことができなかったので、無理からぬ誤解だった。

 父が帰ってきた夏のことはよく憶えている。

 熱い日差しの中、玄関先に現れた骨と皮で出来たような知らない男に、ひまわりは勢いよく抱きしめられて混乱した。南方戦線に送られていた父は数年をかけて故郷に帰ってきた。どれほどの地獄を見てきたのだろう。父は娘の顔の病のことなど全く気にする素振りも見せず、ただひまわりを抱きしめて泣き叫んだ。

 屈強だった夫が骸骨のようになって帰ってきた。母はその日ばかりは笑顔を作ることができず、父と一緒にひまわりを抱きしめ、泣きじゃくった。

 赤子のように泣く両親に挟まれ、身動き一つ出来なかったひまわりは、庭先に母が植えたひまわりを呆然と眺めていた。




 戦争は父の精神を不可逆的に破壊した。

 父は以前にもまして穏やかになったらしい。母に対しても娘に対しても常にやさしかった。

 だが、村一番の働き者だった父は働かなくなった。

 家の周りの畑仕事ぐらいはするし、ひまわりの面倒もよく見てくれた。しかし、村の寄り合いや共同作業には一切参加しなくなった。以前と同様の貢献を期待していた村人は憤慨し、縁側に呆けたように座る父を代わる代わる罵倒しに来た。しかし、父は表情ひとつ変えることなく、訪問者をじっと見つめるだけだった。

 まだPTSDの概念など欠片も無い時代だ。心に傷を負った父はただの怠け者と見なされた。

 そんなある日、父が愛用のツルハシを持って家を出て、村中がどよめいた。「ついに麻原さんが働き始めた」と。村民の期待の視線を受けながら、働きだした父だったが、その作業内容に、村民は全員、開いた口が塞がらなかった。

 父は防空壕を掘り始めたのである。

 村を挟む山の側面に掘られて一度も使われていなかった防空壕をツルハシ一本で掘り進めていったのだ。

「麻原さん。戦争はもう終わったぞ」

「空襲なんぞもう来ない。戦争中ですらここらには来なかったではないか」

「そんなことより水路の整備をしておくれ」

「ダムの管理はどうするんじゃ」

 村民の数々の声に父は一切構わず、無言でツルハシを振り続けた。

 そこでようやく、村民達は父が完全におかしくなっていることを理解し、ひまわり達の一家に何も言わなくなった。というより、関わろうとしなくなった。

 村の寄り合いには母が出て行くようになった。水路やダムの管理についても、ある程度の知識があった母が引き受けた。お陰でぎりぎり村八分にはされずに済んだが、そしられ、蔑まれる一家になったことは変わりなかった。




「おとう。お昼持ってきた」

 八歳になったひまわりは母が作った握り飯の入った風呂敷袋を父に渡した。父は手ぬぐいで顔を拭いながら「ああ。すまんな」と昼食を受け取る。

 父が掘り進めた防空壕はもうトンネルと言っても過言では無いほどの規模になっていた。山肌の入り口からここまでどれほど歩いただろうかとひまわりは背後をふり返る。数メートルおきに木の柱で補強された地下通路は途中何度も枝分かれしていた。

 まるで蟻の巣のようだ。

 父は受けとった風呂敷を開けようとせず、ランタンの吊り下げた柱のそばに置くと、また岩壁にツルハシを振るい始めた。

「おとう。握り飯、一つもらってもいいか」

「おうよ」

 ひまわりは風呂敷を広げ、竹の葉に包まれた握り飯の一つを取り出し、かぶりついた。先ほど家で昼食を食べはしたが、満腹にはほど遠かった。母に言えば自分の分を分けてくれただろうが、八歳の女児と同等の量を食べている痩せこけた母にそんな事を言えるはずがなかった。

「……おとう。うち、お金ないんよ」

 父は「そうか」と答えながらもツルハシを振るう手を止めない。

「山の畑にもっと芋でも植えようか。今度、耕しにいくよ」

 ひまわりの一家はもう誰も使っていない山の中の畑を使っていいことになっている。不便なだけの土地だ。以前は平地の広い田畑も持っていたのに、父がいない間に「女手一つでは耕せまい」といいように言われ、親戚に取られてしまった。

 父がこんな風である限り、これからも返してはもらえないだろう。

「おとう。いつまで、ここ、掘るんじゃ」

 父は答えない。

「もう、戦争は終わったぞ。アメリカとも仲直りしたと学校でも言うてた。もう、爆弾なんて落ちてこんよ」

 握り飯を咀嚼しながら言ったひまわりに、父は強い口調で言った。

「わからん。何か起こるかも」

 いつもだったら、ひまわりはここらで話を切り上げ、母の手伝いに戻る。だが、この日はなぜか、父を問い詰めることを止められなかった。

「何かってなんじゃ」

 父は手を止めずに答えた。

「アメリカが嘘をついとるかもしれん。中国が攻めてくるかもしれん。ソ連が上陸してくるかも」

「そんなこと、おこるわけなか!」

 ひまわりは立ち上がった。

「もう、日米安全保障条約も、サンフランシスコ平和条約も結ばれているんじゃ。おとう、そんなことも知らんくせに!」

 父は振り向いて、目を丸くして娘を見つめた。

「よく、知っとるのお。学校でならったんか」

 ひまわりは唇を噛みしめた。

 授業は誰より真面目に聞いている。みんなが遊びに入れてくれない休み時間も、教室に残って、新聞を読んでいる。わからない言葉は自分で調べている。だれよりも自分は頑張って勉強していると、その自覚はある。

 でも、誰も認めてなどくれなかった。同級生はもちろん、先生だって。

 自分がこんな顔だから。

 おとうがこんな風だから。

 自分のことなど誰も知ろうとすらしない。何をしていても馬鹿にされる。

 両手を握りしめる我が子を、父は愛おしげに見つめた。

「すごいなあ。ひまわり。おとうは鼻が高いぞ」

 ひまわりは鼻の奥がツンとして、父から目をそらした。

 父だけだ。自分の頑張りをわかってくれるのは。褒めてくれるのは。

 でも、自分が村でいじめられるのはおとうのせいだ。

 学校で馬鹿にされるのも、おとうのせいだ。

 ひまわりはいつの間にか泣いていた。自分の垂れ下がった目から涙が伝うのを感じながら、地面を睨み付けながら、ひまわりは絞り出すように言った。

「おとう。もう掘るの止めてくれ。村の仕事もしてくれ。寄り合いにも出てくれ。もうええやろ。もう、十分やろ」

 父は娘の泣き顔を見つめ、そして使い古したツルハシに目を落とした。

「あと、数メートルやったんや」

 何の話かわからず、ひまわりは涙だらけの顔を上げた。

 父はツルハシの頭を持ち上げた。

「おとうはな、南の島で塹壕をほっとった。あとちょっとってとこで。おとう、疲れてもうての。どうせ大丈夫やろうと、続きは明日やろうと、途中でやめて寝てしもうた」

 父はじっとツルハシを見つめる。

「その晩じゃ。敵兵に包囲されてもうてな。爆弾やら迫撃砲やらが雨みたいにふってきた」

 父はツルハシの摩耗し、丸くなった切っ先を見つめた。

「あと、数メートル掘っとれば、他の通路につながるはずじゃった。そしたら、海岸に抜けられるはずだったんじゃ。そしたら、全員、みんなで一緒に逃げられたはずだったんじゃ」

 父は勢いよく、ツルハシを自分の頭にぶつけた。鈍い音が鳴る。

「俺のせいじゃ。俺があと数メートルを怠けたから。通路をつなげれなかったから」

 父の額から一筋の血が流れ、ぽたりと、地面に落ちた。

「俺のせいで、みんな死んだ」

 父は首に掛けていたてぬぐいを額に被った。そして、ツルハシを握りしめ、壁にむき合う。

「もう、あんなことは嫌じゃ」

 ツルハシが壁を打つ。甲高い音とともに、石が飛び散る。

 もう空襲は来ないのに。

 もう戦争は終わったのに。

 ひまわりは静かに涙を流した。

 父の中では、戦争はまだ、続いているのだ。

「俺には、もう、母さんとお前しかおらん」

 父はツルハシを振るいながら呟いた。

「水路のことも、ダムのことも、村のことも、村の奴らのことも、もうどうでもええんや」

 父は背を向けて、ツルハシを岩壁につきたて続ける。

「お前ら以外はどうでもええ。お前らさえ生きていれば、俺はもうええ」

 ひまわりはとぼとぼと出口に向かって歩き出した。

 娘が立ち去っていく中でも、父は手を止めなかった。

「お前らだけは助けるんじゃ」

 血が混ざった汗を床に落としながら、父はツルハシを振るう。

「つながれ」と呟きながら。

「つなげてやる」とそう繰り返しながら。

 戦場で通路をつなげることが出来ず、仲間を死なせた男は、使われない通路を掘り続ける。

 祈るように唱えながら。

「つながってくれ」




 父が洞窟の倒壊により命を落としたのは、それから数年後のことだった。





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