【第7章】 廃村キャンプ編 22 昔話
22 昔話
「ご苦労さん」
土間を改装したダイニングキッチンで洗い物を終えた秋人に、囲炉裏の前の老婆がねぎらいの声をかける。
「洗い物、多かったじゃろ」
「温水が出るんだもん。楽なもんだよ」
「そうかそうか」と老婆は頷く。
「坊主。ついでに、縁側から追加の薪をとってきてくれんか」
「もちろん」
頼みを快諾して秋人は屋敷を出て、縁側に回った。「すまんの」とその背中に声をかけた老婆は、表情を硬くし、囲炉裏の一辺に寝転ぶ私をぎろりと睨み付けた。
「んで、なんでお前はさぼっとるんじゃ」
「酔っちゃったのよ」
老婆は大仰な溜め息をついた。
「坊主だけを働かせて、良心の呵責はないのか」
「あんただって片づけ参加してないでしょ」
「老体じゃぞ。労らんかい」
「こんな時だけ年寄りアピールすんな」
そう言う老婆は、天井から吊り下げた自在鉤から大きな鉄鍋をぶら下げて、なにやらコトコト煮込んでいた。
身を起して、のぞき込む。赤い液体がわずかに泡立っていた。ふわりとアルコールが香る。
「あの大層な冷蔵庫にな、高そうなワインが入っとったんでな」
「煮込んだの?」
「砂糖と一緒にな。つまみ用の干しぶどうも入れてみた」
見ると老婆のそばに明らかに年代物のワインの空き瓶が転がっていた。一本まるごといったらしい。高級ワインになんてことを。
「もったいなくない?」
老婆は口角をひん曲げた。
「小洒落た、お高くとまった高級品を見ると、腹がたたんか」
それは、なんとなくわかってしまう自分がいた。普段、自分が手に取ることも無いような一級品が、老婆に囲炉裏で雑に煮込まれている。
どことなく、愉快であった。やはり私は酔っているらしい。
「お、ホットワイン? 最高じゃん」
秋人が薪の入ったカゴを持って居間に上がってくる。
「悪いな」と薪のカゴを受けとった老婆は眉をしかめた。
「なんじゃ。全部しめっとるぞ。こんなもんくべたら煙たくてしゃあないわい」
「あれ、違った? 縁側の地面にポンと置いてあったから。てっきりこれのことかと」
さっき私が山で拾うだけ拾って放置していたやつだ。流石に悪いと思って「私が行くわ」と立ち上がる。急に動いたせいだろう。わずかに視界が揺れた。
「ちょ、大丈夫?」
ふらついた私を秋人が胸で受け止めた。両肩に手が添えられる。
「……秋人、あんた、背、伸びたわね」
秋人の胸に額が当たるのを感じた。随分胸板が厚い。細身の割りに良いがたいをしているとは思っていたが、まるで金属板のようだった。男性の身体とはこれほど固い物なのか。
思わず手でも触れようとした私を秋人が慌てて引き離す。
「ちょ。酔いすぎ」
我に返り、「鍛えてるの?」と尋ねてその場を誤魔化す。
「え? まあ。運動不足にならない程度には」
「おい」と老婆がじと目で見上げる。
「いちゃつくのは結構じゃが、火が消えてしまうぞ。薪を取ってこい」
私が腕いっぱいに薪を抱えて戻ると、鍋の前は随分盛り上がっていた。
「これがシナモンスティック、グローブもいいかも。コリアンダーもいれてみよう」
秋人が満面の笑みで謎のスパイスを次々と鍋に放り込んでいた。
「そんなもん、いつも持ちあるいとるのか」と老婆が呆れながらも鍋をかき混ぜる。
「キャンプではね。胡椒も自分でブレンドしてるんだよ」
「ブレンド? 七味みたいにか」
「そうそう。深いんだよ。スパイス沼は」
「沼? 沼で胡椒がとれるのか」
微妙にかみ合わない二人の会話に苦笑しながら「お待たせ」と薪を老婆の隣にドサドサと置く。老婆は仏頂面のまま鼻を鳴らす。どうやらそれが礼の代わりらしい。老婆のことがなんとなくわかってきた。
「よし。飲んでみるか」
老婆は自身の手提げ袋を引き寄せると、底から古めかしい湯飲みを三つ取り出した。自前の物だろうか。
「シェラカップもあるよ」
と秋人が洗い物カゴを探り出すのを、老婆が「ええ」と止める。
「洗ったばかりじゃろ」
「いや、どうせ湯飲みも後で洗うことになるじゃん。一緒だよ」
「雰囲気じゃ。雰囲気。湯飲みの方が、ばえる、わ」
老婆はお玉ですくったホットワインを三つの湯飲みに注ぎ、囲炉裏の縁に並べた。
「好きなのを取れ」
秋人が代わりにとってくれた湯気の立つ湯飲みを囲炉裏越しに受け取り、老婆の正面に座る。秋人のスパイスでワインの香りがより重層的になっていた。
「いただきます」
なんとなく流れで、三人同時に湯飲みに口をつける。私と秋人がずずずと音を立てて啜ったのに対し、老婆は上品な物で、音一つ立てず、湯飲みを傾けた。上品なものだ。これでは私と秋人の方がよっぽど年寄り臭い。
暖められたワインはアルコールが適度に飛び、口当たりがまろやかになっていた。干しぶどうの甘みが口の中に広がったかと思うと、スパイスがピリリとしたアクセントを残す。
「おいしい!」
「うまあ!」
私たちの反応に、老婆は「寒い夜はこれに限る」と口角をひん曲げる。
秋人はいたく気に入ったようで、呷るように一杯目を飲み干すと、すぐに「おかわり!」を叫んだ。老婆は上機嫌におかわりを注ぐ。
「ヒッピー娘は、おかわりするか」
私は「ゆっくり飲むわ」と首を横に振る。
確かにごくごくいきたいのはやまやまなのだが、結構酔ってしまっている。アルコールも完全に飛んでいる訳では無いだろうし、調子に乗らない方がいいだろう。
「おばあちゃん、首からかけてるそれ、お守り?」
秋人が今になって気がついたのか、前傾姿勢になった老婆の胸元を指さす。老婆はチラリとぶら下がった巾着袋に視線を落とし、「ああ。そんなもんじゃな。」と頷いた。
「お前ら二人もぶら下げてるではないか」
そう言って老婆は私の首に掛かった紐を顎でしゃくる。秋人は老婆から受け取った二杯目を傾けながら私を見た。
「確かに。ナツ姉、それなに?」
「私のもお守りよ」
私が首からかけた紐を引っ張ると胸元から黄色いネックナイフとファイヤースターターが引きずり出される。小石ほどの大きさのそれを鞘から引き抜くと、5センチほどの刃が現れた。
「物騒じゃな」
「そう? キャンプ中はすぐ取り出せて便利よ」
紗奈子にもらったネックナイフ。この子には何度も命を救われている。
私にとってはこれ以上無いお守りであると言える。
「そういう秋人は?」
秋人の首に掛かっているオレンジの紐を見る。セーターの奥に本体は隠れて見えない。
「何かけてるの?」
「これ? 僕もお守りかな。別にナイフとかじゃ無いよ。ただのネックレス」
「へえ。見せてよ」と私が言うのを阻むかのように、「おばあちゃんのそれには何が入ってるの?」と秋人は即座に老婆に話を振った。なんだなんだ。なぜ隠す。
さては。どこか恥ずかしいネックレスなのかもしれない。例えば、中学の修学旅行で買った竜の十字架とか。
よし。あとで隙を見てやろう。そう私がほくそ笑んでいると、老婆は鼻を大きく鳴らした。
「たいしたもんじゃないわい」
「なに? お札とか?」と秋人はわくわくした様子で聞く。ほんと知りたがりだな。こいつ。それに対し、老婆は静かに答えた。
「形見じゃよ」
秋人の笑顔が固まった。
はい。秋人くん、またやらかしました。
囲炉裏に静寂が訪れた。炭がパチリと爆ぜる。
「もう結構前のことじゃから気にせんでええぞ」
老婆が静かに炭火を見つめる。
「えっと、ごめんなさい。無神経で」
秋人が頭を下げる。「ええと言うておる」と老婆が手を軽く振る。
「だが、まあ、折角だし、老人の長話にでも付き合ってもらおうか」
私と秋人は顔を見合わせた。この無愛想で無口な老婆が長話?
「ヒナタというての。そいつの形見じゃ」
私は風呂上がりに見た大黒柱を思い出す。身長を測った跡と、「ヒナタ 十さい」と刻まれた文字。
「……息子さん?」
思わずそう問うと、意外な事に老婆は首を横に振った。
「いや。姉じゃ」
姉?
自分の思い込みに驚く。確かに、ヒナタという名は女性の名でもおかしくはない。そして、十さいと刻まれていたから子供でイメージしてしまったが、よくよく考えればだれにだって十歳の頃はある。老婆の姉が十歳の時分ということは、あの文字はかなり昔に刻まれた物だったということか。
改めて屋敷を見渡す。この家は長い時間の中、多くの人間の人生を見届けてきたのだろう。
秋人が身を乗り出す。
「お姉さんは、どんな人だったの」
老婆は黙った。長い沈黙だった。自分から長話をすると言っておきながら、口を閉じてしまった老婆。秋人は質問した手前か、真剣に老婆の横顔を見つめていたが、私は気まずくなって湯飲みに口をつけた。私がホットワインを啜る音だけが居間に響く。
「……阿呆じゃったよ」
老婆は何かを思い出すかのようにふっと笑った。
「相手の気持ちなど考えずに、余計なことばかりしての。へまばかりのくせにやたら偉そうでな。難儀な姉じゃった」
老婆はすっと上を向いた。囲炉裏からわずかに生じた煙が、梁だけが井桁に組まれている天井の穴に吸い込まれていくのをじっと見つめる。
「この村のこともそうじゃ。こんな古いだけの村、なんの価値もないというのに。最後の最後まで大事にしとった。儂を含め、村民全員が捨て置いたこの土地を、一人で守ろうとした頑固者じゃ」
老婆は上を向いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
「でもな、どんなに阿呆で頑固でも、ヒナタは儂の姉じゃ。誰がなんと言おうとな」
老婆は呟いた。聞き取れないほどに小さな声で。囁くように。
「儂は、大好きじゃったよ」
私はぎゅっと湯飲みを握りしめた。
秋人は目の端を赤くしていた。相変わらず共感しやすい奴なのだ。変わっていない。
「だから、儂は誓った」
老婆の声は落ち着いていた。
目も閉じたままだった。
だが、まぶたの奥で天井の梁を睨み付けているのがわかった。
「儂は、許さん」
老婆の声質が変わった。
昔を懐かしむ柔らかい声から、地の底から響くような低い声へと変化する。まるで唸るような。呻くような。
呪うような。
「姉を殺し、この村を奪った奴らを儂は絶対に許さん。儂は必ず復讐する。何年かかろうとも、儂はこの村に戻ってくる。そう誓った」
老婆がゆらりと立ち上がった。ずっと曲げていた腰がパキパキと音を立てて伸びていく。
「儂は、呪い続けたよ。来る日も来る日も」
まずい。私の本能が警鐘を鳴らしていた。老婆の言葉の意味はわからない。だが、直感でわかる。これ以上、ここにいてはいけない。
だが、身体が動かない。
「この数年間、心の中で、ずっと呪い続けておった。朝も昼も夜も。一日中」
老婆が目を開いた。不気味なほどにゆっくりと。
そして、鳥肌が立つほどに穏やかな声で呟いた。
「そして、今日、儂は帰ってきた」
穏やかな目が秋人を見つめ、そして、私に向けられる。
「だからの。お主らには邪魔して欲しくないんじゃ」
まずいまずいまずい。
私は咄嗟に立ち上がろうとした。立ち上がり、ネックナイフを抜き取り、老婆を牽制しながら距離を取ろうと思った。
だが、思っただけだった。
私の身体はピクリとも動かなかった。
「すまんの。長い話にはならんかった」
ドサリと、鈍い音がして、わずかに床板が振動する。
秋人が倒れている。
「時間切れのようじゃしの」
腕の力が抜けて、湯飲みがその場に落ちる。赤い液体が床に広がる。
「……ウメ……さん?」
自分の声が随分遠くに聞こえた。
あんた、ワインに何を入れた。
「安心せい。死にはせんわ」
ぐらりと空間が揺らいだ。気がつくと私は床に手をついていた。焦点が定まらず、自分の視線が泳ぐのがわかる。そんな自分の眼球が老婆の足下の湯飲みを捉える。
ぼやける視界の中、老婆の湯飲みにはホットワインがなみなみ入っているのがわかった。
啜る音がしないわけだ。そもそも一口も飲んでいなかったんだ。
鈍重な衝撃と共に、視界が九十度傾く。自分が床に倒れ込んだと理解した時には視界が白く染まり始めていた。身体は動かない。唯一、震えながらも動いたのは舌だけだった。だから私は言った。一言だけ。
「……くそばばあ」
急速に視界が真っ白になる。
「ヒッピー娘」
もう何も見えない。
「儂の名は、ウメではない」
そんな中、老婆の声が冗談みたいに頭に響いた。
「あんな奴と一緒にしてくれるな」
老婆が自嘲するように笑う。
声が急速に遠くなっていく。
そして、何も聞こえなくなった。