【第7章】 廃村キャンプ編 8 水路
8 水路
水温が低すぎると、冷たいなんて感覚ではなくなる。
痛い。全身の肌を針で突き刺されているようだった。極端な環境の変化に身体がついていけなくなり、頭がくらくらした。どちらが上か下かわからなくなる。実際、私の視界は暗い川底と明るい水面が交互に入れ替わった。体が回転しているのだ。そして、垣間見える水上の景色が急速に変化していることにも気が付く。
流されている。
私は必死に手足をばたつかせ、なんとか水面に顔を出す。石造りの高い壁が両側にどこまでも続いている。まるで城壁に挟まれているかのようだ。その壁に手を伸ばそうとするが、幅五メートルあるような水路の中心を流されているため、手が届かない。なんとか壁際に寄ろうと水を掻く。だが、急速に体温を奪われた四肢は思うように動かない。濡れた服は体に絡みつき、まるで拘束着を着せられているかのようだった。これでは泳げたものではない。
ザバンと後方で秋人が飛び込む音が聞こえた。身を挺して助けに来てくれたのだ。秋人。お前ってやつは。
「ナツ姉!」とすぐ後ろから頼もしい声が聞こえる。助かった。
「僕につかまっ……ぐえ! ごほ! うああああああああ!」
お前も流されてんじゃねえか!
まずい。私は水路をなすがままに流されながら、焦燥にかられた。このままじゃ仲良く二体の溺死体が出来上がってしまう。
私はがむしゃらに両手を振り回した。何か、何かつかまるものはないか。
その手が、何かを掴んだ。軽い、乾燥した草木の感覚。これは、藁?
藁をまとめて縛って作られた筒が水面に浮いていた。一メートルほどだろうか。私はそれを死に物狂いで両手で鷲掴みにし、必死で引き寄せて抱き着いた。抱き枕のようだ。
藁の塊は浮き輪のような浮力を私にもたらした。顎を藁の上に載せ、辛うじて呼吸を確保する。
よし。助かっ……
そう束の間の安堵も許さず、浮きかけた私の全身がガクリと沈み込んだ。藁の塊ごと再び水中に没しかける。
秋人が、私の腰にしがみついていた。
「た、助けてええ! ナツ姉えええ!」
お前、ほんと何で飛び込んできたんだよ。
藁の束も大人二人分を支える浮力は持ち合わせていない。このままでは二人で沈んでしまう。くそ。どうしよう。秋人を蹴りつけて自分だけ助かろうか。
童話「蜘蛛の糸」作戦を一瞬、思案したが、実際はそんなこと出来るはずがない。途方に暮れたその時だった。
藁の束が、ぐいいっと力強い力で引っ張られた。自然と私の顔も水中を脱する。見ると藁の束の中心に太い紐が巻き付けられていた。それがぐいぐいと引っ張られているのだ。
そこでようやく、この藁の束は、誰かが浮き輪代わりに投げ込んでくれたものだと気が付く。
ゆっくりではあるが、徐々に二人の体が川の側面に引っ張られていく。ひたすらに石壁が続いているのだとばかり思っていたが、一部、階段になっている場所があった。随分広い階段だ。幅が三メートル以上ある。そこから紐を引っ張ってくれているらしい。キャンプ場のスタッフだろうか。ありがたい。命の恩人だ。
安堵のあまり泣きそうになる。逆光でよく見えないが、階段中腹で紐を引っ張っている人物に両手を合わせて祈りたい気分だった。
こちらも必死に足をバタつかせて階段を目指す。腰にしがみついている秋人も現状を把握したらしく、バタ足を始めた。
ようやく石造りの階段によじ登った際には、二人とも息も絶え絶えであった。幅のある段に二人で転がる。秋人は水を飲んでしまったようで、ごほごほとせき込んでいた。水中で叫ぶからだ。
紐を引いてくれていた人物がゆっくりと降りてくる。
「あ、ありがとうござ……」
涙目で礼を言おうとした私は、その仏頂面を見て言葉が引っ込んだ。
老婆は言った。
「藁をも掴むとはこのことじゃな。ヒッピー娘」
私は老婆の顔を見つめ、混乱する。
さっきまでこの婆さん、山肌で墓参りをしていたはずだ。もちろんキャンプ場の外。水路の外側で。なぜこの短時間でここまで来れたんだ。空でも飛べるのか。
「なんのつもりじゃ。心中か」
ガタガタと震える身を起こす。
「えっと、藁……」と呟くと、「ふむ」と老婆は私が抱えていた藁の束を一瞥した。
「弁慶というての。囲炉裏の上で川魚なんかを燻すにのに使うんじゃよ。道端にほっぽってあったから使わせてもらった。ラッキーじゃったの」
老婆は相変わらずのしかめっ面で鼻を鳴らした。
「それに場所も良かった。この階段は昔、洗濯場として使われとっての」
言われて見渡す。やけに幅が広い階段。十人は並んで座れそうだ。
村中の女が集まってはおしゃべりしながら服を川の水につけて擦る様子が目に浮かぶ。
この水路は村人の生活と直結していたのだろう。
「命は大切にせい。ヒッピー娘。薬はほどほどにしておけよ」
「……薬物中毒者ではないです」
「じゃあ、なんで真冬に川なんぞ飛び込むんじゃ。正気の沙汰ではないぞ」
返す言葉がなかった。
秋人もようやく体を起こすと、半泣きで老婆に抱き着いた。
「おばあちゃん! ありがとおおお!」
「離せ、気持ち悪い」
私は責任を持って秋人を老婆から引きはがす。ハグ癖でもあるのかこいつ。
老婆は秋人のせいで濡れたモンペを「やれやれ」と手で払う。その手は掌の内側が赤く擦り剝けていた。紐一本で大人二人を引っ張り上げたのだ。逆に老婆自身が水中に引きずり込まれてもおかしくなかったはず。態度にはおくびにも出さないが、きっと老婆も命がけでやってくれたのだろう。
私は立ち上がると、秋人の後頭部を持ち、今朝のカンナのごとく、腰を直角にまげて頭を下げた。
「……ありがとう、ございました」
老婆はなんと答えるでもなく、大きく息を吐いた。私はより一層、頭を下げる。
その時だった。私のお洒落ダウンのフードから、ぼとりと何かが飛び出した。それは石造りの階段の上に打ち付けられ、ビチビチと跳ねた。頭を下げたままぽかんとする私の頭部をバウンドして、もう一匹。
秋人が言う。
「あ、カワムツだ」
続きは今夜21時に投稿予定です。
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