【第7章】 廃村キャンプ編 5 同乗者
5 同乗者
「あんた、よくそんな大荷物で電車乗ってきたわね」
「重かったでしょ」と呆れる私に、「うん。腕が抜けるかと思った」とカーキ色のダッフルコートに身を包んだ秋人は笑った。コートの下は小洒落たセーターだったが、高級アウトドアブランドのロゴがついている。首にはオレンジ色の紐をかけており、上着の中に続いていた。ホイッスルでもかけているのだろうか。
対して私はキャンプ用のTシャツとジーンズ。首にはネックナイフ。スニーカー。まあ、お決まりのキャンプスタイルだ。
ただ一つ、いつもと違うところは、いつもの着古した難燃性のジャケットではなく、以前に紗奈子にショッピングモールで選んでもらったダウンを着ていることだった。別に手持ちでこれが一番お洒落だったからとかではない。なんとなく久々に着たい気分だったから、なんとなく選んだだけだ。理由など無い。キャンプデートだからとかではない。決して。
待ち合わせ場所の駅のロータリー。秋人は60リットルはあるのではないかという登山用のバッグを背負い、加えて大きなコンテナ二つ両脇に置いていた。50センチ四方ほどのアルミ製の箱だ。
「なにこの箱。武器商人みたいじゃない」
「実はね、これ、ハンガリー軍の……」
「わかった。わかった。早く積み込んで」
私は当然、現地集合だと思っていたのだが、なんでも秋人の車が今整備中とのことらしい。で、最寄り駅で集合して、私のキャンピングカーでキャンプ場に向かう手はずになったのだ。
「お邪魔しまーす。うわ。外見は黄色一色でかわいいのに、内装はシックでかっこいいね」
側面のスライドドアを開けて乗り込んだ秋人は感嘆の声を上げた。
「古い車種なのに、くたびれた感じが全然ない。新車みたいだ」
「まあね」とそっけなく返しながらも鼻息が大きくなる。自慢の愛車を褒められるとそりゃ嬉しいさ。
「あ、そうだ」しげしげと車内を眺める秋人の背中に思い出して声をかける。
「言ってたように、この車、同居人が……」
私がそういった瞬間、運転席の方から一人の少女が勢いよく飛び出してきた。長い黒髪にセーラー服。なかなか成仏しないことで定評のある、今日も元気いっぱい、地縛霊のカンナちゃんだ。
カンナは秋人の目の前まで行き、気を付けの姿勢になったかと思うと、勢いそのままにぺこりと腰を折った。見事に九十度である。カンナは声が出せないので、精いっぱいのはじめましてなのだろう。礼儀正しい幽霊である。
彼女はこのキャンピングカーに憑りついている。というより、もう同化してしまっているらしく、キャンピングカーそのものであると言ってもよい状態のようだ。まあ、詳しいことは私はもちろん、カンナ自身もよくわかっていないらしい。消えたり現れたりが自由自在なので、初めは急に現れるたびにびっくりしたものだ。最近は慣れてきたので、私が全くノーリアクションになり、カンナとしては物寂しいらしい。
「ああ、カンナさんでしたっけ。日暮秋人です。よろしくお願いいたします」
そう笑顔で言うと、秋人も頭を下げた。
しかし、その方向はカンナがいる場所に対して全くあさっての方向であった。
秋人に自分が見えていないことが分かったのだろう。カンナはあからさまに残念そうな顔をした。しかし、当然と言えば当然なのだ。そう何人も幽霊が見える人間がいるはずがない。カンナもそれは重々理解していただろうが、最近、私に続いて立花春香と「見える人」が連続して登場したものだから、どうやら期待してしまっていたようだ。春香と友達になれてすげえ喜んでたもんな。
「ナツ姉の大切なお友達と聞いています。二日間、大変お世話になります」
秋人は見えもしない相手に向かって随分丁寧にあいさつを行ってから車に乗り込んだ。柔軟な奴だ。幽霊が憑りついている車だと伝えた時も全く驚かなかった。「ああ。ナツ姉見える人だもんね」とそんな軽い反応であった。
「そういえば、私、あんたに霊感の話とかしたことあったっけ?」
「うん。めちゃめちゃしてたよ」
秋人はコンテナをよいしょと後部座席の足元に運び入れる。
「そうなの? 私、昔に霊感があった記憶とか、全く無いんだけど」
私の感覚では、幽霊が初めて見えたのは林間キャンプでの顔が半分無い女、岸本あかりが人生初の幽霊と出会いだと思っていた。
しかし、春香も、奈緒も、私は昔から霊感があったと主張している。そして、そう言われると少しずつ、「見えた」記憶のような物が徐々に現れ始めるのだ。どうも釈然としない。
「見えてたよ」秋人は重そうなリュックを背中から降ろし、私に向き直った。
「でも、見えなくなったんだよ」
「え、どういうこと」
私がそう聞き返したところで、秋人は「うおお。すげえ! 左ハンドルだ!」と運転席に駆け込んでいってしまった。私はため息をついてキャンピングカーに乗り込み、スライドドアを閉めた。
「ナツ姉! 僕が運転してもいい?」
「だめよ」
「なんで」
大切な愛車だ。慣れない奴に運転させてどこかにぶつけられて傷でもついたら、たまったものではない。
秋人は「ちぇっ」と残念そうな声を漏らしながらも、おとなしく助手席に収まった。
その横顔をカンナが無遠慮に覗き込む。そして、ふと私に対して振り向いて、にんまりと笑った。ささっと手話を作る。
『イケメンですね』
「うるせえ!」
「え! ごめん! はしゃぎすぎた?」
突然に叱りつけられたと思い、びくりと肩を上げた秋人に「いや、気にしないで」と釈明しながら運転席に座る。
「日々のイライラにはカルシウムがいいらしいよ。牛乳あるけど飲む?」
「それはほんとにうるせえ」
キーを回すと、稼働したエンジンが小気味のいい振動を返す。
「じゃあ、とりあえず、行きましょうか」
「お世話になります!」
黄色いキャンピングカーがゆっくりと動き出した。
駅のロータリーを出て、しばらく進むとあっという間にあたりから商業施設がなくなり、民家が並ぶのみとなった。それもそのうちにまばらになり、田畑が広がる。季節は十二月の初旬。収穫もとうに終わり、刈り取られた稲の茎が物寂しげに並んでいる。
「うわー。のどかだねえ。いいなあ、田舎暮らし」
「きっと、言うほどいいもんじゃないわよ。なにかと不便でしょうし」
「キャンピングカー住まいの人が言うセリフとは思えないね」
秋人は笑って、改めて車内を見渡した。
「いつも、どうやって寝てるの? 座席が倒れるとか?」
「ええ。後部座席を折りたたんでベッドにすることもできるんだけど、私は大体ルーフテントで寝るわね」
「ルーフテント?」
私は前方を見たまま、指を突き上げた。
「正確にはポップアップルーフ。天井が上がるのよ。この車」
私は後部座席の方を指さした。後部座席のすぐ手前の天井に、ハンドルが取り付けられている。
「あの、天井の、ハンドル見える? 銀色の」
「うん」
「それを回して、車内の高さを拡張できるの。で、床を引き出して区切れば、上にもう一部屋できるの。そこに上がって寝ることが多いわ」
「え、変形するの? この車」
変形というほどではない。車内の屋根部分が持ち上がり、折りたたみ式になっている側面が展開するだけのことなのだから。
「つまり、二階建てになるってことだよね」
「簡単に言うとそうね。イメージとしては屋根裏部屋ができるのに近いかな。そんなに広くないから、ほんとに寝転ぶぐらいしかできないし」
私が言い終えないうちに、秋人はすでに靴を抜いで助手席の上に登っていた。
「ちょ! 危ない! 運転中!」
秋人は聞いていないようだった。天井のルーフテントに頭を突っ込んでいる。いつもなら完全に仕切りを収納しているのだが、今日は荷物が多くなるかと思ってあらかじめ仕切りを出し、物をいくつか置いている。まだ屋根は展開していないので、高さはほとんどは無いが。
「すごい! 確かにこれで屋根が上がれば屋根裏部屋だね!」
そこで秋人は置かれている荷物の中身に気がついたらしい。
「お、金属用塗料のスプレー缶だ。それも黄色ばっかり」
私はちらりと秋人へと視線を上げながら答える。
「ええ。前、教えてもらったようにギアを塗装しようと思って」
「いいじゃん。このメーカー、僕も使ってるよ」
ガサゴソと、秋人は座席に立ったまま、屋根裏部屋の荷物に手を伸ばす。
勝手に漁るなよ。
「ちょっとやってみたんだけどね。なかなかうまくいかなくて!」と遥か上方の秋人の頭に叫ぶように言う。
先日、試しにランタンのフレームを塗装しようとしたのだが、塗料がダマになって出たり、まだらに染まってしまったり、乾いた後もすぐにポロポロ剥がれたりと散々だった。
助手席に戻ってきた秋人にそのことを伝えると、「ああ。なるほど」と頷いた。
「いい? まず塗装の前にはしっかりウェットシートとかで油分を拭き取らないと。あと、つるつるの上に塗装してもすぐ膜が剥がれちゃうから、軽く紙ヤスリをあてておくと表面に凹凸ができて塗料が定着しやすいよ」
「え、そうなの」
「うん。あと、そもそも冬場はスプレー缶の中の圧が下がっちゃうから、温めてからじゃないとちゃんと出ないよ」
それも知らなかった。道理で塗料の出が悪かったわけだ。
「じゃあ、次は鍋で湯煎してからやってみる」
そう頷いた私に、「ダメダメ!」と秋人が慌てる。
「スプレー缶なんだから、直接熱したりしたら爆発しちゃうよ」
「あ、そうか」
「うん。ストーブの上の鍋で湯煎し続けたスプレー缶が爆発して、部屋中が塗料まみれになった動画、ワイチューブで見たことあるもん」
そりゃそうか。ガス缶と同じだもんな。無闇に熱したら缶の内部の圧力が上がってしまう。
危ない危ない。危うく全身黄色まみれになるところだった。やはり詳しい人間の助言は大切にせねばならない。
「ギアのカスタム、色々教えてよね」
「もちろん」と秋人は大きく頷く。
「で、その代わりと言ってはなんだけどさ」
秋人が興奮した様子で声を弾ませた。
「今日、あの屋根裏部屋で寝ていい?」
私は即答した。
「だめよ」
「なんで」
「あんた、普段自分が寝てるベッド、人に貸したい?」
「ああ、ちょっといやだね」
「でしょう。そういうこと」
徐々に道幅が狭くなってきた。若干、傾斜も出てきた。麻心村は、確か山間にあるはずだ。ここから上り坂が続くのだろう。
「それにあんた、今日はテント持ってるでしょうが」
「自分のテントで寝なさいよ」そう言おうとした私だったが、秋人の返答に言葉を失った。
「え、自分のテントでは寝ないつもりだけど」
「は?」
私は秋人のきょとんとした顔を睨みつけた。
「まさか、私と同じテントで寝るつもりだったの?」
いくら昔、仲良かったといえど、大人になってからは初めての外出である。男女が一つ屋根の下で一泊なんて聞いていない。
「ふざけないで。私たち、そこまでの関係じゃないでしょうが」
秋人は首を傾げた。
「え、いや、今日のキャンプ場、ロッジ泊だよ」
「へ?」
「予約の時に確認したら、ロッジに宿泊するタイプのキャンプ場らしい。もちろん、二棟借りてるから……」
「あ、そ、そうなの」
「ごめん、言ってなかったね。ナツ姉、そんなに気にするとは思ってなくて……」
やばい。早とちりで怒鳴りつけてしまった。しかも、なんだかすごく秋人を異性として意識してる感が出てしまった。え、恥ずかし。
「あ、いや、私も別に気にしてるとかじゃなくて……」そう赤面しそうになる顔を俯かせながら、もごもごと釈明する私に、秋人が急に大声を出した。
「ナツ姉!」
「え、なに」
秋人の方に振り向く。しかし、秋人は前方に向けて目を見開いていた。
「前! おばあちゃん!」
急いで前を見た私は驚愕した。幅の狭い田舎道。そのど真ん中に老婆と男性がいた。腰を曲げた老婆とそれを脇から支えるようにして中年男性が歩いている。こちらに背を向け、全く車に気づいていない。車との距離は十メートルも離れていなかった。
急いでブレーキを叩き踏む。突如回転を止められたタイヤが強烈な摩擦音を響かせた。劣化したアスファルトを削りながら、車体がつんのめるように止まる。二人まであと数メートル。まさに鼻先である。
あ、あぶねええ。
まさかの初デート(?)で、人をひき殺すところだった。
当の老婆は、急ブレーキの音でようやく、背後の車に気が付いたらしく、よたよたと道の左脇に寄った。男性が慌てて支える。絵にかいたような田舎のおばあちゃんだった。男性の方は作業着のような服を着ており、頭に手ぬぐいを巻いている。こちらに向き直ると、にこにことしながら一礼した。老婆の息子さんだろうか。
老婆の方は花柄のあずき色の割烹着に同系色のモンペをはいていた。田舎のおばあちゃんって絶対このタイプの服を着ている気がする。何か決まりでもあるのかと思ってしまうほどの高確率だ。
首には赤い紐をかけていて、胸元に巾着袋を下げていた。お守りだろうか。
ここまではよくいる田舎のおばあちゃんスタイルなのだが、この老婆が一つ違和感を醸し出している点は、大きな登山用リュックを背負っていたことだった。秋人のリュックよりは小さいだろうが、小柄な老婆の背に乗っているとかなり巨大に見える。しかも、老婆はそのリュックの上に巻いた布団を横向きに載せていた。幅は一メートルはあるだろう。まるで丸太を運んでいるようだった。
顔は見事な仏頂面。しわだらけの顔で私を睨みつけていた。朗らかな男性の方とは対照的だ。
慌てて運転席のサイドの窓を開ける。
「ごめんなさい。お怪我ありませんか?」
数秒の沈黙の後、老婆が口を開いた。
「……ないわい」
相変わらず険しい表情であった。
「えっと、ほんと、すみませんでした」
「さっさと行け。邪魔じゃ」
取り付く島もないとはこのことだった。息子さんの方は不愛想な老婆のフォローのつもりだろう。苦笑いして私にぺこりと頭を下げた。私も頭を下げ返す。
そこに老婆が吐き捨てるように続けた。
「邪魔じゃと言っとるじゃろ。はよ行かんかい。このヒッピー共」
ヒッピー?
1960年代の語彙が出て、面食らう。
「こんなけったいな色の車でわが物顔で走り寄って。何様のつもりじゃ」
ああ、なるほど。派手な黄色い車。しかもキャンピングカー。確かにヒッピースタイルに見えなくもないか。
言いたいことはわかった。が、納得した瞬間、愛車のカラーリングを侮蔑的に表現されたことに対しての怒りが沸き上がった。けったいな色だと? 私のメインカラーだぞ。思わず抗議の声が出る。
「ちょ、失礼じゃないですか」
これ以上魅力的な色合いはないだろう。もう一回言ってみろ。
すると、老婆はゆがんだ顔で「けばけばしい色じゃ」と繰り返した。そして、嘲笑するように続ける。
「あれじゃな。センス、ゼロじゃな」
「なんですって!」
かろうじて抑えていた堪忍袋の緒がはじけ飛んだ。
よろしい。戦争だ。くそばばあ。
「そもそも、あんたらが道のど真ん中をあるいていた自体、危なかったでしょうが! わが物顔で歩いていたのはどっちよ!」
「歩行者優先の原則も知らんのか。どうせ無免許なんじゃろ小娘!」
「はあ? 免許返納したからってひがんでんじゃないわよ!」
「ちょ、ナツ姉、落ち着いて」と秋人が私の肩を掴むのと、息子さんが「まあまあ」とでも言うように老婆の肩に手をのせたのはほぼ同時だった。彼はそれと同時に私にも「どうもすみません」といった表情で目くばせする。
私もそれを見て、ふと冷静になった。脳内で自らをたしなめる。そうだ。何はどうあれ、急ブレーキの一件は完全に運転手の私の失態だ。老婆が腹をたてたのも無理はない。ちょっとぐらい、暴言だって吐きたくなるさ。
そのタイミングで、秋人が私の肩越しに顔を出す。
「あの、とりあえず、驚かせてしまってすみませんでした。こちらの前方不注意です。申し訳ない」
老婆はふんっと鼻を鳴らした。相変わらずの仏頂面だが、老婆も秋人に何か言うつもりはないようだった。
「ほら。ナツ姉も」
私は怒りの感情を必死で押さえつけ、荒い鼻息のまま、「……すみませんでした」と再度頭を下げた。
息子さんは「いえいえ」と言うように首を横に振って微笑んだ。
老婆はというと、ベロンと舌を出して、片目の下を引っ張っていた。
こんなに腹の立つあっかんベーは生まれて初めてである。
私は老婆の方を極力見ないようにしてもう一度、男性にだけ黙礼すると、窓を閉め、車を発進させた。
ゆっくりと親子の姿が小さくなっていく。老婆がまたよたよたと進み始め、息子さんがそれを支えるようにして傍らを歩く。
「あのおばあちゃん、どこいくつもりなんだろ」
遠ざかっていく二人を振り返りながら、秋人がつぶやく。
「このあたりに住んでるんでしょ」
「さっきから民家はほとんどないけどね」
まだ少し老婆に対するいら立ちが残っていた私は「知ったことじゃないわ」と言い捨てた。
ガクリと車体が上方に傾いた。本格的な登り道に入ったらしい。
「この坂、おばあちゃん、あの大荷物で登るのかな……」
「そうなんじゃない?」
興味なさげに返した私に、秋人が遠慮がちに言う。
「……乗せてあげようよ」
「……」
私は沈黙した。
確かに、相手は老人、大荷物。そうしてあげるのが人の道だろう。だが、私は逡巡の末に言った。
「だめよ」
「なんで」
私は鼻息荒く言い放った。
「……嫌いだから」
「え、最低?」
「うるさい」
あれだけ愛車を馬鹿にされておいて、なんで情をかけてやらねばいかんのだ。
「いい? 私はそもそも他人をこの車に乗せるのは嫌いなの。なんであんな無礼千万な婆さんを……」
その瞬間、ガタンと車体が揺れたかと思うと、快調に上り坂を進んでいたキャンピングカーが動きを止めた。エンジンが停止したのだ。坂を下り落ちそうになり、慌ててブレーキを踏む。
急いで鍵を回す。しかし、何の反応もない。
「あれ? エンスト?」
秋人が焦った声を出す。だが、私には原因がわかっていた。ゆっくりと後部座席を振り返る。
「なんのつもり? カンナ」
カンナは後部座席に座ってつーんと横を向いていた。
「エンジン、かけなさいよ」
カンナが横を向いたまま、ゆっくりと手話を作る。二単語だけ。
『おばあちゃん』『乗せる』
それだけ言うと、カンナはすっと姿を消した。
私はため息をついた。直接聞いたことはないので、想像でしかないが、どうせカンナはおばあちゃん子なのだろう。そうでなくても、困った人を見過ごすタイプではあるまい。
カンナ、言い出したら譲らないからなあ。
「……わかったわよ」
この、いい子ちゃんめ。
私はブレーキから徐々に足を離した。ゆっくりと車体が後ろ向きに坂を下っていく。私は勢いを調整しながら、バックミラー越しに車の向きを調整する。
キャンピングカーはまるで時を巻き戻されたかのように、老親子の目の前まで後退し、動きを止めた。
ガチャリと、勝手にスライドドアが開いた。
老婆がいぶかしげに覗き込む。
「なんじゃ。ヒッピー娘。ブレーキだけじゃなく、アクセルの位置もわからんくなったんか」
「うるさい。さっさと乗って」
「ああ?」
秋人が助手席を離れ、老婆に近づく。
「おばあちゃん。向かう方向は同じでしょ。乗って乗って」
「いらん。自分で行ける」
「いやいや、上り坂、こっからきついよ。一緒に行こうよ」
老婆は数秒、秋人の顔を見つめると、「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「そこまで言うなら、世話になろうかの」
老婆はそう言うと、「よっこらせ」とキャンピングカーに乗り込んだ。
「荷物、もらうよ」
そう手を伸ばす秋人に「いや、ええ」と手を振り、リュックを背負ったまま、後部座席にどかりと座り込んだ。流石に丸太のような布団は背負ったままでは座れないので、立てて足の間に挟むようにした。厚みのある布団のようで、太さもそれなりにあるせいで、まるで大木にしがみつくコアラのようだ。
「感心な坊主じゃ。ちゃんと老人を労わる気持ちが備わっとる。ヒッピー娘とは大違いじゃな」
腹立つなあ。蹴り出してやりたい。
私は舌打ちしながら、再度エンジンキーを回した。憎たらしくも、今回は一発でエンジンがかかった。
やれやれだ。
ガチャリとスライドドアが閉まる。「ほお、自動ドアか。古めかしい車かと思っとったが、わりかしハイテクじゃの」という老婆の言葉には反応をしないことにした。説明も面倒くさいからね。
そこで、ふと、私は怪訝に思って振り向いた。
「あれ? 息子さんは? まだ乗ってないでしょ」
秋人が私の言葉にきょとんとした。
老婆も胡散臭そうに私を見た。
「なに言っとる」
「いや、だから、隣にいた男の人。一緒に歩いてたでしょ」
老婆は数瞬黙ってぼそりと言った。
「儂は、一人じゃ」
私は口をつぐんだ。さっとサイドミラーとバックミラーを確認する。
いない。どこにも。
「ああ」と秋人が納得したような声を出す。
「ナツ姉。このおばあちゃんは、一人で歩いてたよ。最初から最後まで、ずっと一人だった」
老婆が秋人を見る。
「大丈夫かあの小娘。薬でもやっとるのか」
私は数秒間黙ると、すっと前を向いた。
「そっか、ごめん」
アクセルを踏む。ゆっくりと車が動き出した。