【第7章】 廃村キャンプ編 1 再会
彼女がいなければ今の自分はいないであろう。
こんな風に言うとどうもありきたりに聞こえてしまうかもしれないが、本当に言葉の通りなのだ。彼女に出会えなければきっと僕は死んでいた。それも結構な人生の序盤で。具体的に言えば、そう。中学二年生の夏ぐらいに。
あの、人生のどん底の夏。まだまだ僕は子供で、でも、もう現実から目をそらせる歳でもなくて。おぼろげながらも人生を俯瞰でき、曖昧ながらもその先は絶望に満ち溢れていることだけは嫌というほど理解できた夏。理解ができてしまった夏。たった十四歳の自分がその先の人生をあっけなく見限ってしまうほどに失意に包囲された夏。
その地獄のような夏休みに、彼女は僕の前に現れた。
こう言うとまるで彼女がヒーローか何かなのかと誤解させてしまうかもしれないが、決してそういう人ではなかったと、ここに明言しておきたい。僕の人生への登場の仕方も別に「颯爽と」、という感じではなかった。なんなら「突然に」でもなかった。その夏以前の僕の毎日においても、彼女はすでに登場していたのだから。なんなら毎日のように会っていた。ただ、彼女はそれまで僕のことを一切眼中に入れていない様子だったし、僕自身も全く彼女のことなど意識していなかった。だから彼女が僕に初めて話しかけてきた時は心底驚いた。まるでゲームのNPCが突然に自我を持って話しかけてきたかのようだった。
閑静とは言い難い住宅街の隅で24時間営業をうたう寂れたコンビニエンスストア。どれぐらい寂れていたかというと、僕が店内に入るといつも貸し切り状態。たいして入荷もしていないだろうに、どの弁当にも半額シールが貼られていた。疲れた顔の店長と、女子高生バイトが一人。それ以外の店員は見かけたことがなかった。コンビニの顔とも言える自動ドアはセンサーは不調なのか前に立っても開くのにいつも数秒かかった。
その日の夜も店内は閑散としていた。僕は床を清掃している女子高生バイトの横をいつものように無言で通り過ぎ、出口に向かった。
彼女が突然に僕の二の腕を掴んだ。ぎょっとして振り向いた僕の目に、初めてまっすぐに彼女の顔が映った。
不機嫌そうな顔に、サラサラした金髪。金というよりかはもっと明るく黄色に近い、藁のような色合いの髪だった。これで着崩した制服とピアスでもあれば、一目でよくいるギャルだと判断できるのだが、彼女はコンビニの制服のボタンを几帳面にもすべて留めていた。
口を真一文字に結んだ彼女と僕は数秒間無言で見つめあった。
口を開いたのは僕のほうだった。
「あ、あの。何か……」
「わかってるでしょ」
僕の言葉を遮る形で彼女は吐き捨てた。そして、僕が手にぶら下げていたボストンバッグをくたびれたスニーカーで蹴り上げた。僕がさっき隙を見て手当たり次第に詰め込んだおにぎりとパンが、がさりと音を立てる。
「レジを通しなさい」
そこでようやく僕は彼女がカウンターの向こうでレジ打ちをしたり、フロアで棚出しをしたりすること以外の行動ができる人格を持った一人の人間であることに気が付いた。
「おい。なんとか言え。通報すんぞこの……」
固まる僕にため息交じりに言った彼女の言葉は途中で途切れた。僕が彼女のジーンズに包まれたむこうずねを思いっきり蹴り上げたからだ。
「うが!」
彼女は女子高生とは思えない獣のような悲鳴? を上げてしゃがみこんだ。
今だ!
僕はボストンバッグを抱え込むと一気に駆け出した。向かうは無論のこと出口である。足の速さには自信があった。出口さえ抜けてしまえばこちらのものだ。
だが、僕は出口直前でスピードを緩めざるを得なかった。
だって、自動ドアのセンサーの反応が遅すぎるのだから。
否応なく扉の前で立ち止まった僕の耳にこれまた女性が発したとは思えない唸り声が聞こえた。まるで狼のような。
「うがあああああああ!」
思わず振り返った僕の体が一瞬で宙に浮いた。目の前に藁色の髪がふわりと広がる。
タックルされた?
そう自分の状況を理解するのと同時に、僕と彼女は店外に飛び出していた。
僕の背中で砕け散った自動ドアもろともである。
奇跡的にガラスの破片の隙間を縫うようにして駐車場の地面に転がった僕は、気づくと冷たいアスファルトの上で大の字になっていた。僕は呆然と空を眺めた。コンビニの明かりと街灯のせいで星はほとんど見えなかったが、雲一つない夜空だった。空を見上げるなんていつぶりであろうかと僕はふと思った。だって最近は足元ばかりを見て歩いていたから。
そんな僕と夜空の間に、彼女がぬっと顔を割り込ませてきた。
僕の胸倉を掴んで無理やり引き起こされる。
「観念しなさい」
彼女の背後で、バッグヤードから飛び出してきた店長が悲鳴を上げていた。そんなことは意に介さず、彼女は金髪を振り乱しながら勝ち誇ったように叫んだ。
「私とやりあおうなんて十年早いのよ! この万引き小僧!」
もう一度。言わせてほしい。彼女がいなければ、今の僕はいない。
これはそういう出会いだった。
1 再会
日暮秋人との十年越しの再会は、なんともありふれて間の抜けたものだった。
私はその日、大型ショッピングセンターをぶらついていた。
私の耳にはワイヤレスイヤホンが装着されていた。私は服やらの買い物の際は基本イヤホンをしている。店員に話しかけられたくないからだ。「冬物をお探しですか?」なんて声をかけられたら背筋がぞわっとする。「あ、はい。まあ」とでも答えてみろ。微妙に好みでない冬服の新作やらなんやらをごり押しされる。しかも、いっぱい喋ってもらった後では断りづらい。まあ、断るんだけど。かといって「いえ、見てるだけです」なんて言ってしまうと、そのあと好みのものが見つかってもなんだか買いづらい。見てるだけじゃないのかよと思われてしまいそうだ。いや、実際はそんなことは思われないんだろうけど、なんだかちょっと気になってしまうのだ。もう簡単に言おう。私は買い物中に誰にも話しかけられたくない。以上。
とはいえ、私がこの日に入店したのは服屋ではなく、アウトドアショップだった。
経験上、登山道具やキャンプ道具の店の店員は聞けばなんでも教えてくれるが、あっちから話しかけてくることはあまりないことが多い。ような気がする。アパレルとは商売の仕方が違うのかもしれない。
そして、極めつけに、私はこの日、無意味にイヤホンをしているだけではなかった。ワイヤレスイヤホンの機能をフル活用して電話をしていたのである。店員が話しかけてくる余地などあるはずがなかった。
「さっちゃん。どう? 売れてる?」
『うーん。ぼちぼちかなあ』
通話の相手は藤原紗奈子である。現在バリバリのシングルマザーだ。
『あ、あの乳母車みたいなのはすぐ売れたよ』
「乳母車?」
『ベージュみたいな色のやつ』
「ああ。キャリーワゴンね。あれはなんかのファッションブランドとのコラボ商品で限定色だったはずだから」
『なるほどー。じゃあもっと高めに設定しておけばよかったのに』
紗奈子が売っているのは私のキャンプ道具である。
現在、私はキャンピングカーでさすらいの生活をしている。そのため、手元に置いておけるギアは極端に制限される。寝袋も焚き火台もチェアもそれぞれせいぜい数種類ずつが限度だ。
ということで残りのキャンプギアはとりあえず貸しコンテナに詰め込んでいた。季節によって装備は変えないといけないので、定期的にギアを交換するために立ち寄るようにしている。
しかし、そんなことをしていると、「使うギア」と「持っているけど使わないギア」の差が顕著に見えるようになったのだ。
ある時、紗奈子が私のギア交換に立ち会った時があった。コンテナをがさがさ漁っている私の背中に、「なっちゃん。キャンプ道具、どれだけ持ってるの」と呆れたような声を出した。私が「そうだなあ。焚き火台だけでも十個以上持ってるよ」となんとなしに答えると「え、そんなに使うの?」と返され、私は返事に詰まった。
「ちょっと並べてみようよ」と紗奈子に提案されて、十個以上持っている焚き火台をコンテナの前にずらりと並べる。
「……どう違うの?」
「見ればわかるでしょ」
「いや、形が違うのはわかるんだけどさ」
「仕方ないわね」
私は愛すべき焚き火台たちを手に取り、ひとつずつ解説を始めた。
「軽くて小さいほど持ち運びは便利。だけど、制約も多いわ。例えばこのピコグリルなんてたためばB5サイズなんだけど、組み立てた時、形状的に薪を一方方向にしか積めないから積み方に工夫が必要ね。薪の長さも制限されるし、耐重量もそこまでじゃないから注意が必要。上級者向きね。ガンガン燃やすというよりは一人で静かに火を眺める用かしら。対して、このヘキサゴンなんかは六枚の金属板を折りたたんでるから重いんだけど、組み立てると大きな六角錐になって薪の大きさも気にせずどんどんぶち込める。でもその分、薪の消費スピードが速いから……」
「ストップストップ!」
紗奈子が両手を振って遮る。なんだ。いいところだったのに。
「その、キャンプギアについて語り出し始めると止まらないのは何なの? オタクなの? 息継ぎはいつしてるの?」
そんなつもりはなかったのだがと首をかしげる。
「あれじゃない? ライブ配信で喋りまくってるから一方的な会話が癖になっちゃってるんじゃない?」
確かに。私が最近始めた小銭稼ぎ、Ytubeでのライブ配信では視聴者の質問がくるといつもこんな感じだ。キャンプのことならいくらでも語っていられる。この前の配信ではついに視聴者の方から『せっかく送ったスパチャが流れて行ってしまったからもっと手短に答えてほしい』と苦情が来たぐらいだ。
「まあ、その長語りが楽しそうだから、そこそこ人気あるんだろうけどねー」
そう苦笑した紗奈子は、おもむろに腰に手を当てて言い放った。
「で、なっちゃん。ほんとにこれ、全部使ってるの」
私は沈黙した。
勿論、購入直後に一度は使用している。それはもうどの焚き火台も楽しかった。キャンプ場にはそれぞれの特色があり、全く同じサイトなど存在しない。それと同じだ。全く同じギアなど存在しない。たとえ道具一つでも侮ってはならない。それぞれがそれぞれの目的のために最適化された珠玉のデザインだ。キャンプスタイルによって最適な焚き火台が変わる。逆に言えば、焚き火台が変われば、その日のキャンプ自体の形だって変わりえるのだ。新しいギアを使うときほどキャンパーとして心が躍る瞬間はない。と思っている。個人的には。
だが、すべてのギアを二回目、三回目と使ったかどうかと言われると正直、答えに窮する。
私はおもむろに一つの焚き火台を手に取った。
ヘキサゴン。文字通り、六角形の焚き火台だ。六辺を折りたたむことで驚くほど薄くなり、持ち運びに便利なのだが、パタパタと六枚の金属板を開いて組み立てると六角錐の焚き火台が誕生する。縦横高さがそれぞれ五十センチほどあるので、私の持っている焚き火台の中ではかなり大きい方だ。どの角度からも作業がしやすいし、底に空気穴が複数あるので、通気性がよく、燃焼率も高い。文句なしの逸品である。これを使って盛大に薪を燃やした際は、まるでキャンプファイアーのようで実に楽しかった。
だがしかし、ヘキサゴンをつかったのはその一回きりであった。
理由は明確。この焚き火台の最大のメリットでもある大きさだ。きっと五・六人で使っても不便しないであろうこのサイズは、生粋のソロキャンパーである私には無用の長物だったのである。燃焼率が高いことも裏目に出た。よく燃えるということはそのまま薪の消費量が多いということなのだから。私一人で楽しむにはオーバースペック過ぎたのだ。
ということで、この数年間、この子が再び使われることはなく、数多くのギアに埋もれながらただ保管され、今日に至る。
今並べている焚き火台の半数近くがそんな感じだ。一回、よくて数回使われたのみでお蔵入り。もちろん、存在を忘れたわけではない。愛するわが子たちに対してそんなことあるもんか。キャンプを行く直前に部屋に並べたこの子たち全員をじっくり見て、その日の相棒を決めたものだ。
でも、最終選ばれるのはどうしても汎用性があって使いやすい数種類のみとなってしまうのだ。あとはお留守番である。
そしてコンテナにぶち込んだ今となっては、目に触れることさえ減ってしまった。それはもちろん、焚き火台だけの話ではない。チェアも、テーブルも、コットも、ランタンも、クーラーボックスも、テントにだって当てはまる。
なんだか数回しか使われずに捨て置かれた数々のギアがかわいそうになってきて、私はヘキサゴンを手に持ったまま項垂れてしまった。
そんな私を見て、紗奈子は言ったのだ。
「フリマアプリで、私が売ってあげようか?」
「とんでもない!」
この子たちは私が足を棒にしてキャンプショップを回り、目を皿にしてネットを巡ってお迎えした大切な家族なのだ。それを他人などにおいそれと渡してなるものか。
キッとにらみつける私に、紗奈子は冷徹に言い放った。
「でも、使ってないんでしょ」
「うぐ!」
ヘキサゴンを胸に抱え、小さくなって震える私に、紗奈子は膝を落としてなだめるように語りかけた。
「なっちゃん。キャンピングカーに、この子たちみんなを乗せられるの? 無理だよね?」
まるで幼稚園の先生に諭される幼子の気分だった。
「きっと、道具たちも、ちゃんと使ってくれる人たちのところに行ったほうが幸せなんじゃないかな。なっちゃん」
かくして、私のギア断捨離が始まったわけである。
『でも、思ったより売れないもんだねえ』
「そう?」
私はアウトドアショップの陳列の隙間を練り歩きながらスマホに返答した。
数時間かけて私が(泣きながら)選別した数十のギアたちは現在、紗奈子の実家の倉庫に詰め込まれている。
絶賛さすらい中の私にはネット出品などできるはずもなかったし、リサイクルショップにまとめて持っていくのはなんだか買いたたかれそうだった。という訳で、紗奈子の提案通り、フリマサイトで売ることに決まった。面倒ではあるが、一品一品を個別で出品する形だ。とはいっても、私がしたのは初期出品費用を設定し、リスト化したことだけだ。あとは紗奈子任せである。
紗奈子が育児の隙間時間を見つけてリストを見ながら商品ページを作り、出品。売れたら購入者とのメッセージのやりとり。倉庫から引っ張り出して梱包。そして発送まで全部やってくれている。紗奈子の負担が大きくないか心配だったが、送料と手数料を抜いた売り上げは、私と紗奈子で折半となっているので「割のいい時短バイトだね」と本人はご満悦である。
『いやー。もっと飛ぶように売れるかと思ったんだけどね』
そういう紗奈子のボヤキを聞きながら、私はフリマアプリを起動させる。紗奈子のアカウントページ「さっちゃんショップ!」を開く。出品一覧ページには赤ちゃん用品と武骨なキャンプ道具が交互に並んでいる異様な雰囲気のアカウントだ。
「結構売れてんじゃん」
現在出品されているもののうちの半分ほどに「SOLD」マークがついている。悪くないのではないだろうか。
「売れるのはすぐ売れるんだけどね。もう発売中止になってるやつとかは多分もっと高くしても売れるよ。でも、市場にたくさん出回っている人気商品はやっぱり定価自体が値崩れしてるからなあ。なっちゃんの値段設定の半額ぐらいに値下げしないと売れないの」
私がキャンプ道具を一番買いあさっていた時期は、ちょうど未曽有のキャンプブーム真只中であった。人気商品はすぐに売り切れ。今ではどのホームセンターにでも置いてあるような品がそれこそフリマアプリで定価の二倍三倍の値段で取引されていたのだ。
しかし、現在。キャンプブームはいまだ続いているものの、ある程度の落ち着きを見せている。供給も追いつき、市場の在庫は潤っている。価格帯も相場に戻った今となっては、私の価格設定はずれているのかもしれない。
「まあ、無理に売らなくてもいいよ。ほんとに欲しい人にもらってほしいからさ」
そんな風に言うと、なんだかペットの引き取り人を探しているような気分だ。そういえば、ついこないだ、春香が子猫の里親を探していたなあ。結局見つかったんだろうか。
『ところで、店内BGMみたいなの聞こえるけど、なっちゃん今どこにいるの? レストラン?』
「いや、買い物中」
『服? 誘ってくれたら選んだのに』
「不要よ。アウトドアショップだから」
『え? また増やすつもり?』
そう言われて私の動きがぎくりと止まる。私の手には新発売の焚き火台が収まっていた。軽量でコンパクト。デザインも悪くない。網をつければバーベキューコンロのようにも使える。実にいい商品だ。これで是非、大きなステーキを焼いてみたい。
「いや、見てるだけだよ……」
『なっちゃん、そう言いながらも、見てたらだんだん欲しくなるタイプでしょ』
否定できない。
とは言え、私にも意地がある。「で、でもさ」と反論を試みる。
「ほら。私、Ytubeライブしなくちゃだから。新しいギアがあった方が配信が盛り上がるっていう……」
『いや、論点ずらさないで。ていうかもうそれ買うじゃん』
無意識に「うぐ!」と声が漏れる。
『いや、私は別に構わないんだよ。どうせそれも売ることになるんだろうけど、私はバイトが増えてむしろ好都合だよ。でもなっちゃん。売るのと同時に新しいのを買ってたら、さすがに本末転倒じゃないかな』
ぐうの音も出なかった。
私は無言で焚き火台を棚に戻した。
紗奈子との電話を終え、私は陳列されたぴかぴかの焚き火台たちの前に両膝を抱えてしゃがみこみ、床に向かってため息をついた。
前回の花火キャンプで実感したが、紗奈子、それから美音には私のダメなところがことごとくばれてしまっている。出会って初めの頃は二人に対して「頼りになるお姉さん」キャラだったんだけどなあ。最近はなんだかすっかり私が小言を言われる側だ。年上の威厳もあったものじゃない。
「あのお、大丈夫ですか?」
急に男性の声が飛び込んできて、私はびくりと顔を上げた。ついに店員に話しかけられたか。そりゃあこんな風にしゃがみこんでいたら体調不良と思われるのも無理はあるまい。私は急いで立ち上がった。
「あ、すみません。大丈夫です! ちょっと落ち込んでただけで……」
そこまで言って私は面食らった。
彼は膝をついて私の顔を覗き込んでいたらしく、突然立ち上がった私を驚いた表情で見上げていた。髪は暗めの茶髪。くせ毛なのかおしゃれパーマなのかは判断がつきにくい程度の髪質だった。ネイビーの上等そうなフェルト生地のチェスターコートに、グレーのタートルネックセーターを合わせている。どう見ても店員には見えない。
彼は驚いた表情のままゆっくりと立ち上がった。今度は私を見下ろす形になる。身長180センチはあるだろうか。
「ご、ごめんなさい。ご心配をかけちゃって。全然大丈夫ですので」
私は無理やり笑顔を作った。しかし、その笑顔が固まる。彼が驚いた表情のままだからだ。じっと私の顔を穴を開けるかのように見つめている。
え? 何?
もしかして、Ytubeのファンとかだろうか。
しかし、すぐに脳裏をよぎったその考えに我ながら内心苦笑する。自意識過剰だ。それなりに顔と名が売れてしまっているが、ありがたいことにまだまだ芸能人には程遠い。街中で話しかけられることも皆無だ。ワイチューバーとしても駆け出しで、ライブだって一部の物好きが暇つぶしに覗いているに過ぎない。きっと知り合いに似ていたとかそんなオチだろう。
「……ナツ姉……だよね」
そこで男性が恐る恐る切り出したものだから、私は笑顔を完全に引っ込めた。
え? やっぱりファン? でも、だとしても急にため口で、名前呼び? ナツねえ? 馴れ馴れしくないか。
やばいファンなのかもしれない。私は一歩後ろに後ずさった。
「やっぱりナツ姉だ」
彼は興奮した顔で私に一歩詰め寄った。足が長いせいだろう。一歩が大きい。彼の顔がすぐ目の前に来る。突然のことに脳が状況を整理できず、戸惑うことしか出来ない。
「すごい! 十年ぶりだ!」
彼は感極まったようにそう叫ぶと、ガバリと私を両腕で抱きしめた。ハグだ。突然の事になんの抵抗も出来なかった私はすっぽりと彼の胸の中に頭が収まる形になった。
待て待て待て。
距離感バグりすぎだろ。こいつマジでやばい!
「は? ちょ! 誰!?」
「僕だよ! アキヒト! 日暮秋人だ!」
「会いたかった!」そう男が叫んだのと私の右のこぶしが彼の顎を下から撃ち抜いたのはほぼ同時だった。
ガツンっと男の顎が音を立てて彼の顔が天井を向く。ゆらりと男の上体が揺れた。
もう一撃。今度は左手を腰に当てて上段突きの姿勢に移ったが、私はそこで動きを止めた。
男がゆっくりとその場に倒れたからだ。背中からフロアに仰向けにばたりと倒れこむ。男の腕が当たって、横の棚から陳列されていたシェラカップが三つほど落ち、ガラガラと彼の頭の周りに散らばった。
アウトドアショップのフロアのど真ん中に成人男性が大の字になっている。なんとも迫力のある、それでいてどこかシュールな光景であった。
その姿に、ふと、あの日の記憶が脳裏で重なった。古びた駐車場のアスファルトの上に大の字で転がる、間抜けな少年。
アキヒト・・・・・・
「うう……」と呻く男。その顔を改めて覗き込む。
「え? 秋人?」
周りにざわざわと人が集まり始めたのにも構わず、私は思わず大声を出した。
「あんた、秋人じゃない!?」
男は床に転がったままため息をつく。
「……だから、さっきから、言ってるじゃないか……」
元万引き小僧こと、日暮秋人は、かすれた声でそう呟いたのだった。