【第2章】 湖畔キャンプ編 斉藤ナツ 6
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鶏肉に片栗粉をまぶした後、手を軽く水辺で洗う。湖がここまで近いとこんな利点があるのかと少しテンションが上がる。
真っ暗で見えないが、湖の奥から鳥の鳴き声が聞こえた。白鳥がいるかどうかは時期的にわからないが、朝になれば、何かしらの野鳥の姿は見ることができるだろう。早起きして、是非、一眼レフに納めさせていただこう。
洗った手を一応アルコールティッシュでも消毒する。直接触ってはいないが生肉は怖い。念には念を、だ。
再び椅子に座り込む。管理人が絶賛していたこの椅子は地面に直接腰を下ろすのと大差のないぐらい座高が極限まで低められたローチェアである。沈み込むように座れるので、お気に入りだ。やろうと思えば椅子の上であぐらだってかける。その分、立ち上がるのは億劫で、作業もしやすいとはいえないが。
調理を続ける。少し迷ったが、揚げ油はたき火ではなく、小型コンロで温めることにした。揚げ物をする際、火加減の調節が命である。
スキレットにサラダ油を注ぎ、たき火の側に設置したローテーブルの上の小型コンロにセットし、点火する。油が熱されるのを眺めながら、また考える。
美音の事はいいとして、あの管理人だ。初対面のあの管理人にどうしてああまで距離を詰められてしまったのか。これまでなかったことだ。
職場でも、同僚とは適度な距離を保つことを意識している。嫌われない程度に、でも気軽に声を掛けられるほどの間柄にならぬように。いつも言動には気を配っている。
その反動もあってか、ソロキャンプの時は極限まで他人を遠ざけるのが常だ。当たり前だ。人付き合いのしがらみが嫌で山奥に引きこもろうとしているのだから。私はそもそも人が嫌いなのだ。そのガードはかなり堅いはずだ。
しかし、美音に続いて今日の管理人白鳥までも易々と私の壁を乗り越えようとしてきている。
なぜ、白鳥の笑顔に押されるのだろうか。なぜ、落ち込んだ顔を見るとどうにかしなければと思ってしまうのだろうか。
私はローチェアの上で膝を抱え、額に手を置いた。
わかっている。「彼」に似ているのだ。
あのメガネの奥の無邪気な笑顔が、あの失敗した後の落ち込んだ犬の様な表情が、うれしくなったときのあの仕草が。
どうしようもなく「彼」を思い出させる。
スキレットの油がしゅわしゅわと音を立てる。よい温度になったようだ。もう揚げ始めてしまってもいいだろうか。私も空腹を感じ始めてきた。
チラリと腕時計を確認する。午後7時になろうかという時間だった。そろそろ美音が着いてもいい時間なんだが。
一旦コンロの火を止めて、立ち上がってロッジの方向に首を伸ばす。角度によっては、木々の間からわずかにロッジの明かりが見える。誰かが来る気配はない。まだのようだ。
そのまま湖の方に顔をやる。わずかな風で水面が揺れているのか、耳をすますと、かすかに波音のような音が聞こえる。水面に近づくと若干水面も揺れている。
真っ暗な湖の方をしばらく眺めていると、目が慣れてきたのか、月明かりでぼやっと湖畔全体が見えてきた。人の気配が全くない湖は、なんとも神秘的な雰囲気である。
管理人の昔話を思い出した。湖の真ん中で溺れ死んだ女の子。
きっと水に入る数秒前までは楽しかったのだろう。もしかしたら、水中で泳いでしばらくもはしゃいでいたのかもしれない。でも、足に水草が絡んだ瞬間の、その焦りはいかほどであったであろうか。
怖かっただろう。苦しかっただろう。
そもそもボートにいたという彼氏はなぜ助けに飛び込まなかったのだろうか。もちろん、彼氏に助けられたとは思えないし、二次災害にしかならなかっただろうから、結果的にボートにとどまったのは正解だったのだろう。しかし、恋人が目の前で溺れたかもしれないと思ったら、大騒ぎする前に、自分で助けに行くものではないだろうか。
彼女の死は、本当に事故死だったのだろうか。
そこまで考えて、私は苦笑して首を振った。
またこんなことを考えている。あかりの件とは違い、これはすぐさま警察に調査されたはずの案件だ。ならばやはり事故だったのだろう。そもそも彼女の死は何年前だと思っているのだ。私が考える事ではない。無関係だ。
ため息をついてチェアに沈み込む。湖を背にぎしりと体重をチェアにかけ、体を伸ばす。
お腹も本格的に減ってきた。もう揚げ始めよう。美音も流石にそろそろ来る頃だろうし、美音の分は取り分けておいてやればいい。もし冷めてしまったら揚げ直しも出来る。
気を取り直して、コンロを再点火した時、ふと、今日何度目かの気配を前方に感じた。
美音か? ナイスタイミングだ。そう思って顔を上げた私は面食らった。
女の子が立っていた。
美音と同年代くらいの細身の女の子だ。でも、美音では、ない。
長い黒髪は濡れそぼり、土気色の顔に張り付いており、目元がよく見えない。土汚れのついた赤いワンピースからは水がしたたり落ちている。足は裸足で、暗闇の中に青白い肌が際立つ。
彼女はしばらく小道に立ってぼおっとたき火に顔を向けていた。そして、そのわずかにうつむいた状態のまま、にこりともしないで言った。
「あたらせて・・・・・・もらっても、いいですか?」
私は思った。
おい、またか。