【第6章】 花火キャンプ編 16
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清水奈緒が「スワン」というアカウントに目をつけたのは、今から数日前の事だった。
連続殺人犯の白鳥幸男は自殺幇助サイト「Lake」の他に、数多くの裏サイトを運営していた。そのほとんどが警察によって閉鎖されたが、警察の目をくぐり抜け、今も機能しているサイトがいくつか残っていた。
そこは白鳥幸男という絶対的な教祖がいなくなり、ただ、自死に踏み切れない希死願望にとらわれた有象無象の掃きだめと化していた。
春香のベッド下でスマホをいじりながら、彼らの動きを観察していた。そこにいる多くが教祖を刑務所に追いやった斉藤ナツを共通敵としてこき下ろしていた。だが、どれもとるに足らない八つ当たりである。実際に行動にうつそうなどという胆力がありそうな者などいなかった。奈緒は当然だと思った。自分自身ですら殺す決意が持てない輩達なのだから。
だが例外もいた「スワン」というアカウントである。
スワンは明らかに斉藤ナツに対して明確な殺意を持っているように思えた。そして、掲示板で訴えていた。「斉藤ナツの居場所を教えて欲しい。私がみんなの代わりに殺しに行く」と。
発想が幼稚だ。きっとまだ子供の域を出ない年齢であろうと奈緒はあたりをつけた。だが、危険だとも思った。このスワンという奴は、ストレス解消では無く、明らかに強い意思を持っている。
スワンの過去の投稿を調べ上げると、どうやら、つい先日起きた父親を刺して逃亡している女子高生に境遇が類似していることに奈緒は気がついた。女子高生が犯行に及んで逃亡を始めた日付と、スワンの投稿が目に見えて過激化したタイミングもピタリと重なった。
逃亡中の女子高生がネットに投稿などできるのかという疑問は、彼女が白鳥の「迷える雛」の一匹であると考えれば合点がいった。
「迷える雛」。白鳥が事件前に同時に複数人に粉をかけていたという不幸な子ども達だ。虐待に苦しんでいたり、イジメに悩んでいたり、失恋で傷ついていたり、家出して街を彷徨っていたり。そんな子達を、白鳥は哀れな雛に見立てて悦に入っていた。
白鳥は雛たちに小瓶のキーホルダーと、足がつかないスマホをもれなく与えた。そのスマホは特別感を雛たちに与え、より白鳥に依存させる効果があったが、別に明確な目的もあった。
白鳥は自分への連絡をそのスマホだけでするように指示したのである。そうしておけば、白鳥に関わる証拠は一切残らない。
どうせ雛を殺したあとにスマホを回収するのだから。
ちなみに、奈緒が今持っているスマホも白鳥に教えてもらったルートから入手したものだ。なんなら、財産のロンダリングも白鳥に教わった。年に一度も会わない関係ではあったが、奈緒の前では白鳥は饒舌だった。自らの悪事を見事に美化して奈緒につまびらかに語った。奈緒は興味が持てず、それを半信半疑、話半分に聞いていたのだが、白鳥は気にせず、得意げに語り続けた。
つまり、白鳥は奈緒を獲物としてではなく、まるで愛弟子のように扱っていたのである。その真意はわからない。
自分と同じような闇を、奈緒の瞳の奥に見いだしたからだろうか。
彼は奈緒を、自分の唯一の理解者とでも思っていたのかもしれない。
さて、なんにせよ、足がつかないスマホは、期せずして女子高生の逃亡において大いに役立ったのだろう。
たしか通信費は白鳥の隠し口座からの引き落としにしていると言っていたから、白鳥が服役してからも変わらず使えたとしても不思議ではない。もし仮に電子マネーまでも使えたとしたら、それはもう魔法のアイテムであろう。
奈緒は「ナツを殺す」と騒ぐスワンの動きを見て、どうするものかと頭を悩ませた。
ナツは危機感も警戒心も強いはずなのに、変なところで抜けている。とくにインターネット関連は得意でないのかガードがガバガバだ。そしてあろうことかライブ配信まで始めてしまった。
スワン自体はネットが得意ではないようだ。熱意はあっても、独力でナツの居場所にたどり着くことは不可能だろう。だが、裏掲示板の民達は、スワンの言動を面白がり始めていた。万一、この暇人達のうちの一人がナツの居場所を特定でもしたら。
それは考えすぎとは言えなかった。事実、一人の特定マニアが、ナツの現在地を割り出しかけていたのだ。
奈緒は思った。
斉藤ナツを殺していいのは友達のあたしだけだ。こんな奴らにどうこうさせてなるものか。
奈緒は先回りして、ナツを見つけることにした。
奈緒は以前から独自に斉藤ナツの足取りは大まかに捉えていた。どう気をつけていようが、日本であれば足取りを完全に消すのは不可能である。しかも、ナツはあまりに目立つ黄色いキャンピングカーでうろうろしているのだ。何度も街中で写真を撮られ、SNSで晒されていた。ネットに精通する奈緒からすれば、難なく足取りを追えてしまう。
極めつけは、キャンプ二日前の配信だった。
ナツはわざわざ「サービスエリアで配信をしている」と発言し、「明後日はキャンプ場を予約している」とまで豪語した。
奈緒は特殊な画像アプリで、ナツが窓の外を見た際の瞳に映った景色を分析し、飲食店の看板からサービスエリアを割り出した。
あとはそこから一日以内の距離にある、予約可能、キャンピングカー受け入れ可能のキャンプ場を見繕い、あたりをつけるだけである。
条件が揃ったキャンプ場を絞り出し、奈緒はスワンにダイレクトメッセージを送った。
スワンは喜んだ。同じ熱量の同志がいると思い込んだのだ。
メッセージのやりとりの末に聞くと、スワンは今、街中のネカフェに潜んでいるとのこと。
ネカフェの場所を聞き出して直接叩きに行っても良かった。だが、まだ、スワンが確実に行動するかわからない。こいつも妄想だけで満足して終わらせるだけかもしれない。もしくは、本物ナツを目の前にして冷静になり、思いとどまるかもしれない。だったら自分の出る幕では無い。
だから、もうあえてこいつをおびき出そうと奈緒は決めたのだ。
そうして見事おびき出された吉岡葵は、蒼白な顔で包丁を奈緒に向けていた。
葵はキャンプ客としてここに来た。ちぐはぐな装備なのは、興味のないキャンプ道具を適当に見繕ったせいだ。斉藤ナツに正面から挑んでも勝てない。だからキャンプ仲間の振りをして距離を詰めるべきだ。そう同志である「マッチ」から提案されたのだから。
葵は、誰かの建てた計画に疑いもなく頼ってしまう癖が、知らず知らずのうちについてしまっていたのである。
「さて、葵ちゃん。ずっと気になってたんだけどね。その卵スープ、飲まないの?」
奈緒は焚き火の横に放置してある小鍋と、一人前がよそわれたカップに目を落とした。
葵の顔が強ばる。
奈緒はふっと笑った。
「小瓶の中身、このスープに全部入れたんでしょ。そしてなっちゃんに飲ませようとした。違う?」
奈緒はゆっくりとした動作で、カップに手をのばした。葵はじりりと後ずさる。奈緒は持ち上げたカップの中身をしげしげと眺めた。
「単にお裾分けするだけじゃなっちゃんが飲むかはわからない。だから相打ち覚悟だったんでしょ。一緒に飲もうって提案すれば、なっちゃんも断らないだろうしね」
しかし、問題が起きた。
ナツしかいないと思っていたその場には、立花春香がいたのだ。
「あの場でスープを渡したら、どうやってもハルちゃんも飲む流れになっちゃうもんね。だからあわてて逃げ帰ってきた。巻き添えを出したくはなかったわけだ」
奈緒は冷めたスープを見つめてふっと笑った。
「良い子だねえ。葵ちゃんは。そして、意気地なしだ」
そう言ったかと思うと、奈緒はカップを傾け、卵スープを一気に呷った。
「ちょ!」
葵は叫ぶと、奈緒に突進した。包丁を放り出し、突き飛ばすようにしてカップを奪い取る。だが、すでにカップの半分以上が奈緒の口の中に入っていた。
奈緒がごくりと飲み下す。
「なにやってんのよ! 毒なんだよ!」
狼狽してカップと奈緒を見比べる葵に、奈緒はケタケタと笑った。そして呟く。
「グラニュー糖」
「へ?」
奈緒は口の周りを拭いながら、なんてことないように言う。
「瓶に入ってた白い粉よ。あれ、ただの砂糖。毒なんかじゃ無い。ゆきおちゃんにだまされてたのよ。あんたたちは」
ぽかんとカップをもつ葵に奈緒は続ける。
「考えてもみなさいよ。自殺した子どものそばに本物の毒瓶なんてあったら、一発で事件性あり認定されちゃうでしょ。スマホ配ってまで証拠を残さなかったあの男がそんな危険なものを配ると思う?」
「それに」と奈緒はため息をつく。
「あいつが自分の見てる前以外で、雛が死ぬのを許すわけないでしょうが」
葵の手からカップが落ち、残っていたスープが地面に吸われていく。少し甘めになっただけの、ただの卵スープ。
「ゆきおちゃんに、『そんなの、雛たちにバレたらどうするの?』って聞いたら、あいつなんて言ったと思う?」
愕然と奈緒を見つめる葵に奈緒は言い放った。
「ばれやしないよ、だって。どうせ一人で死ぬ勇気なんて無い子達だからねって」
葵の顔が歪む。
「馬鹿にされてんのよあんたたち。見下されてたのよあんた。これまでの不幸な生い立ちも、一生懸命話した苦しみも、みーんな、あいつを悦ばすために消費されただけ。でも、そのとおりだったわね。そんな奴がくれた砂糖の小瓶を、後生大事に持っちゃって。あなたはまだ生きている。自分一人じゃ何にも変えられないままに」
「だまれ・・・・・・」
「全部、斉藤ナツのせい? ちがうでしょ。あんたのせいだよ。ゆきおが来なかったって、あんた一人でやれば良かったんだよ。毒だと思ってた砂糖だってあったんだからさ。それで親父に相打ちかませばよかったんだよ。違う?」
葵は地面の包丁を拾い上げて奈緒に向けた。
「だまれ!」
「白鳥に任せたときは、どうせまだ憂さ晴らしのお遊びぐらいの感覚だったんでしょ。だから白鳥がいなくなった後は何もできなくなったんだ。あんた自身にはなんの覚悟も無かったから。死ぬ覚悟も、殺す覚悟も」
「だまれよ! だまってよおおお!」
奈緒は黙らなかった。葵の涙をこぼす瞳を見つめながら言葉を続ける。
「殺すのが難しくても、どうにでもなったでしょ。流石に中学生でも、虐待から救ってくれる福祉機関があることぐらい知ってたでしょ? なんで行動しなかったの? なんで現状を放置してたの?」
葵が声にならないうめき声を上げる。その姿を奈緒は見つめた。強い眼差しで。
人を小馬鹿にしたようなあの笑みは奈緒の顔からは消え去っていた。むしろ苦しそうに、苦悩するように、葵に強い視線をぶつける。
まるで、自分自身を睨み付ける様に。
「あんたが、何かすれば! あんた自身が何かあと少しでも行動すれば、変わったのに。こうはならなかったのに!」
「うるさああああい!」
葵が叫ぶ。
それに奈緒は叫び返した。奈緒自身が涙をまき散らしながら、自らの過去に怒鳴りつけるように。
「あんたのせいだ! 自分のせいだ! 今のこの状況も! 大切な人が死んだことも! 全部全部全部全部! 自分自身のせいだあ!」
葵が悲鳴を上げて両手で包丁を握りしめた。
奈緒は叫んだ。血を吐くような声で。
「人のせいにするなあああ!」
「うわああああああああああ!」
葵が奈緒に突っ込んだ。包丁の切っ先を、まっすぐ奈緒の心臓に向けて、さっき奈緒が指し示した、鳩尾の左側。肋骨の間を通すために、刃を横に向けて。
奈緒は、動かなかった。その切っ先を見つめたまま、微動だにしない。
包丁の切っ先が、奈緒の上着を貫通した。
ガリンッ
包丁の切っ先は、服の下に忍ばされた鉄板にぶつかり、鈍い音を立てた。
もし、この鉄板がただの平らな板だったら、切っ先はあらぬ方向に滑って、奈緒の身体を切り裂いただろう。
だが、このひとり焼き肉に特化した鉄板には油を流し出すための溝が幾重も掘られていた。ご丁寧に横向きになった包丁の切っ先はその溝の上を綺麗に伝い、金属音とともに溝の方向にまっすぐそれていった。予想通りの軌道に、奈緒は少し胸を反らすだけで刃が身体を外れて宙に飛び出す。
その手を、奈緒がガシリと掴んだ。
「素直ね。ほんと、良い子」
誘導された。
あんなに何度も自らの胸を指し示し、刺すならここだと意識づけられて。
私はまんまと。そう葵が自らの浅はかさを呪えたのはほんの刹那だった。
次の瞬間、葵の右腕に奈緒の手がヘビのように巻き付いた。葵が事態を把握しきれないうちに。右肘の関節を決められ、葵は腕を背後に伸ばした状態で地面に押しつけられた。包丁が葵の顔の前に転がる。
その流れるような関節技が、十数年前に奈緒の目の前で白鳥幸男が田代警備員を倒した技であることを、葵は知る由もなかった。
「うあああああ!」
葵は怒りの声を上げて暴れようとした。だが、少し奈緒が体重を移動させるだけで、右肘に激痛が走り、なんの動きも出来なくなる。
くそ。くそう。
葵は何度も抵抗し、その度に難なくいなされる。
なんにも出来ない。
鼻がつんとし、地面すれすれになった視界が揺らいだ。
私は、なんにもできないんだ。
父親を殺す事も。
斉藤ナツを殺す事も。
この目の前の女を倒すこともすらも。
おばあちゃんだって救えなかった。
目にたまった涙が、こぼれ落ち、地面に伝っていく。
わかってた。本当は、わかってたんだ。
斉藤ナツが悪いんじゃないことぐらい。
事件について調べれば調べるほどわかった。斉藤ナツは生き残ろうとしただけだってことは。友達を助けようとしただけだってことも。
すごいなあ。
私はなんにもできなかった。
苦しんでいる祖母を見ても、父親が怖くて何にも行動出来なかった。
でも、斉藤ナツは行動したんだ。あきらめず、誰かのせいにもせず、人に頼る事もしないで。
自分自身で戦ったんだ。
すごいなあ。
かっこいいなあ。
だから、憎かったのかなあ。
葵は額を地面にこすりつけた。そして言った。
「わ、わたしが悪いんだ」
奈緒の言うとおり。
全部、ぜーんぶ、私のせい。
お父さんがあんな風になっちゃったのもそう。
私が男の子に生まれる事が出来なかったから。
お母さんとお父さんが離婚したのもそう。
おばちゃんが死んじゃったのもそう。
「全部、全部、全部、私が悪いんだ」
葵は地面に顔を埋めたまま、言った。
「生まれて、こなきゃよかった」
いつの間にか、奈緒は葵から離れて、側に立っていた。
葵は静かに顔を上げ、ごろんと仰向けになった。
奈緒が静かに葵を見下ろしている。なんの感情も感じさせない、無表情で。
葵はそんな彼女に、ぽつりと言った。
「・・・・・・殺してください」
女は、能面のような表情のまま、ゆっくりと膝を落とした。そして一言。
「いいよ。殺してあげる」
葵の後頭部が、奈緒の左手で、優しく持ち上げられた。まるで病人に水を飲ませる時のように、奈緒は葵の上体を支える。
ただ、奈緒の右手に持たれているのは、水の入ったコップでは無く冷たく光る包丁だった。
「じゃあ、喉を刺すわね。動脈を切るから、痛いのは少しだけよ」
ゆっくりと、包丁の刃が近づく。
ああ。ようやく終わるんだ。
長かったな。
つらかったなあ。
良いことなんて。楽しい事なんて。一つも無かった。
一つも。
ふと、脳裏に浮かんだのは曲がった小さな背中だった。
老婆は葵の手を引いて、レストランに入っていく。
あまりに小さくて皺の一つにしか見えないような目で、いたずらっぽく目配せする。
苦手なはずの甘いケーキを口いっぱいに頬張ってにかっと笑う。
「・・・・・・おばあちゃん」
葵は呟いた。ゆっくり近づく死を見つめながら。葵は繰り返した。
「おばあちゃん。おばあちゃん。おばあちゃん」
あの日。楽しかったなあ。
嬉しかったなあ。
私、まだ、なんにも。
いやだ。
葵はとっさに両手で奈緒の腕を止めようとした。
だが、いつの間にか両手とも奈緒の膝で押さえつけられていた。
葵は必死に首を左右に振った。
「やだ。やだよお」
でも、包丁は止まらない。奈緒は全く感情を見せない無表情で、葵の喉に刃を接近させる。
「やだああ!」
切っ先が喉に当たる。
「いやああ! やだ! 死にたくない! 死にたくないの!」
喉に切っ先が食い込む。鋭い痛み。
葵は絶叫した。
だが、奈緒は止まらない。何も聞こえていないかのように。何も感じないかのように。
葵は必死の形相で奈緒を見た。
能面のような冷たい顔。そしてその目。
そこにはあまりに深い闇が広がっていた。
「いやあああああああああ!」
「はい。ストップー」
ガシリと、奈緒の右肘が掴まれる。
奈緒の腕を掴んだその女を、二人は同時に見上げた。
立花春香は大きく息を吐いた。
「ナオちゃん。やりすぎ」