【第6章】 花火キャンプ編 14
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「死にたいの?」
彼の言葉はまるで砂漠の砂に水を注いだように、すっと葵の中に入り込んできた。
「それとも、誰かを殺したいの?」
だから、吉岡葵は反射的に答えてしまった。決して返事をしてはいけない相手に。
「どっちも」と。
白鳥幸男に声をかけられたのは、葵が13歳の夏のことだった。
地元の昔ながらの書店。その奥の一角に、殺人やら自殺やら拷問やらのおどろおどろしい本が固められている棚があった。葵はその棚の本を片っ端から引っこ抜いてページをめくっていた。とはいえ、ひと目につかないように細心の注意を払っての事だったので、真後ろから声をかけられて、葵は飛び上がるほどに驚いた。
後に白鳥と名乗った男は、そんな葵の挙動に微笑んだ。
「きっと、君の役に立てると思うんだ」とそう言って。
警戒しなかったわけではない。だが、周りのあらゆる「まとも」な大人達から見て見ぬ振りをされ続けた葵にとって、初めて温かく差し伸べてくれた大人の手を払えるはずがなかった。
「ぼくは、旅立ちの支援をしてるんだ」
そう白鳥は言った。お洒落な、葵が外から覗くのも憚るような高級そうな喫茶店の一席でアイスコーヒーを飲みながら。葵は頼んでもらったオレンジジュースのグラスを握りしめながら、白鳥の整った顔を見つめた。
「たくさんの人を送り出してきた。みんな、自分では勇気が出ないような可哀想な人たちだ。でも、心が弱いことは決して罪ではない。そんな人たちのために僕はできる限りの事をしたいと思ってる」
そう言って、白鳥はすっと視線をそらして窓を見つめた。眼鏡の奥で、誰かを、何かを憂うような瞳。シックなカフェでそんな仕草をする白鳥の姿は、まるでドラマの中の主人公のように葵には映った。
白鳥はすっと、葵に視線を戻した。それだけで葵は鼓動が激しくなる。
「君は、その人たちと同じ目をしていたよ。絶望して、思い詰めた目。その歳でそんな目をするなんて」
白鳥は、すっと、葵の手を取った。決して嫌悪感を出させない計算し尽くされた穏やかな動きで、優しく。
「僕でよければ、話を聞かせてほしい」
誰とも苦しみを分け合った経験のない葵にとって、それはあまりに甘い言葉であった。
葵は話した。13年分の鬱憤を晴らすように、時に涙を流しながら、時にしゃくり上げながら。
白鳥はうんうんと頷きながら聞いてくれた。時に詳細を尋ねたりしながらも、決して葵の言葉や感情を否定せず、ひたすら聞くのに徹してくれた。誰よりも共感を求めていた葵にとって、その二時間ほどにもわたるひと時は、白鳥を完全に信用し、あまつさえ依存と言って良いほどの精神的よりどころとしてしまうのに十分すぎる時間だった。
正常な倫理観を持つ大人であれば、葵に適切な福祉機関を紹介しただろう。なんなら窓口まで付き添ってあげたかもしれない。
だが、唯一、吉岡葵に手を差し伸べた人間は、白鳥幸男であった。
「つまり、あなたは、お父さんを殺したいんですね。お婆さまのためにも。あなたの人生のためにも」
葵の長い告白の末に、白鳥はそう、結論づけてしまった。
実際のところ、実はそこまで葵は思い詰めていたわけではなかった。本屋で殺人の本を読みあさっていたのも、本当のところはストレス解消の一面が大きかったのだ。
だが、信用しきった大人の白鳥にそう断言されると、そうなのだ、私は父を殺したいのだ。そうに違いないとしか、葵は思えなくなってしまった。
「ぼくとしても、それしか方法がないと思います」
そう言われると、中学一年生の葵はやはりそうなんだと納得した。
「葵さん。あなたは愛するお婆さまと自分自身のために運命と戦う決意をした。勇気ある選択です。そうできることではありません。私はあなたを尊敬します」
憧れの大人にそう褒められると、自己肯定感が無いに等しい13歳の少女はまるで天にも昇る気分になった。
その日の帰り際、葵は数日後も会うことを白鳥と約束した。
その時には、白鳥の姿が、白い翼で自分を地獄から救い上げてくれる救世主にしか見えなくなっていた。
そんな葵に、一つのキーホルダーを白鳥は渡した。
親指の先ほどの、ミニチュアのような小瓶のキーホルダー。一昔前に小学生の間で流行ったようなデザインだ。小瓶の中には白い粉が入っていた。
「猛毒です。少しでも舐めれば死んでしまいます」
葵はぎょっとして白鳥を見つめた。白鳥は慈愛に満ちた目で葵の手に小瓶を握らせた。
「どうしてもつらくなったときのためのお守りです。これがあればいつでも旅立てますからね」
葵はその小瓶をぎゅっと握りしめた。まるで白鳥と自分を死によってつないでくれる魔法のアイテムのように思えた。
次に会ったとき、白鳥は別の店に葵を連れて行った。これまたお洒落な、個室のカフェだった。キーホルダーをこっそりバッグにつけてきた葵に白鳥は微笑んだ。
個室で、白鳥は具体的な相談をしてきた。葵の父親を殺害する計画である。
あからさまに殺してしまっては、葵のその後の人生に差し支える。だから事故か自殺に見せかけるべきである。
そう白鳥に言われ、葵はなるほどと目からうろこが落ちる思いだった。そうだ。一時の感情で父を殺す事ばかりを考えていたが、その後のことも考えないと。あくまで未来のためにやるのだから。
大きな視野を持ってアドバイスをくれる白鳥の思慮深さに葵はただただ感服した。会合二回目で、葵はもうすでに白鳥に心酔していたと言ってもいい。
二人は個室で頭をひっつけ合い、ああでもないこうでもないと父を殺す方法を話し合った。
楽しかった。
友達がおらず、習い事はおろか、中学の部活動すら参加させてもらえなかった葵にとって、こんな風に誰かと、前向きに何かを話し合う活動など、人生で初めてだった。そしてただでさえフラストレーションがたまりやすい思春期である。日々、自分を虐げてきた男を殺す想像を、憧れの男性と親密に話し合う逢瀬は、あまりにも刺激的で魅惑的だった。
そう。あくまでも葵の中では父を殺す事は想像上の話であり、単なる妄想の域を超えていなかった。
これが本当の友人や恋人が相手であれば、それで済んだであろう。ただの憂さ晴らし。ガス抜き。ストレス解消。誰だってすることである。それで終わったはずなのだ。
だが、何度も言うが、相手はあの白鳥幸男だったのである。
三回目の密会の帰り、葵はスマートフォンを白鳥に手渡された。
「これで当日まで連絡を取り合いましょう。通信料や手数料は私持ちです。気にせず使ってください」
スマホどころかインターネットにすらろくに触れてこなかった葵は自分の手の中にスマートフォンが収まっていることが信じられなかった。
それほどに自分が信頼されているのだ。まるで初めて彼氏に合鍵をもらった大学生のように、葵は舞い上がってしまった。
「大事な連絡手段ですから。当日は必ず身につけておいてくださいね」
そう言われても、葵はなんの疑いも持たずに、無邪気に頷いた。
葵と白鳥はたくさん話し合いを行ったが、結局は白鳥の案が全面的に採用されることとなった。
白鳥が発案した計画はこうだ。
家族が寝静まったところで、葵が白鳥を家に招き入れる。
白鳥は痕跡が発見されにくい成分の睡眠ガスで、父と祖母を完全に眠らせる。
そして父のみを個室に運び、その個室をガムテープなどで密閉し、中で練炭を炊く。
あとは別室で祖母と一緒に寝ていた葵が明朝になって異変に気づき、隣の部屋で自殺していた父を発見して通報。これで終わりだ。
遺書などはなくていいのかと葵が聞くと、「余計な小細工はリスクが高いだけ」と白鳥は答えた。
「自殺の理由やらなんやらは、警察や周りの大人が勝手に考えてくれますよ」とのことだった。
あまりに手慣れた白鳥の様子にも、葵は頼もしさこそ感じるも、不信感を抱くことは全くなかった。
肝心のところは白鳥がやってくれる。自分は家の鍵を開けたあと、寝たふりをしているだけでいい。そのあまりに簡単な計画は、葵に罪の意識をほとんど持たせなかった。
それよりも、葵の想像は未来に向いていた。
偏屈で病的で高圧的な父がいなくなって、祖母との二人暮らし。
クラブを始めてもいい。自分の好きな髪型にしてもいい。禁じられていた女の子っぽい可愛い服だって買える。スカートだって、ワンピースだって。
買ったら、真っ先に白鳥に見せに行こう。白鳥は計画のあとも個人的にたくさん遊びに行こうと約束してくれた。きっとまだ私は妹ぐらいにしか思われていないだろうけど。女の子らしい格好をして、もっと成長したら、きっと。
葵の目の前は、未来は、白鳥という白い翼の天使によってまばゆいほどに輝いて見えた。
そして、葵の命運をかけた計画が実行される日まで、いよいよあと数日となったある日。
後に「白鳥湖事件」と呼ばれる大量殺人事件が、日本中を震撼させた。
「斉藤ナツ」という英雄の名と共に。