【第6章】 花火キャンプ編 13
13
吉岡家の長女、葵の名は、彼女が生まれるずっと前に決まっていたらしい。
男の子でも女の子でもつけられる名前が良かったのだと、母は言った。
母はこうも言った。あの頃が一番幸せだったかもしれないわ、と。
中性的な名をつけたからといって、親がどちらが生まれても良いと本当に思っているかは別だったのだ。少なくとも、葵の父は違った。生まれてくる葵が男の子であると信じて疑っていなかったのだ。
女の子は男の子と比べて、妊娠中に性別が確定するのが遅い。変に脳内の男の子のイメージを出産直前まで父がもっていたのも良くなかった。出産数ヶ月前に医師から女の子の可能性が高いと伝えられても、父は頑なに「生まれてみないとわからない」と言い張っていたらしい。当然、生まれ出た葵は医師の見立て通りの女の子であり、父は病室で落胆を隠そうともしなかった。
考えれば、そこから両親の関係は壊れていったのだろう。
葵は焚き火越しに座った女をじっと見つめた。
「なんなの。あんた」
女は相変わらず名乗ることはなかった。不適な笑みを浮かべて葵の顔を眺めている。
葵はスープのカップを置いて、地面の包丁を抜いた。それを見ても、女は顔色一つ変えなかった。
肝が据わっている。なんなんだこいつ。
「なんで、私のハンドルネームを知ってるの」
そう聞いて、直後、葵はある可能性に思い当たって息を飲んだ。
「そうか。あんたがマッチか」
女は顔をほころばせて小さく手を叩いた。
「正解! ご名答!」
その様子に葵は歯ぎしりをする。
「・・・・・・最悪。同志だと思ってたのに・・・・・・」
「同志? ああ。友達って事? ふふ。別にそれは間違ってないと思うけど。あたし達、友達でしょ。散々メッセージのやりとりしたじゃない」
「はあ? 欺しておいて何言ってるの?」
葵は憤った。その様子を見て、女は「心外だ」とでも言うような顔で肩をすくめた。
「別に何一つ、欺してはいないわ。あなたが斉藤ナツの居場所を知りたいってしつこく言ってるから、探してあげたんじゃない」
そう言って女はまた「ふふ」と笑う。
「あの裏サイトでなっちゃんを殺したいって言ってる輩は何人もいるけれど、どうせどれもおふざけ半分、ストレス解消。でもあなた、スワンってアカウントは違った。その熱量、執拗さ、あまりに度が過ぎてた。特にここ数日はすごかったわね。何かあった?」
葵は女を睨み付けた。その顔を女が愉快そうに見返しながら言った。
「たとえば、父親を刺しちゃったとか」
葵は包丁の柄をぎゅっと握りしめた。
「ここ数日、ニュースを騒がしてるものね。父親を刺した女子高生、いまだ逃走中。まあ、見つからないのも無理はないわ。男装してるんだもん。見事なものね。野球少年にしか見えない。その日焼けた肌はどうやったの。メイク?」
葵はふっと鼻で笑った。
「本物の日焼けよ。夏休み、くそ親父に逆らったせいで、一日中、ベランダに閉め出されたから」
「あら」と女は眉を上げた。
「あの猛暑の中? それは随分とヘビーな虐待ね。きつかったでしょ」
虐待。女はさも軽いことのように言ってのけた。その軽薄さは逆に葵を饒舌にさせてしまうほどだった。
「あのくそ野郎。脱水症状でぶっ倒れてる私を見ながら、しつけだってぬかしやがった。近所の奴らも気づいてたくせに、面倒ごとに巻き込まれるからって見て見ぬ振りしやがって」
「わかるわあ。あたしも父親が企業の社長でね。なまじ権力があるから、端から見たら異常なことでも誰もなにも言ってくれなかった。まあ、どちらかと言えばやばいのは継母のほうだったんだけど」
「あ、でも」と女はふと空を見上げる。
「小学生の時、継母を一発ぶん殴ってくれた友達がいたなあ」
そう言って、女は少し目を細めた。
「ふうん。いいじゃん。私はそんな友達、いなかった」
葵は目の前の女に急速に親近感を覚えていく自分に驚いた。きっと女の思うつぼなのだろうと思いながらも、自分の中にたまりにたまった思いは止めどなく口からあふれ出てきた。
「私んち、ゲーム禁止、漫画禁止、ネットどころかテレビも禁止。なんにもないの。今時、そんな子に友達出来ると思う?」
「思わないわね。時代にそぐわない」
「そ。昭和で止まってるのよ。あの親父」
葵は焚き火を睨みつけた。
「うちのくそ親父ね。私を男にしたかったみたい。子供の頃なんて自分の事を『わたし』なんて言えばぶん殴られたわ。だからずっと『ぼく』って言ってた」
「それはまた、前時代的な」
その言い方が妙に的を射ていて、葵はまた鼻で笑った。
「昭和のケチな親父っているじゃん。あれをこじらせた感じ? 贅沢はダメだ。できるだけ慎ましやかに、まめまめしく、目立たず、静かに過ごす。そんな生き方が人間の理想だあって」
「それだけ聞くと、割と良い感じだけどね」
「良くないわよ!」
葵が叫ぶと同時に、焚き火の火がパチリと爆ぜた。まるで葵の怒りに連動するように。
「私の家にはクリスマスも大晦日もお正月もなかった。ただの暦上の一日でしかないって感じよ。で、ある日、親父に聞いたの。うちにはサンタさんは来ないのって。そしたら、真冬だって言うのにベランダにパジャマで放り出された。そんなに来て欲しいなら、そこで待ってろって」
目の前の焚き火の炎がぼやけて揺れる。
「必死に願ったわ。サンタさん来てください。助けてくださいって。でも雪が降ってくるだけ。それで5歳にして知ったわ。サンタも神様もいないんだって。だから親に泣きながら謝ることしか出来なかった。母に中に入れてもらえた頃には頬の涙が凍ってた」
葵は知らず知らずのうちに潤んだ瞳を必死にこすった。
おそらく、一つの宗教に近かったのだろう。菜食主義者が肉を遠ざけるように、ナチュラル志向の人々が添加物を忌避するように。葵の父はあらゆる「贅沢」を否定した。贅沢は敵だと、本気で信じていた。楽しむという人として当然の権利を悪だと思っていた。
慎ましやかに過ごすということ自体には賛成だった母だが、葵のために買ってきたフリル付きの子供服をゴミ箱に投げ捨てられた事をきっかけに、「ついていけない」と父を見限った。
葵が小学校に上がる段階で、二人は別れた。
それ自体は、幼い葵にとってさしたる出来事ではなかった。二人は常に苛立ち、ことあるごとにケンカをしていた。葵にとばっちりが来ることも少なくなかった。仲が悪い二人が無理に一緒にいる必要などないと子供心にも思えた。それほど二人の仲は険悪だったのだ。
葵にとってこれ以上ないほどにショックだったのは、母が自分を連れて行ってくれなかったことだ。
「は、母が家を出た後、くそ親父は輪をかけてくそになった。女嫌いは度を超えて、日に日に成長していく私を見る度に顔をしかめた。私の全てに干渉してきて、髪型一つ、自分で決められなくなった」
対面の女は何も言わなかった。相づちを打つことすらせず、だまって葵の話を聞いている。
「こんな歪んだ時代にお前は生まれるべきではなかった。女なんかに生まれるべきじゃなかった。そう父はことあるごとに言ったわ。ある時には、幼稚園のお遊戯会で持って帰ってきたお菓子の詰め合わせをゴミ箱に放り投げながら。ある時には、小学校の遠足のお知らせを私の目の前で破り捨てながら。その度に、私はうつむいてあやまるの。ごめんなさいって」
生まれてきて、ごめんなさいって。
「じゃあ、誕生日は?」
そう聞いてきた女に、葵は「あるわけないじゃない」と吐き捨てた。
「祝ってもらったことないから、自分の誕生日を知らないわ。学校の書類にはいつも適当な日付を書いてた。あ、もちろん、ケーキだって食べたことないわよ。お菓子自体、うちでは禁止だったから」
そう言って、ふと、葵は天を仰いだ。
「いや、でも、一回、おばあちゃんに食べさせてもらったな。近所のファミレスで」
「へえ。何ケーキ?」
「チョコレートケーキだった。チョコ自体、食べたことなかったからびっくりしたなあ」
「嬉しかったでしょ」と微笑んだ女に、葵は苦笑を返した。
「甘いお菓子を食べたら将来、地獄に落ちるって親父に言われてたから、心臓バクバクで食べたわ。だからあんまり味は覚えてない」
もしかしたら、あの日が自分の誕生日だったのかもしれない。
もう、季節も思い出せないが。
あの時、祖母はなんて言っていただろう。「ありがとうね」と頭を撫でながら。祖母の節くれ立った指の感触だけが妙にリアルに思い出された。
「おばあちゃんはまともだったのね」
女の言葉に、葵は肩をすくめた。
「変わり者だったけどね。というか、つまはじきもの? 近所にあるおばあちゃんの家はちょっとしたゴミ屋敷だったし。まあ、その実家の方に同居してあげれば変わったんだろうけどね。親父が、あいつがそんな事するわけないよね」
そこで、ふっと、葵は視線を地面に落とした。揺れる炎が、地面に陰を作っている。
「でも、そのケーキの一件がさ、親父にばれちゃってさ」
女の顔から初めて笑みが消えた。
「私はもちろんのこと、おばあちゃんもボコボコにされちゃって。おばあちゃん、腰を打ってさ。寝たきりになっちゃった」
焚き火がぱちりと爆ぜて、火の粉が宙に舞う。
「・・・・・・警察は?」
「動かなかったよ。おばあちゃん自身が階段で転んだって言い張ったんだもん。大事にしたくなかったんだろうね。あのくそ親父だって、おばあちゃんにとっては息子なんだし」
葵は鼻で笑った。
「みんな、あきらかに事故の傷じゃないことはわかったはずなんだけど。医者も警察も知らんふり。そりゃそうだよね。みんな忙しいもん。家庭不介入。家庭内不干渉。本人が訴えないんだったら、誰もゴミ屋敷のおばあちゃんなんかに関わりたくなかったんだよ」
そして、見捨てられた。気づけたはずなのに。気づいていたはずなのに。
「親父は体裁を保つために、おばあちゃんを引き取って安アパートに引っ越したんだけど、酷いもんだったよ。小学生の私が全部面倒を見てた。おばあちゃんの年金も全部親父に管理されちゃって。私たち二人が生きるも死ぬも、くそ親父のさじ加減」
葵は手に持っていた包丁に目を落とした。刃に炎が赤く反射している。
「中一の夏。親父の言葉におばあちゃんが言い返したら、親父、ばあちゃんの部屋のクーラーを壊しやがった。夏だよ。真夏だよ。死んじゃうじゃん。そんなの」
だから、葵は思ったのだ。まだ当時13歳の葵は。
「もう、親父を、殺すしかないじゃん」
じっと葵の話を聞いていた女は「そっか」と呟いた。
「そこで、出会っちゃったんだね」
幸運にもと言うべきか、不幸にもと言うべきか。
運命的だとでも言うべきなのか。
葵は出会ってしまった。
「ゆきおちゃんに」