【第6章】 花火キャンプ編 10
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「お風呂わいてるよ」
春香が夕食を食べ終わったのを見計らって奈緒が言った。
「天使じゃん」と答える春香の目の前で食器が回収されていく。最後に自分で洗い物をしたのはいつのことだろうか。
湯船にはバスソルトも入っていた。ちょうど良い湯加減に一日の疲れが溶け出していく。
洗面所から「着替え、置いとくねー」と声をかけられたが、湯船の気持ちよさに「あー」と言葉にならない返事しか出来なかった。自分がどんどんダメ人間になっていく気がした。
お風呂から上がり、奈緒が洗濯してくれ用意してくれた寝間着に着替える。
洗面所を出ると、なんとテーブルに小さなカップアイスとスプーンが用意されていた。
「え、これ、私の?」
「もちろん」
春香はとりあえずテーブルに座ったものの、アイスのカップを見つめて動かなかった。
春香の髪を背後からタオルでポンポンと拭く奈緒が「あれ? いらなかった?」と首を傾げる。
「いや、だって、ほら。もう夜も遅いし、こんな時間にアイスなんて食べたら・・・・・・」
「太っちゃう? ハルちゃん痩せてるじゃん。ちょっとぐらい、いいって」
春香はゴクリと唾を飲んだ。お風呂上がりに火照った体。アイス。
「それにさ」と奈緒はドライヤーを準備しながら春香の耳元でささやいた。
「一週間、お仕事頑張ったんだから。ご褒美あげないと自分が可哀想じゃない?」
その通りだ。ごめん。自分。
春香はアイスの蓋を開けると、適度に柔らかくなった表面をスプーンで掬い、口に入れた。
冷たい。甘い。これぞお風呂上がり。
あまりの幸福に両足がばたばたする。その様子を、奈緒は春香の髪にドライヤーを当てながら見て笑った。
ダメだ。奈緒沼に沈んでいく。
欲望のままにアイスをなめる春香の髪を乾かし終えた奈緒が、すっと、春香に身を寄せ、今度は肩をもみながら「ところでハル様」と切り出した。
「おお。なんじゃなんじゃ」
「折り入ってお願い事がございまして」
そう言いながら肩を揉む奈緒の力加減は絶妙である。もう、マッサージ師になれよと言いたい。
「くるしゅうない。申してみよ」
「実は、拙者。明日が誕生日でございまして」
「え、ほんとに?」
私はびびって、スプーンをくわえたまま振り返った。
「ごめん。知らなかった。なんにも用意してない」
自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。なんてこった。ここまで毎日甲斐甲斐しく世話をしてもらっているのに誕生日すら覚えていないなんて。モラハラ夫じゃないか。別に夫婦ではないけど。
「あ、いいよ。それは。そもそも多分、私も言ったことなかったし」
待てよ。そういえば、毎朝使っているあのワイヤレスイヤホンは、八月の春香の誕生日に奈緒からもらったものだ。なんであの時、奈緒の誕生日を聞かなかったんだ。
「ご、ごめん。あ、明日はごはん、私が作るよ」
「いいよ。私が作った方が美味しいし」
ぽんと凄まじい切れ味の正論を返され、心を両断される。それはそうですが。そんなはっきり言わなくても。
「・・・・・・じゃ、じゃあ。どっかレストランとか行く? イタリアンとか、フレンチとか、高いとこ」
奈緒はため息をついた。
「ハルちゃん。私、指名手配犯だよ」
その通りである。
「で、でも、髪型も変わってるし。堂々と予約して行けばバレないんじゃない?」
奈緒は頷く。
「まあ、大丈夫だろうね。伊達眼鏡でもかければ余裕だと思う。でも、監視カメラが一個でもあれば、記録は残っちゃうでしょ。なにかの拍子にそれが押さえられたら、ハルちゃんと私の関係の動かぬ証拠になっちゃうよ」
確かに、そのリスクはある。でも。
「別に、そうなったら、そうなったでいいよ。私は」
共犯者になる覚悟は、とっくに出来ている。
奈緒は真顔でじっと春香の目を見つめ、それからニコッと笑った。
「ありがと。でも、無理にすることでもないかな」
まあ。そりゃそうか。
「だからね、お願いがあって」
「うん。何でも言って」
勢いよく頷く春香に、奈緒はいたずらっぽく微笑んだ。
「キャンプに行きたいの」
驚いたことに、奈緒はすでにとあるキャンプ場をネットで予約していた。なんでも、全てネットで手続きが完結し、管理人さんにすら会わなくてもいいシステムのキャンプ場らしい。サイト同士も離れていて、プライベート感がしっかりあるらしい。しかも他サイトの音が聞こえないように地形も工夫されているという念の入れようだ。指名手配犯にはうってつけのキャンプ場というわけだ。
春香の家からはそれなりに遠い場所だったが、午後にチェックインなのでそこまで朝早く出発する必要は無い。荷物は今夜のうちにあらかたまとめておいて、朝に車に積めばいいだろう。そう思って倉庫にしている空き部屋を開けると、なんと奈緒は春香のキャンプ道具をあらかた用意して、きっちりまとめていた。有能かよ。
「ハルちゃん、結構ソロで行ってたんだね」
「まあ、大学の頃はよく。ていうか、ナオちゃんも道具とかわかるんだ」
「うん。必要最低限はね。レイジに取り入るためにはキャンプ好きをアピールしなくちゃいけないと思って。形だけは勉強したの」
「そ、そうなんだ」
奈緒はなんの遠慮もなく過去の事件の話をぽんと話題に出すことがある。こっちの方が気を遣ってヒヤヒヤしてしまう。
そう言う奈緒は自分の持ち物を全てリュック一つにまとめていた。キャンプのために詰めたわけではない。普段からである。
春香の家には奈緒の私物は一切置いていない。歯磨きブラシですら、毎回リュックにしまわれる。母の美和子さんのような急な来客があっても不自然がられないためだ。
ある意味、ソロキャンパーを部屋に住まわせているような感覚だった。
奈緒の下準備のおかげで、春香はほとんど用意することがなかった。あとは明日の朝、車に積むだけである。
「じゃあ、もう寝ようか。明日もあるし」
「はーい」
二人で並んで歯磨きをする。終わると春香はカランとコップに歯磨きブラシを入れて棚に戻し、奈緒は携帯用ケースにブラシを戻してリュックにしまう。
寝室の電気を消し、春香はベッドに潜り込んだ。
奈緒はというと、春香のベッドの下の空間に潜り込む。ベッドの下の床には薄い敷き布団が敷いてあるのだ。
「・・・・・・せめて、床に出てくれば? ソファだってあるのに」
何度もそう言っているのだが、奈緒は「狭い方が落ち着くの」の一点張りである。
夏休みキャンプを思い出す。あの日も奈緒は二段ベッドの0段目に寝床を作っていた。
こういうところは変わんないなあ。
電気を消した寝室で天井を眺める春香だったが、ふと下に目をやると、ベッドの回りの床が青白く照らされていた。
「ナオちゃん。またスマホいじってるでしょ」
「あ、ばれた?」
奈緒は指名手配犯であるにも関わらず、スマートフォンを所持している。なんでも、金さえ出せば足のつかないスマホなど簡単に手に入るそうだ。ちなみにその金というのも奈緒自身のものだ。
なんでも、指名手配される前から、両親の莫大な財産の一部をこっそり暗号化していたらしい。仕組みはよくわからないが、いろんなところを経由させてどこから引き出しても探知されないそうだ。詳細に聞いたわけではないが、その額は当分生活に困らないとか、そう言う低次元の額ではないらしかった。
つまり、清水奈緒は犯罪者としてもとびきり優秀だということだ。
きっと、足を踏み外しさえしなければ、どの業界でも上手くやれる才能の持ち主だったろうに。
「ナオちゃん。朝弱いでしょ。ほどほどにしときなよ」
「はーい」
「いつも起きられないでしょ。明日起きられなくてもおこさないからね。そしたらキャンプ行けないからね」
「はーい」
返事だけはいいんだから。
春香はそう思いながらも、少し自分の顔が笑っているのを自覚しながら、目を閉じた。
午前二時
春香は真下から聞こえた甲高い悲鳴に飛び起きた。
「なになになに?」
辺りはまだ真っ暗である。深夜なのだから当然だ。
そんな中、ベッドの下から絶叫が響いている。ガタガタとベッドが振動する。
ああ。またか。
春香はすぐさまベッドから飛び降りると、下を覗きこんだ。
奈緒が叫びながらベッドの底や柱を無茶苦茶に殴りつけ、蹴りつけていた。床やマットレスの底に叫びながら何度も頭を打ち付ける。
「ナオちゃん! 大丈夫! 落ち着いて! 落ち着いて!」
だが奈緒は止まらない。叫び続ける。暴れ続ける。ベッドの柱を殴りつけた両の拳はすりむけ、血が滲んでいる。
奈緒がこうして取り乱すのは始めてではない。この家に匿い始めた時は週に一回はこの状態になっていた。それが徐々に月に一度程度になり、最近はめっきりなくなったと思っていたのだが。
幸い、春香の部屋の真下は空き部屋である。床に頭をたたきつけてもダイレクトに響く部屋には人がいない。だが、両隣には住人がいる。防音性の高いマンションではあるが、度を過ぎた悲鳴がこの時間に続くのはまずい。
春香はベッドの下に右手を突っ込み、奈緒の片腕をつかんで引っ張った。ベッドの下から引っぱり出そうとしたのだ。
しかし、腕を掴まれた奈緒はパニックになった。絶叫しながらもう片方の手で春香の右腕をがむしゃらにひっかく。奈緒の長い爪が春香の皮膚に食い込み、そのまま皮を引き裂くほどの力で上腕を這う。春香は痛みに悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えながら力尽くで奈緒をベッドの下から引きずり出そうとする。しかし、奈緒は恐怖の叫び声を上げて春香の腕をひっかき回した手で今度はベッドの柱を掴んでその場に留まろうとする。
ダメだ。逆効果だ。
春香は覚悟を決めると、逆に自分がベッドの下に潜り込んだ。そして奈緒の身体を羽交い締めにする。奈緒がうなりながら抵抗する。それを必死に押さえ込みながら、春香は叫んだ。
「大丈夫! 大丈夫だから!」
奈緒は自分を押さえ込んでいる春香の腕をまたひっかきながら、わんわんと泣き叫んだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません!」
何に、誰に謝っているのだろう。
「悪い子でごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさいいいい!」
レイジにだろうか。ナツにだろうか。あの母親にだろうか。
「大丈夫。大丈夫だよ。ナオちゃん。私がいるから。私がいるから」
「ご、ごべ、ごべんなさいいいい! ごめんなさいいい」
きっと夢を見たのだろう。誰かに何かをされた記憶か。はたまた、自分が誰かに何かをした記憶か。
なんにせよ、この子は今、苦しんでいる。
夢から覚めてもなお、半狂乱になってひたすら謝罪を口にするほど、自分を責め続けている。
暴れ疲れ、徐々に力が弱まっていく身体を抱きしめながら、しくしくと子供のように泣きじゃくる奈緒の頭に顎を乗せながら、春香は一筋の涙を流した。
自分に、この子を救ってあげることは、出来ない。
だってこの子の罪は、この子のものだから。この子自身が向き合うしかないのだから。春香に出来ることなどなにもない。
ただ、側にいてあげることぐらいしか。
それしかできない。
いつか、いつの日にか、この子が、この子自身を許せる日がくればいい。
許される罪ではないのだろうけど。
決して許すなと周りの全員が言うのだろうけれど。そして、きっとそれは正しいのだろうけれど。
でも、この子自身は、この子自身ぐらいは、自分を許してあげてもいいじゃないか。
私ぐらいは、許してあげてもいいじゃないか。
あなたに罪はないとは口が裂けても言えないけれど。
許すぐらいは、してもいいじゃないか。
朝日の中、春香が目を覚ますと、ベッドの下で奈緒にしがみついていたはずの春香の身体が、いつの間にかベッドの上に移動させられていた。
春香の傷だらけの上腕に、奈緒が必死に薬を塗って、ぬれタオルで患部を冷やしている。
「ハルちゃん、ごめんね。ほんと、ごめん。ごめんなさい」
奈緒はポロポロと涙をこぼしながら春香に謝る。
その頭を春香はポンポンと叩いた。
「いいよ。ナオちゃん。許す」
その手を奈緒は両手で包み、泣きはらした目で春香を見つめる。
「友達じゃないか」
春香はそう笑ったが、奈緒は春香の手に縋り付くようむせび泣き続けた。