【第6章】 花火キャンプ編 8
8
九月三十日(キャンプ前日)
午前五時三十分
立花春香の朝は早い。
早朝五時半のアラームとともにむくりとベッドから身体を起す。
ベッドサイドのスマホをスワイプしてアラームを止める。「ジリリリン」という電子音が五回鳴るまでに止めるというマイルールを春香は自分に課していた。寝起きはかなりいい方だが、やはり気乗りしない朝もある。こういった自分を律するルールを無理ない程度に設ける事で、日々の生活がメリハリのあるものになる。気がする。ちなみに今日はちょうど三回で止めることができた。
春香はベッドから降りると、スウェットを羽織った。パジャマはTシャツとジャージの半ズボン。上着を羽織るだけでランニングスタイルになる。あとは寝癖を隠すようにキャップを被れば完璧だ。
机で充電していたワイヤレスイヤホンのケースを開ける。今時のイヤホンは小さい。肌色に近いベージュカラーなのでまるで補聴器のようだ。この小ささで電話通話まで出来るそうなので驚きである。春香は小さいイヤホンをつまんで左右の耳に押し込んだ。
よし。行きますか。
玄関に向かい、ランニングシューズを履き、外に出る。
日が昇って間もない町は少しだけひんやりとした。だが、どうせあと三十分もしたら太陽がギラギラ照りつけるだろう。涼しいのは今のうちだけだ。
軽いストレッチのあと、走り出す。イヤホンからは早朝にふさわしい穏やかなリズムの曲を流す。
タッタッタッと閑静な住宅街に春香の足音が響いた。
「おお。おはよう。今日も早いねえ」
犬を連れた老人に声をかけられる。
春香はスピードを緩めずに「おはようございます」と笑顔で返し、隣を駆け抜けた。
「毎朝ごくろうさん」という背後からの声にぺこりと頭を下げる。
春香が朝のランニングを始めたのは中学に入学したタイミングだった。
小学六年生の夏休み。春香は森の中を命がけで走り回った。体力の限界のその先まで出しつくしたあの夜。いざというときに最後の最後で自分の命を救うのは、やはり自分自身の力だと実感した。ということで始めた基礎体力作りだったが、母の美和子は「なんと安直な」と呆れた。しかし、春香が「銃弾が飛び交う夜の森を経験したことのない人にはわからない」と返すと母は沈黙し、次の日、ランニングシューズを買いにスポーツ用品店に連れて行ってくれた。
「三日坊主にならないようにしよう」と自身でも決心して始めた毎朝のランニングだったが、まさか二十代後半にさしかかっても続けるとは思わなかった。今では悪天候などで走らずに一日を始めるとどうにも落ち着かない身体になってしまった。
曲調がアップテンポの曲に切り替わる。私はそれに合わせてペースを速めた。
ふと、夏の草原を思い出した。
フェンスの穴をくぐり抜け、友人二人と森の中を全力疾走したあの夏の日。
なっちゃん。元気かなあ。
小一時間のランニングを終え、マンションの一室に戻ってくる。
そこまで広い部屋でも便利な立地の部屋でもないが、住人同士の交流がほとんど不要なことと、防音性が高いのが気に入っていた。この時代、プライバシーが確保されることは住居選びにおいて大事な要素である。
シャワーを浴び、髪を乾かした後に仕事着に着替える。スーツではないが、小綺麗なファッションを選ぶ。公務員は万人受けする清潔感が大切なのだ。メイクも軽めに施した。
リビングのテーブルで朝食をとる。トーストにベーコンエッグ、ホットコーヒー。ランニング後の朝食は実に美味い。
テーブルに置いているタブレットで朝のニュースを見る。
円安のニュース。物価高のニュース。政治家の不適切発言。いつも通りのラインナップだ。珍しいニュースと言えば、親を刺した女子高生と、ストーカー被害に遭ったYtuber、ダブル不倫が週刊誌にすっぱ抜かれた芸能人ぐらいのものか。
暗いニュースばっかりだ。
春香はため息をついて天気予報をやっている番組にチャンネルを変えた。
『連日、季節外れの猛暑でしたが、明日からは涼しくなり、秋らしい日和に・・・・・・』
おお。ようやく明るい知らせである。
明日は金曜日。春香は有給を使ってちょうど一日休みを取っていた。
別に何か用事があるわけではない。上司が最近になって急に「年休の計画的所得を・・・・・・」と言い始めたのだ。ついこの前までは、年休を消化できずに次年度に突入することがさも当然、という感じの職場だったのに。時代の変化を身をもって感じる今日この頃である。
まあ、一週間の労働の疲れがたった二日でとれるはずがないと春香も常々思っていたので、有給を気兼ねなくとれる時代になるのは大歓迎である。明日は一日家でごろごろしようと思っていた。
だが、そうか。涼しくなるのか。ちょっと外出してみてもいいかもしれない。
食べ終わった朝食の皿や、ベーコンエッグの調理に使ったフライパンを流しに置き、水につける。
さて、そろそろ働きに行きますか。
タブレットの電源を切り、リビングとベッドルームの電気を消す。
玄関で仕事用のパンプスを履き、ドアノブを握る。そこでちらりと後ろを振り返った。
リビングの奥に電気が消されたベッドルームが見える。遮光カーテンの隙間から漏れるわずかな光で薄暗い室内がぼんやりと見える。
その暗い部屋の壁際にある春香のベッド。
そのベッドの下から、白い腕がぬっと突き出していた。
細い腕は、ゆっくりと、掌を開き、そして、ゆらゆらと揺れた。
春香はそれを見て、ふっと笑った。
「いってきます」
正午
「立花さん。今朝のニュース見た?」
昼休みにそう話しかけてきたのは隣のデスクの恵子さんだった。三十後半の中堅職員である。席が近いこともあり、よく談笑する仲だ。
「ニュース? ああ。ゲス不倫の」
恵子さんはゴシップネタが大好きなのだ。だが、今回はそうではなかったらしく、彼女は「違うわよ」と口をとがらせた。
「親を刺した女子高生のことよ」
春香は「ああ。そっちですか」と返しながらコンビニのおにぎりにかぶりついた。最近のコンビニ飯は馬鹿に出来ない。特におにぎりの進化がめざましい。自分で作ったものよりよっぽど美味しい気がする。
「まだ、逃げてるんでしたっけ」
「そうらしいよ」
恵子さんは卵焼きを口に運びながら頷いた。恵子さんは毎日手作り弁当だ。中学生の息子さんがおられて、その子のお弁当のおかずの余りを詰めてきているそうだ。毎朝お弁当作りなんて本当に頭が下がる。私は朝ご飯の洗い物すら放置してきたというのに。
「あの子、うちでも担当してた子だったらしくてね」
「そうなんですか」
私の職場は児童相談所である。
児童相談所の主な役割は、虐待、非行、育児放棄、貧困など、子供や家族が直面する問題に対する相談や支援を提供することである。一言で言えば、十八歳未満の子供に関する福祉問題を取り扱う専門機関だ。
つまり、うちが担当していたと言うことは。
「虐待、あったんですか」
「うん。私は直接関わってないけどね。ネグレクト。父子家庭だったんだけど、父親がなんかこう、スピリチュアル? 的なものにはまっちゃっててね」
春香は「そうなんですね」と相槌を打ち、おにぎりをもう一口囓った。悲しいが、珍しい話ではない。
「おばあちゃんがいたからなんとかなってたけど、おばあちゃんが身体壊したタイミングで引っ越して、他エリアに引き継いで、それでうちとの関係はおしまい」
恵子さんはそこで大きくため息をついた。
「きっと、ぷっつんしちゃったんだろうね」
両親が変な思想に傾倒するのは自由だが、割りを食うのはいつでも子ども達だ。ニュースの女子高生も犯罪者になりたかった訳ではないはずだ。ただ普通に幸せになりたかっただけのはずなのだ。
でも、理由はどうあれ、彼女は道を踏み外してしまった。あるのはその残酷な事実だけ。
こういうとき、私たち職員は言いようのない脱力感に襲われる。どうにか出来なかったのか。取り返しがつかなくなる前に、何かしてあげれなかったのか。どうしようもない事であったことはわかっていても、どうしようもない事だったからこそ、考えずにはいられないのだ。
春香は無意識に半袖のシャツから覗く自分の腕を見た。もう言われなければ気がつかないほどに薄い傷痕。
閉じられたマンションの一室から逃げ出した自分には、温かく迎え入れてくれた美和子さんがいた。それでも、春香が過去に向き合えるようになったのには長い年月がかかった。
今でも時折、夢に見る。
寒くて暗い部屋で、必死に玄関の鍵穴に針金を差し込んでガチャガチャとかき回す夢。
幼い身体に戻った春香は泣きながら呟き続ける。
はやく。はやくしないと。
お姉ちゃんが死んじゃう。
「立花さん?」
恵子さんに呼び掛けられて、春香は自分がおにぎりを見つめたまま固まっていたことに気がつく。誤魔化すようにおにぎりの残りを一気に口に放り込んだ。
「ちょ、ゆっくり食べなよ。喉に詰めるよ」
事実、飲み下す事に苦労し、春香は緑茶のペットボトルを呷ってごくごくと飲み下した。ぷはあと息を吐く。
「まるでうちの息子みたいよ」と恵子さんが笑った。
春香はふと思い出した。
そういえば、夏休みキャンプで脱走したとき、たくさんおにぎりを作って持って行ったっけ。
結局、一個も食べられなかったな。
「そうそう。立花さん。あなた、子猫、飼ってみない?」
「子猫?」
恵子さんはいそいそとスマホを取り出して、一枚の写真を春香に見せた。白い子猫が布団の上に横たわっており、カメラを睨み付けている。その側に、四匹の子猫がスヤスヤ眠っている。
「うちの猫が子供産んじゃったのよ。うちで五匹も飼えないから、引き取り手を探してるの。どう? 一匹」
春香は半笑いで「いやあ。私、ペットとか飼ったことなくて」と身を引く。
「すっごく可愛いのよ」
「それはわかるんですけど」
「立花さん、一人暮らしでしょ。考えてみて。家に帰ったら可愛いこの子がいるのよ。それだけで仕事を頑張れると思わない?」
恵子さんがスマホを片手にぐいぐい来る。春香は愛想笑いをしながらもそれを両手で阻む。数分の問答の結果、恵子さんも脈なしだと判断したのか、すっと身を引いてくれた。
「でもまあ、ちょっと考えてみてよ。誰か猫を欲しがってる人がいれば、言ってあげてくれない? ラインに画像送っとくから」
春香はスマホに無理矢理送られてきた猫の画像を見て、ため息をついた。
確かに、可愛い。
でもなあ。
春香は誰にも聞こえないように小声で呟いた。
「間に合ってるんだよなあ」