【第5章】 高原キャンプ編 32
32
ブオンと鳴り響いたエンジン音に、全員がびくりと振り返った。
委員長に注目していた彼らは誰一人、気がつかなかった。
ランダルがいなくなっていることに。
黄色いハンターカブに、ランダルはまたがっていた。
「おお、エンジンは生きているようだね。よかった。よかった」
「ちょ! カブにさわんじゃないわよ!」
私は勢いよく立ち上がった。私の肩を好き放題に涙で濡らしていた委員長が勢いで尻餅をつく。
ランダルは美亜、シン、委員長、ノブを見る。
「君たちには、私の思い込みで本当に迷惑をかけた。心から謝罪する」
ランダルはバイクにまたがったまま、頭を下げた。
「それから、特にシン君。腕は申し訳ないことをした。しっかり病院で治療をうけてくれたまえ」
ランダルは「それから」と顔を上げた。
「言い忘れていた。君たち。娘となかよくしてくれて、ありがとう」
そしてランダルはナツに向かってにっこりと笑った。
「すまない。サマーくん。これ、もう少し借りるね」
「は? ふざけないで!」
ランダルがアクセルを回した。
ブウウンとうねりを上げて、ハンターカブが走り出した。リフトとリフトの間にある横道を抜けて、車道に向かう。
あの車道の先は・・・・・・
「くそ! どいつもこいつも!」
ナツはだんっと地面を踏みならすと叫んだ。
「カンナ!」
その瞬間、キャンピングカーのエンジンがブオンとかかった。
ナツが運転席に回り込み、飛び乗ったと思うと、キャンピングカーが猛スピードで走り出した。
ランダルは展望台に走り込んだ段階で気がついた。うむ。ブレーキが壊れている。
ランダルはひらりとバイクから飛び降りた。地面に受け身をとりながら転がる。馬から飛び降りることを考えれば楽なものだった。
ハンターカブは運転手を失ったまま、真新しい柵に激突した。しかし、柵はあくまで対人用に設計されているため、ガードレールほどの強度はない。バイク衝突の衝撃でぐにゃりと曲がり、崖側に向かって大きく歪曲してしまった。その隙間からこぼれるようにして、ハンターカブが崖の向こう側に消える。
数秒のタイムラグの後、バイクが地面に激突する鈍い音が谷に響いた。
おお。やってしまった。
これはサマーくんに申し訳ないことをしたな。また怒られてしまう。
ランダルは見事に腫れ上がった頬を撫で、苦笑した。
だがおかげで良い隙間ができた。
ランダルは崖の先の景色を眺めた。
東の空は随分と明るくなっていた。
もうすぐ日が昇るのだ。
ゆっくりと柵に近づき、バイクで出来た柵の歪曲部分から柵を越える。
それとほぼ同時だった。背後からクラクションが響いた。
キャンピングカーが音を立てて展望台に入ってくる。ランダルは振り返りもしなかった。
ランダルは崖の際まで足を運んだ。つま先が崖から突き出て、足の裏の砂が奈落の底のような崖下に落下していく。ランダルはそこで踵を軸にくるりと振り返った。
キャンピングカーがブレーキ音を立てて停車したところだった。斉藤ナツが車から飛び降りた。
「私は断罪人になると決めたんだ」
ランダルは言った。両手を広げる。
「ちょ!」とナツが叫ぶのが聞こえた。
ランダルは静かに微笑んだ。
「そして、今日、裁かれるのは私だ」
ランダルはぽんと足で地面を蹴った。身体が宙に浮く。
ナツは助けようとするだろう。だが、あの距離からでは間に合わない。
カンナ。今行くよ。
そこでランダルは目を疑った。
斉藤ナツが両手をくるくると大きく頭上で動かしていた。その手には、大きな輪がついた長い縄。
あの動き。
カンナ。
落下するランダルの身体に投げ縄が見事に被さった。斜め横から叩き付けるように通されたロープは、ランダルの肩に袈裟懸けに縛り上げる。
ランダルは崖を落下しながら思った。
見事だ。
ランダルは頬を一筋の涙が伝うのを感じながら呟いた。ずっと言おうと思っていた。でも、言えなかったことを。
いっぱいいっぱい練習したんだな。がんばったなあ。
えらいぞ。カンナ。
私は勿論、投げ縄なんてしたことない。
でも、反射的に身体が動いた。吸い寄せられるように後部座席の縄を掴み、地面に降り立つと同時に初めて持ったはずのロープをくるくる回して放り投げていた。
まるで身体の中にカンナが入り込んだかのように。
ビン! と縄が張られた。
次の瞬間、両手に持ったロープが凄まじい勢いで引っ張られる。そこでようやく私は我に返った。
やばいやばいやばい。
踵を地面に突き刺すようにして踏ん張る。だが、成人男性一人の体重を私が支えられる訳がなかった。ガリガリと踵で地面を削りながら、私は崖下に引き込まれていく。
このままじゃ、私も落ちる。
私は両手で持っていた縄を右手と左肩ににぐるりと巻き付けた。そしてあえなくぶつかった。塀は胸ほどの高さの支柱が何本も並び、柱同士が何列もの鎖でつながれている構造だ。私は鎖の束を左肘で抱えるように掴まった。ギシリと音を立てて動きが止まる。私はその身を引きちぎられそうな痛みに襲われながらも安堵した。よし。ここで踏ん張る。
そう思った瞬間に、塀の支柱がバキバキと音を立てて次々と根元から抜け始めた。
おいおい。まじか。
ランダルめ。どうやったら真新しい塀をここまで破壊出来るんだ。
あれ? そういえば、私のハンターカブ、どこいった?
頭に疑問が湧いたが、現状はそれどころではなかった。支柱が一本抜ける度に、私の身体が崖下に近づいていく。足をがむしゃらに土の上で滑らすが、どうしようもなかった。
遂に、私の半身が、崖の先に飛び出してしまった。
ロープの数メートル先に、宙ぶらりんになったランダルが私を見上げる。
「サマーくん。もういい。もういいんだ。ロープを放したまえ」
ランダルは胸に袈裟懸けになったロープに全体重をかけ、両腕をだらんと下げていた。目をつぶって悟ったように言う。
「私はもう、終わらせたいんだ」
私はギシギシと身体と腕を締め付けるロープと左肘を挟み込む鎖に苦悶しながら、声を絞り出した。
「ふざけないで」
私は怒鳴った。怒鳴りつけた。
「ふざけんじゃないわよ! なに勝手に決めてんのよ!」
塀の破損はなんとか止まった。だが、いつまた壊れ始めるか。あと数本の支柱が抜ければ、この塀ごと私たちは落下する。そんな状況で私は叫び続けた。
「あんた、カンナの気持ち、考えたことあんの? 想像したことあんの? あの子が何をしたくて、あなたとどんな話をしたいのか、ちゃんと聞こうとしてきたの?」
その言葉に、ランダルは思い起こした。
牧場での事故のあと、自分はできるだけ牧場や、馬や、カウボーイからカンナを引き離そうとした。お洒落なカフェなんかに連れて行った。
でも、カンナは自室の壁にカウボーイハットを大事に飾っていた。
「向き合いなさいよ。ちゃんと娘を見なさいよ! 目をそらすんじゃないわよ!」
水族館や、映画館。そんなところばかりに連れて行った。娘がどんな顔をしているか見もしないで。
話す時間が短くて済むから。そんな理由で。
「逃げんじゃないわよ! あんたは父親でしょうがああ!」
ランダルはふと思った。崖下に宙づりになりながら、想像した。
娘は、私にどんな風になって欲しかったんだろう。
カンナは今、私に何を願うのだろう。
幼いカンナ。リトル・カウガール。
一生懸命、投げ縄を練習する後ろ姿。
『言ってましたよ。パパみたいになりたいんですって』
娘は私に憧れてくれていた。こんな私を。どうしてだ。
娘は私をどんな人間だと思っていたのだろう。
その時、ランダルの頭に浮かんだのは、紛れもない自分が娘に言った言葉だった。
『いいかい。カンナ。カウボーイっていうのはな。決して諦めないんだ』
娘を馬に乗せながら。それを抱きかかえるようにして一緒に揺られながら。父はは言った。
『どんなにつらいことがあっても、きつくっても、絶対にくじけないんだぞ。カンナもそんなカウガールになりなさい』
牧場の塀の外で、一人、父に声援を送ってくれた娘。
『パパー! がんばれー!』
そうだ。パパは、がんばらないと。
だって、パパは。
樽木はロープを掴んだ。
渾身の力でロープをたぐり寄せ、その身を引き上げる。
死ねない。
私は、たくさん間違えてきた。ずっと間違え続けた。
でも、死ぬことだけはしてはいけないんだ。
諦めちゃダメだ。逃げちゃダメなんだ。
「だって、だって私は、私は!」
樽木は叫んだ。
「だって、私は! パパは!」
ロープをたぐり寄せながら、ボロボロと涙をこぼしながら、カンナの父親は大声で叫んだ。
「カウボーイだから!」
決して諦めない、決してくじけない。娘が憧れる、カウボーイだから。
「言ったわね。ボス」
私は冷や汗を滴らせながら、にやりと笑った。
「じゃあ、生きるわよ!」
バキン!
一際大きい、金属音とともに、塀がまとめて落下していった。じゃらじゃらと鎖が音を立て、私の左腕をするりと抜け、崖下にくるくると落ちていく。
ガシャアアンと派手な音が遥か下から響いてきた。
私は落下しなかった。
私の左肩を委員長が掴んでいたから。
私の襟首をシンが掴んでいたから。
そして委員長の背中を美亜が、シンの腰をノブが引っ張っていたから。
委員長が泣き叫んだ。
「掴んだ! 掴んだよカンナちゃん!」
今度こそ。今度こそ。掴んだよ。
今度こそ、助けるから。
ランダルとともに引き上げられた私に、委員長が飛びついた。
「カンナちゃん! カンナちゃん!」と泣きじゃくりながら。
美亜が背中に抱きついた。「カンナああああ!」と涙を流しながら。
そしてあろうことか、シンとノブまでも「カンナ! カンナ!」と私に号泣しながら抱きついてきた。
気がつくとランダルまでが娘の名を連呼しながら私の足にしがみついてる。何度蹴っても離れようとしない。
勘弁してくれよ。私はナツだ。斉藤ナツ。
朝日が昇ってきた。温かい日差しが私たちを包み込む。
その朝日の中で、本物のカンナが、みんなにしがみつかれている私を幸せそうに眺めている。
朝日に洗われるようにして、カンナの姿が、足先から徐々に薄くなっていく。風に運ばれるように、カンナが足下からサラサラと消えていく。
行くのか。
カンナが口を動かす。
『ありがとう』
私は、黙って頷いた。そして、ぐっと親指を立てる。
グッジョブだったぞ。カンナ。
カンナがくすりと笑い、負けじと親指を立てた。
その手が、風に流されていく。まるで空に帰るかのように。
カンナの頬がきらりと光った。
そして、カンナは、消えた。
私は空を仰いだ。
朝の空は、所々夜の気配を残していた。朝日に照らされ少しずつ淡くなっていく。
もうすぐ、どこまでも澄み切ってどこまでも続く青空が広がるのだろう。
きっと今日もいい天気になるとそう思えた。
ふと、私は思い出して言った。
「ねえ。私のカブは?」