【第5章】 高原キャンプ編 30
30
【森口舞】
森口舞は個性のない子どもだった。
黒髪お下げ頭に縁なし眼鏡。
成績は中の上。スポーツはてんでダメ。
手先は見た目ほど器用じゃないし、面白いことも言えなければ、人に話を合わせるのも苦手だった。教室にいてもいなくても気づかれないのではないかと自分でも思ってしまうほど、目立たない子どもだった。
舞は目立つ人たちに憧れた。強く惹かれた。例えば、花咲美亜のような。その親友の樽木カンナのような。クラスの中心で華やかに活躍出来る人に、一度でいいからなってみたかった。
そんな舞は昔から同調圧力というものに極端に弱かった。
相手がそれを期待していると少しでも感じると、すぐにその役を買って出てしまうのである。故に、気がついたら委員長という名ばかりの雑用係を万年するようになっていた。「委員長をやりたい人、いないか?」という教師の呼び掛けに、クラス全員が下を向く。あの沈黙が舞には耐えがたかったのである。だったら自分が手を上げればみんな喜ぶ。そこまで悪いことではないように思えた。
だけど、そのうち、舞が手を上げることをみんな当然だと思うようになった。
「あの子はやりたがりなんだろう」とそう思われるようになったのだ。だから、何かの代表挨拶だとか、新しい当番だとか、誰か一人手伝ってくれなんていう無責任な呼びかけなんかがあるときに、舞が手を上げずにいると、みんな非難がましい目線を舞に向けるようになった。同調圧力が苦手な舞はそう言った空気に人一倍敏感で、すぐに手を上げてしまう。そしてみんなはまた思う。ああ、やっぱりやりたがりなんだなと。
始めの頃は、舞が何かみんなのためにすると、「委員長、ありがとう」と声をかけてくれた。でも、そのうちみんなそんなこと言わなくなった。やりたくてやってるんだからと。そういう子なんだと。
そして、舞は「そういう子なんだ」と思われたのなら、期待通り「そういう子」になってしまった。そういう子だった。
ある年に連続で同じ係が出来ないというクラスルールが出来て、舞が委員長でなくなった時があった。その時でも変わらず舞は「委員長」と呼ばれた。いつの間にか、役職名はそのまま舞の名となっていたのだ。
正直、舞は嬉しかった。
全く個性のない舞にとって、そんなニックネームでもアイデンティティを獲得した気分になったのである。実際のところ、「やりたがり」な舞を小馬鹿にする意味合いを含めて呼ぶ人もいたのだが、それでも舞は嬉しかったのだ。
委員長を期待されれば舞は委員長になりきった。品行方正。規律を重んじ、誰にでも優しく。面倒ごとは率先して引き受けた。頼まれたことは一切断らず、自分の事より他人のことをいつでも優先した。
そして例のごとく、みんながそれを当然と思っていった。
そんな時、クラスの中心人物、カンナが、喉に障害を負った。
簡潔に言うと、喋れなくなった。学校生活でその不便さは筆舌に尽くしがたいものがあった。誰かがサポートせねばならなかった。
もちろん、舞が手を上げた。
舞は図書館の本で手話を覚えた。なんなら、カンナと一緒に練習した。毎日二人で図書館に行って、手話を教えあいっこした。手話辞典を片手に、互いに「ありがとう」「ごめんなさい」を手話で言い合ったり、「すき」「きらい」を交互にやってみたり。カンナは大層喜んだ。みんなの目を気にして委員長としてふるまう必要の無い、その二人きりの時間は舞にとっても大切な時間となった。
気がつくと、手話をマスターした舞は、教室におけるカンナの通訳であるかのような立ち位置になった。
舞は嬉しかった。カンナと話すためには、舞を通さなければならない。舞は沢山の人に頼りにされた。密かに面倒ごとを押しつけられることはよくあったが、こんな風にクラスの注目の的になれたことはなかったので、舞はそれはもう嬉しかった。ようやく舞は憧れの、クラスの中心人物になれたのだ。
中学でも、高校でも、舞はカンナと同じクラスになった。教師が操作して同じクラスにしているのは明らかだった。当然だ。舞は補助員のようなものだったから。舞はそのことにも誇りを感じていた。
しかし、ある日、舞は目を覚ますこととなった。
高校生のある時、いつでも健康なカンナには珍しい事に、風邪をこじらせて一週間ほど学校を休んだ。
舞はその一週間、ほとんど誰にも話しかけられなかった。
わかっていた。わかっているはずだったが、本当のところで理解できていなかった。
人気者だったのはあくまでカンナだったのだ。
クラスで一、二を争う美少女。それだけではない。彼女はしゃべることができないという紛れもない個性を持っていた。教室の窓辺に佇み、何も話さず、でも、話しかけたら静かに微笑んでくれる。男子も女子も夢中になる少女。それがカンナだった。
クラスのみんなは、カンナについては詳しい。好きな食べ物も、誕生日も、星座も、血液型も。
でも、みんな、舞の事は知らない。興味が無いから。舞は何人もの人にカンナの誕生日を伝えたが、舞の誕生日を聞いてくれた人などほとんどいない。
ある日、ある男子生徒に聞かれた。
「委員長って名前、なんだっけ」
名前すら、覚えられていなかった。
舞は、カンナ専用の翻訳アプリぐらいにしか思われていなかったのである。
そんな舞にも思春期の波がやってきた。
意味も無く苛立つ日もあったし、理由もなくやる気が出ない日も、無性に悲しい日もあった。そんな時でも、舞は「委員長」であり続けねばならなかった。
そして、舞は当然のごとく、同年代の他の女子同様に恋をした。正確には、ずっと募らせていた想いが最高潮に達した。
相手は新堂政喜である。
シンと呼ばれる彼は、一般的に言うところの不良である。授業はまともに受けないし、係や行事はサボるし、すぐケンカをして問題になっていた。舞とは全くの正反対の性格である。だからこそ、惹かれたのだろう。
幸運なことに、舞はシンと話す機会がよくあった。舞が補助係を引き受けていたカンナや美亜とシンは仲が良かったのである。
シンは、舞の事をカンナの翻訳機とも、美亜の杖とも思っていなかった。ちゃんと一人の友人として接してくれた。それが舞のささくれだった心を温かく溶かした。
そんな風に舞も誰かに想いを寄せていたせいか、それとも、一番長く側にいたせいか。ある日、カンナの美亜への視線がただの友人に対するものではないことに、舞はただ一人、気がついた。
舞は他の人には決して見えないように、手話でカンナに聞いた。
「美亜の事がすきなの?」と。
カンナは目に見えて狼狽し、しばらく赤面して黙ったあと、「だれにも言わないで」と手話で舞に伝えた。当然、舞は頷いた。
高校三年生になってすぐ。
「シロマに告白されちゃった」と美亜が舞に相談、というか、のろけをしてきた。舞との適度な距離感が逆に相談しやすかったのだろう。
舞は驚いたし、カンナのことを思うと胸が痛くなった。でも、どうしようもないことだと思った。誰が見ても、美亜とシロマは両思いだった。
舞は「すっごくお似合いだと思うよ」と舞は返した。
そして、「カンナちゃんには、正式に付き合ってから報告をしてあげた方が良いと思う」と付け加えた。現在進行形で恋の成就を見せつけられるより、確定した後に告げられた方がカンナの傷も浅く済むのではないかと思ったのだ。
美亜は怪訝な顔をしたが、「委員長がそう言うなら、そうする。カンナには付き合ってから、真っ先に報告しにいく」と輝く笑顔を見せた。
シロマの美亜への想いは子どもの頃からだという。
積年の想いを告げるのは相当な勇気が必要だったろう。
そう考えると、同じく幼少期からずっとシンを想ってきた舞は大きく心を揺るがされた。
自分も、自分だって。そう勇気づけられた。
舞は駅前にあるお洒落な美容室に初めて入った。
ずっと伸ばしていた髪を今風にカットしてもらい、なんと茶髪に染めてもらった。校則を破る行為であったが、同級生はみんなやっていた。じゃあ、私がやってもいいじゃないかと思った。
生まれて初めて、コンタクトをつけた。
シンの好みはわからないが、きっとこういうのが好きなんだろうと勝手に想像したのだ。
本当は美亜のようにピアスをつけたかったが、流石にそこまでの勇気は出なかった。
次の日、教室に入るときはドキドキした。どんな反応をみんながするだろうと。
カンナは舞の変わりように驚き、笑顔で手を叩いてくれた。美亜は「超かわいい」と褒めてくれた。
それだけだった。他のクラスメイトは何の反応も示さなかった。変化には気づいたが、興味は無かったのだろう。
別にいい。たった一人に気がついてもらえれば良いのだから。
舞は昼休み、校舎裏でタバコを吸うシンのところに顔を出した。
いつも通り、一通り喫煙に対する注意と、遅刻についての小言を言った。シンもいつものように苦笑した。
「髪、似合うな」
そう、シンが何気なく言った。それが舞にとってこれ以上無い後押しになった。
舞は覚悟を決めた。
舞の一世一代の告白を、シンははっきりと断った。
「委員長とは付き合えない」と。
舞は「そっか」と呟いた。仕方ないと思った。そりゃあそうだよなとも思った。私なんて仲良くしてもらえるだけでありがたいと思わなくちゃいけないのに、何を調子に乗っていたんだろう。そう思った。
でも、すっきりした。良かったじゃないか。気持ちを伝えられて。
しかし、次のシンの言葉で舞は凍り付いた。
「いつも、カンナの世話焼いてくれて、感謝はしてるんだけど。ごめんな」
何気ない一言だった。なんの悪意もなかった。
でも、ここでカンナの名前が出てきたことが舞にはこの上なくショックだった。
やっぱり、私はカンナの付属物としてしか、見られていないのかと。
その時、にわかに校舎が騒がしくなった。
「美亜が! カンナに階段からつきおとされたらしい!」
そんな声が聞こえてきて、シンは血相を変えた。舞を置いて、全速力で校舎に飛び込んでいった。
目の前で失恋に傷つく舞をシンは置き去りにした。カンナを優先して。勇気を振り絞り、髪を切り、眼鏡を外し、殻を破って生まれ変わった気持ちで挑んだ舞の告白を、覚悟を、蔑ろにされた。
実際にはシンはそんなつもりはなかっただろうが、その事実が、またしても舞を不可逆的に傷つけた。
私も、行かなきゃ。カンナと、美亜のところへ。だって私は、彼女たちの・・・・・・
舞は、その場から動けなかった。
喧噪が漏れ聞こえる校舎裏に、舞は一人、立ち尽くした。
その日の午後、アッコが舞に話しかけてきた。舞の机に浅く腰掛けて、いつも持ち歩いている愛用のコンパクトで前髪を確認しながら。
「カンナ、なんで美亜を突き落としたのかな」
本当なら、舞はカンナについてあげているべきだった。こういうときこそ、カンナを支えて助けになるべきだった。だが、舞は今日だけはできなかった。カンナがいるはずの保健室には行かず、他人事のように教室に座っていた。
だからアッコが話しかけてきた。一番カンナと仲が良いと思われているから。
「・・・・・・突き落とした訳では、ないんじゃない?」
「でも、なんかもめてたらしいよ。なんでかな」
舞はアッコと目も合わせず、上の空で答えた。
「シロマくんと美亜が付き合ったのが嫌だったんでしょ」
「ええ? じゃあ、カンナもシロマくんのこと、好きだったんだ!」
舞は思わず鼻で笑った。「そんなわけないでしょ」
「え? じゃあ」とアッコの動きが止まる。
そこでようやく、舞は自分のしでかしたことに気づいた。
慌ててアッコの顔を見たが、もう遅かった。アッコの目は興奮で輝いていた。
しかも、舞の焦りようで、アッコは確信を深めてしまったようだった。
「そうなんだ。そういうことなんだ」
舞は懇願した。これまでの人生で最も心を込めて、アッコにお願いした。
「誰にも、言わないで」
アッコは知り得た秘密に興奮しながら、大きく頷いた。
「うん。言わない」
しかし、彼女は、かの有名な魔法のアッコちゃんであった。
クラス登山の日、お昼休憩の場で、舞はカンナがいない事に気がついた。
舞は、あの日から、カンナに謝らなければとずっと思っていた。だからいち早くカンナの不在に気がつくことが出来た。
カンナへのいじめが始まっても、舞はどうしてもカンナの側に行くことが出来なかった。どんな顔をして彼女に会えばいいか、わからなかったのである。
美亜が階段から落ちたのも、きっと自分が下手な口添えをしたせいだと思った。
自分が変な意地を張らず、階段の事故の後、すぐにカンナに寄り添って支えていれば、クラスの状況がここまで酷いことにはならなかったはずだとも思った。
そもそも自分がアッコに秘密を漏らさなければこんなことにはならなかったと確信していた。
全部、自分のせいだ。舞はそう思った。
謝らなきゃ。
山頂でみんなと一緒に謝罪するぐらいじゃ許されるはずがない。
登り切るまでに、個別にカンナと話して、全部説明して、心から謝るんだ。
舞はカンナを探して休憩所を彷徨った。
まさかと思い、舞は長い階段を上って、教師に禁じられていた展望台に向かった。
そこにカンナはいた。
だが、一人ではなかった。シンも一緒だった。
舞は急いで木の陰に隠れた。
二人が抱き合っていたからだ。
なに? どういうこと?
舞は木の陰から頭を覗かせて、二人の様子を伺った。
正確には、シンをカンナが抱きしめていた。まるで慰めるように。
そして、シンは小刻みに肩を震わせていた。泣いてる?
舞の中で一つの仮説が生まれ、それが確信に変わった。
舞は木の幹の裏側に顔を戻した。
なーんだ。そういうことか。
シンはカンナの事が好きだったんだ。
で、今、告白したのだろう。でも、振られた。カンナは美亜がすきだもんね。で、落ち込むシンを、カンナが慰めている。そういうことか。
なーんだ。
木の陰に隠れる舞の頬を一筋の涙が伝った。
馬鹿みたい。馬鹿みたいだ私。
シンが私に優しくしてくれたのは、私がカンナの近くにいるから。それだけだったのだ。
みんな、みんな、カンナの事が好きなのだ。
誰も、私になんて、そもそも興味が無いんだ。
なのに、私、浮かれちゃって。髪なんて染めちゃって。さぞ滑稽だっただろう。
馬鹿みたい。
シンが休憩所に戻っていく。足音が通り過ぎた。
舞は木陰から、姿を現した。
腰ほどの高さしかない柵。その手前に立っていたカンナが驚く。
さあ。カンナちゃんに謝ろう。そのために来たんだ。
しかし、舞の口から出たのは全く違う言葉だった。
「いいよね。カンナちゃんは」
舞はポロポロと涙をこぼした。
「みんなに、注目されて、ちやほやされて、ほんとうらやましい」
カンナが唖然とした表情を見せる。
嫌だ。こんなこと、言いたくない。
「私なんか、みんなの嫌がること全部引き受けて、毎日真面目に授業受けて、勉強も頑張って、ずっとずっと頑張ってのに」
舞はカンナに近づいていった。一歩一歩。
「誰も褒めてくれない。認めてくれない。お礼だって言ってもらえない。みんな、私が何したって当然だと思ってるんだ」
カンナの目の前に来た。すぐ側にカンナの驚きで固まった顔がある。
「私がなにしたって、どんなにがんばってたって、みんなカンナちゃんしか、見てない。カンナちゃん。カンナちゃん。カンナちゃん」
やだ。違うの。こんなことを言いたいわけじゃないの。
でも、舞の口は止まらなかった。涙を顎に伝わせながら、舞の口は動き続ける。
「あ、あれかな。やっぱり、こ、声が、出せないからかな。いいよね個性があって」
カンナの目が大きく見開かれる。
嫌だ。止まって。言っちゃダメ。それは言っちゃダメ。
「うらやましいなあ。私も、声なんか、出なきゃよかった」
パン!
乾いた音が響き、舞の頬が張られた。
舞はおそるおそる顔を戻した。
カンナが泣いていた。音もなく、大粒の涙をこぼしながら。平手打ちした右手をそのままに、肩を震わせている。喉を震わせている。
その喉から、今思っているだろう言葉を、彼女は発することは出来ないのだ。
だから、黙って、ただ泣いている。
ごめんなさい。ごめんなさいカンナちゃん。
最低だね、私。
もういやだこんな自分。
こんな醜い自分はもういやだ。
「カンナちゃん。ごめんね」
舞はそう呟くと、目の前の低い柵をまたいだ。
もう、どうでもいい。
もう、いいや。
崖の先には青空が広がっていた。
綺麗な空。
舞は崖の向こうに、体重を乗せた。
その舞の左腕を、がしりとカンナが右手で掴んだ。
驚いて振り返る舞を、カンナは睨み付けていた。
いつの間にかカンナ自身も柵の外側に来て、右手で舞の左手を持ち、もう片方の左手で柵を握りしめていた。そして、ぐいっと一気に舞を手前に引っ張った。
カンナの細い腕から出されるとは思えないほど強い力で、舞は柵の根元に投げ飛ばされた。どしゃりと尻餅をつく。
そして、その反動で、カンナが掴まっていた柵の支柱が、老朽化した柱が、バキリと音を立てて根元から折れた。
舞が顔を上げたとき、カンナは崖の先に投げ出され、宙に浮いていた。
まるで、青空の中を飛んでいるようだった。
「カンナちゃん!」
舞は即座に身を起こして、カンナに手を伸ばした。でも、届くわけがなかった。舞の手がむなしく宙を掴む。
舞に何かを言おうとしたのか、カンナの口が動いた。
でも、舞には読み取る事が出来なかった。
カンナは、舞の視界から、消えた。
「カンナちゃあああん!」
舞は絶叫した。
叫びながら崖の下に追いかけようとした。
だが、出来なかった。
いつの間にか、舞の背中をシンが柵の外から羽交い締めにしていた。いつ戻ってきたのか。なぜ戻ってきたのか舞にはわからなかった。どうでもよかった。
舞は叫び声を上げながらシンの手の中で暴れ、カンナの名を呼び続けた。
目の前に広がる青空に、舞の叫びはむなしく響き渡った。
初夏の空は雲一つ無く、残酷なほど澄み渡っていた。