【第5章】 高原キャンプ編 24
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花咲美亜
花咲美亜がもう走ることができないと宣告されたのは、中学二年生のことだった。
陸上部の引退間際であった。何でもない練習後に、右足に痛みを感じた美亜は、医者にかかり、その絶望的な事実を告げられた。
カルシウム不足。その他諸々のビタミンの不足。原因は単純だった。
美亜は物心ついた頃から両親の意向で肉類や乳製品、魚を口にすることを一切禁じられていた。それはただのベジタリアンだとか菜食主義者だとかビーガンだとかお洒落に言い表せるような生やさしい主義ではなく、その強迫観念を伴っていると言ってもいい情熱は宗教に近かった。両親は決して命を奪うという行為を美亜に認めなかった。
じゃあ、お野菜や果物は生きていないの? 植物は命じゃないの?
そう幼いながら美亜は思っていたが、結局その疑問を口に出すことはなかった。そんなことを言って、「確かに」と野菜類まで禁止されてしまったら自分は死んでしまうと思った。そう思わせるほどの気迫が両親にはあった。
だからと言って、別に美亜は両親を恨んだことはなかった。食事以外の事では両親はおおらかだったし、少し過保護なところはあったが、美亜には好きなことをやらせてくれた。いつも美亜を一番に優先してくれたし、何かを頑張ったときはほめてくれ、落ち込んだ時は慰めてくれた。だから、美亜も両親の主義に納得できないことがあっても、二人が大事にしていることは私も大事にしてあげようと思えた。
それに、実を言うと、近所に住んでいる祖母が隙を見ては美亜にハンバーグやエビフライや乳製品を使った料理などをこっそり食べさせてくれたりしていた。お小遣いも内緒でくれ、小学生高学年になるころにはこっそり近所のコンビニで友達と一緒にホットスナックのチキンを買い食いしたりもしていた。給食の牛乳は親の手前、残すくせに、放課後のコンビニでは飲むヨーグルトを一気飲みする姿に友達はぽかんとしていた。
両親に対して罪悪感がなかったわけではないが、学校の保健の授業でも食事はバランスが大事だと勉強した。それが出来ないと病気になるとも習った。
美亜は両親を愛していたが盲信していたわけでも依存していたわけでもなかった。自分の身体は自分で守ったら良い。そう思っていた。
だが、すでに手遅れだった。
身体の根幹を構成するもっとも大事な時期に摂取する栄養が著しく偏っていた美亜の身体は限界を迎えていた。
「いつ、どこで再び骨折してもおかしくない」
そう医師には言われた。
すぐに食生活を改善すること。そうしたとしても骨密度が回復するには年月がかかる。若いからまだ間に合うが、それでも数年はかかる。それまでの期間にまた骨折を起すと、正しく治らずに障害が残るかもしれない。少なくとも二十歳を超えるまでは激しい運動は絶対に控えるようにときつく言われた。
美亜は陸上部を辞めた。日常生活にも配慮が必要になったことで、周りの大人や同級生にも身体のことは知れ渡った。昨日まで陸上部のエースで憧れの対象だった美亜は、一気に同情すべきかわいそうな存在としてクラスで腫れ物のように扱われた。
悔しかった。屈辱だった。やさしい言葉を誰かにかけられる度にイライラした。
委員長と呼ばれる同級生がいた。お下げ頭に眼鏡。個性がないことが逆に個性といった感じのその子は特に懸命に美亜の世話を焼いた。荷物を運ぶ際は頼みもしないのに美亜の分を当然のように持ち、美亜が階段を降りる際はいつも真っ先に駆け寄ってきた。
正直、うざかった。ほっといて欲しかった。
だが、実際、委員長がついていてくれなければ、美亜の学校生活は満足に成り立たないことも事実であった。
美亜の自尊心はボロボロになった。そして、親身になって世話を焼いてくれる委員長に内心で煩わしく思っている自分の醜さに泣きそうになった。
そんな美亜の唯一の心の支えは、三人の友人であった。
シン。ぶっきらぼうな奴だったが、あだ名の通り、芯の通った男子だった。松葉杖をつく美亜を見て、「だからもっと魚くえっつったんだよ。チキンばっか買いやがって」と正面から言い放った。その下手な気遣いのない言葉がなにより美亜には嬉しかった。
シロマ。美亜の身体を心から心配してくれたが、美亜が口に出すまでは決して手を出そうとしなかった。美亜の自尊心を大切にしてくれたのだ。その上でいつでも動けるように遠巻きに美亜を見守ってくれていた。
そして、カンナ。
カンナは小学五年生の時に事故で声を失った。明るく元気で、いつも二人でおしゃべりしていた彼女の身に起きたその悲劇は、美亜にとっても本当にショックだった。カンナはしゃべることが出来なくなった代わりに、美亜の話をいつも親身に聞いてくれた。そして手話を交えたジェスチャーや手帳に走り書きする文面で美亜に共感してくれた。
共感である。それは美亜にとって何より求めていたものだった。お互いに大切なものを失い、日々、同情の眼差しを向けられ続ける二人の間にだからこそ生まれる絆がそこにはあった。美亜はカンナの前でなら本音で語ることができた。時に怒りながら、時に泣きながら、美亜は思いの丈をカンナにならぶちまける事ができた。カンナはいつも穏やかに頷いて聞いてくれていた。
全員が高校生になった。
地元の通える距離の高校はそう多くなかったので不思議なことではない。数少ない選択肢の中では偏差値の最も高い高校ではあったが、全員合格した。シンまで受かったのは意外だった。柄にも無く受験勉強もそれなりにやったらしい。
「俺と離れるのがいやだったんだろ。かわいいやつめ」とシロマはばんばんとシンの背を叩いた。シンは「うっせ。きもいんだよ」とその手を振り払っていた。
まあ、結局、シンは高校受験で燃え尽きたらしく、そこからは一切勉強はしなくなってしまったが。大学に行くつもりはなく、実家の自動車整備の仕事を継ぐつもりらしかったので特に誰も強く言う人間もいなかった。いや、一人。委員長だけは「だめだよ。少しは勉強しないと。これ以上赤点とったら留年しちゃうよ」とシンの制服を引っ張っていた。シンは「うぜえんだよ。どっか行け」と言いながらも、なんだかんだ委員長の指導の下、最低限の勉強はしていた。
美亜はそれを微笑ましく見ていた。美亜の足は随分と回復し、もう松葉杖をつく必要もなくなった。なんならパン屋のバイトを始められるぐらいにはなった。日常生活はほとんど一人で行えるようになり、委員長の手を借りることもなくなった。そうなってから振り返ってみると、委員長には本当に世話になっていたと思う。どこかで恩返しをしなければと美亜は思った。
カンナとの友情は勿論続いた。一年、二年とクラスが離れた際も、夜はよくラインで音声通話をした。美亜が口頭でしゃべって、カンナはテキストメッセージを送る。文章でのやりとりになると途端に小学生時代のように饒舌になるカンナが美亜は嬉しかった。
クラスでの様子を聞くと、何でも同じクラスになった委員長が世話を焼いてくれていて助かっているとのこと。私にシンにカンナにと、委員長は大変だなと美亜は苦笑した。彼女には本当に頭があがらない。
三年生になって奇跡のように美亜、カンナ、シン、シロマ、そして委員長が同じクラスになった。さらにノブと言うお調子者と、アッコというおしゃべりガールも参戦し、一気に毎日が賑やかになった。
特にアッコはうるさかった。いつもぺらぺら何かしらのうわさ話をしゃべっている。陰では「魔法のアッコちゃん」と呼ばれていた。アッコちゃんに情報を与えれば、なんと魔法のように話を何倍にも大きくされ、あっという間に学校中に広まるからだ。そして本人には一ミリも悪気はない。話を大きくする魔法を使った覚えも全くない。無自覚ってこわいなあと美亜は思いながらも、無邪気な笑顔が憎めない不思議な子だった。
そして、美亜がピアスをパン生地に混入させてバイトをクビになったのも三年生の始まりだった。
正直、バイト中に完全に上の空になっていた美亜の責任だった。言い訳でしかないが、心ここにあらずな状況になってしまったのは理由がある。
シロマに告白されたのだ。昔からずっと好きだったと。
美亜は舞い上がった。そりゃあもうテンションが爆上がった。
いや、正直、私も子どもの頃からちょっといいなあとは思ってたけどね。
男子にしては気遣いもできるし? 話聞くの上手いし? 優しいだけじゃなく、冗談も通じるし? なんだかんだ、顔も整ってるし?
女子に人気のわりに全然彼女作んないなーとは思ってたけど、え? そういう感じ? 私のこと、ずっと意識してたってこと?
そんな風ににやつきながら赤く火照る耳をがしがしこすっていたら、側に置いてあったパン生地にピアスがポチャンしたのだ。しかも全く気がつかなかった。本当に言い訳のしようもない。
バイト先の騒動が一段落ついたところで、美亜はシロマの告白を受け入れ、付き合うことになった。シロマの喜びようは大変なものだった。美亜もそれを見て幸せで胸がいっぱいになった。
その日のうちに、美亜はカンナを屋上に呼び出した。親友に、真っ先に報告したかったのだ。
美亜はちょっと照れくさくてカンナとは目を合わせず、赤い顔を手で仰ぎながらペラペラとなれそめを語った。
「いやー。ごめんね。クラス内恋愛になっちゃって。でも大丈夫。学校ではちゃんと節度をわきまえるからさ。カンナは別に変な気を遣わなくても良いから・・・・・・」
そこでちらりとカンナの様子を伺った美亜は、言葉を失った。
カンナが泣いていた。ポロポロとこぼれる涙を必死に両の手で拭っている。
「か、カンナ?」
美亜は慌ててカンナの両肩を持って顔をのぞき込んだ。体調の急変かと思ったのだ。
カンナは身をよじって美亜の手から逃れ、屋上の出口の階段口に向かって走り出した。
そこで思い出した。小学四年生のあの日。牧場で恋バナをしたあの時。
シロマの事が気になると美亜が言った後、カンナは決して自分の好きな人の名前を言わなかった。
カンナも、シロマのことが好きだったのではないのか。
美亜に遠慮して、その気持ちを抑えていたのでないのだろうか。
「カンナ!」
美亜は走った。数年ぶりに走り出した。久しぶりの動作によろめく身体を無理矢理引っ張りながら、階段の途中でカンナの手を掴む。
「カンナ、お願い。聞いて!」
カンナは泣きながら掴まれた手を振り払った。
大した力では無かった。本当に、わずかな力だった。
しかし、同時に足をもつれさせた美亜は、走り込んでいた自らの勢いも相まって宙に浮いた。
カンナが目を見開き、慌てて手を伸ばす。
その手は宙を掴んだだけだった。
美亜は階段の一番下まで転落した。
身体が宙で回転したおかげで、不幸中の幸いと言うべきか、頭部や上半身、腕にも損傷は無かった。だが、美亜の全体重を受け止めてしまったのはあろうことか右足だった。
右足の骨は大きく変形してしまった。おそらく生涯、足を引きずることになると医者には言われた。
美亜は仕方ないと思った。自分の身体について油断していた自分が悪いし、親友の気持ちすら慮れなかった自分には相応の罰だと思った。
両親にも、教師にも、自分が足を滑らしただけだと説明した。決してカンナに突き飛ばされた訳では無いと強く断言した。カンナはこの怪我に全く関係ない。むしろ助けようとしてくれたのだと。
関係者の全員がそれで納得した。加害者などいない。ただの事故だったとそう言えば、変に追及してくる大人などいない。丸く収まる。それぐらい美亜にもわかっていた。
カンナを連れて病室に見舞いに来たカンナの母親にも同じ事を言った。母親はひたすら平謝りし、カンナは泣きながら床を見ていた。
一度も、美亜の顔を見てくれることはなかった。
入院は長引いた。少しでも後遺症を少なくするための処置がいくつもあったからだ。
定期的に委員長が見舞いに来てくれた。甲斐甲斐しく美亜の世話をする委員長に「なんだか懐かしいね」と笑いかけると、委員長も少し困ったように笑った。
シロマは毎日のように病室に通ってくれた。カンナとの事をシロマに相談するのはためらわれたので、美亜は意識的にカンナの話題を出さなかった。そのせいか、ところどころ会話がぎくしゃくした。だが、それにしてもシロマの表情があまりに暗く、クラスの様子を聞いても奥歯にものが詰まったような言い方をする。
5月に入ろうとしていた頃に、美亜はシロマを問い詰めた。そこでシロマが語った内容に衝撃を受けた。
カンナがクラスでいじめられている。そうシロマは言った。
美亜を階段から突き落としたと陰で責められているらしい。実際には無視をされたり、距離をとられたり、邪険にされたりという程度のもので、そこまで酷い仕打ちではないそうだが、カンナがクラスで孤立しているのは確かなそうだった。
「あんた、なにしてんのよ。あんたがちゃんと止めなさいよ!」
美亜は初めてシロマに本気で怒鳴った。そんな状況を黙って見ているシロマが信じられなかったのだ。
「そうしたいのはやまやまなんだけど、立場的に動きづらいんだよ」
シロマは情けない声を出した。「立場ってなによ!」と叫んだ美亜に、シロマが言いにくそうに伝えた事実は美亜を再び愕然とさせた。
クラスにはある噂がまわっていた。
「カンナが好きなのは美亜である」という噂だった。
まことしやかにささやかれるその説は、クラスメイトに問いただされたカンナが、何も反応せずにうつむき通した事で、信憑性をにわかに帯びることになったらしい。
美亜は「そんなバカなことあるわけ」と呟きかけて、口を噤んだ。
本当に無いと言い切れるのか?
カンナはずっと美亜のそばにいた。隠し事なんてなにも無いと思ってた。でも、そんなことわからないじゃないか。
実際、子どもの頃からずっと一緒だったシロマは、つい先日まで美亜への気持ちをひた隠しにしていた。美亜だってそうだ。
それがもし、同性に対する思いであったなら。
あの、本当に大事なことだけは口を噤んでしまうカンナにとってその想いは。
美亜の頬をスーと一筋の涙が流れた。
だとしたら、私はカンナに、なんて無神経なことを。なんて残酷な仕打ちを。
「アッコが、あのバカがまた無責任に広めやがってさ。ノブもあほだから便乗して面白がっちまって。俺は美亜の彼氏だから、変に動くと状況が悪化するかもしれねえし。もうどうしたらいいか、ほんとにわかんねえんだよ」
「・・・・・・シンは? あいつは何してるの」
シロマが首を横に振った。
「よくわからねえ。なんでか何もしねえんだ」
シンが何もしない? あの曲がったことが大嫌いな時代錯誤のヤンキーが、友達がいじめられるのを見て何もしないのか。そんなことがあるのか。
「いや、一度、カンナをからかおうとしたノブをたこ殴りにしてたな。ノブはそれで目が覚めたみたいで、カンナにちょっかい出すことは無くなった。むしろ、反省したのかカンナに気を遣うようになった。それからは男子がカンナをいじめる事はなくなったんだよ。でも」
問題は女子か。
美亜は濡れた頬をぴっと拳で払った。
「わかったわ」
美亜はフーと息を吐いて呟いた。決意を持って。
「私がなんとかする」
数日後、美亜は馬ヶ岳という山の山頂にいた。
この高原は、毎年、三年生の思い出作りの一環とした山登りに利用される。
受験を前に、みんなで一致団結しようという意図のイベントだ。正式な授業ではないのでGWに自由参加で毎年行われる。にもかかわらず、みんなぶつぶつ文句を言いながらも毎年なんだかんだ全員参加するのが常だった。
美亜は医者と両親と教員達に頼み込んだ。このイベントだけは絶対に参加したいと。相談の結果、美亜は養護教諭の車で山頂に先回りし、登り切ったみんなを迎える形で参加する運びとなった。
美亜は前日までに根回しを終えていた。
美亜はアッコを病室に呼び出した。美亜に本気でぶち切れられ、アッコはべそをかいた。そして自分の行動を客観的に見つめ直し、さらに泣きじゃくった。後半は「謝る。カンナちゃんに謝るう」とうるさく、看護師が何人も様子を見に来るほどだった。
美亜はアッコをどうにか家に帰すと、クラスの女子全員に一人一人電話をかけた。私が気にしていないのだからカンナに対する態度を改めて欲しいと諭した。女子達は皆、内心後ろ暗いところもあったのだろう。素直に了承してくれ、山頂で全員揃ってカンナに謝罪する流れにまでなった。
クラスの女子からの謝罪が終わった後は、美亜はカンナと二人で話をするつもりだった。
話すんだ。カンナと。
向き合うんだ。もう、何も隠さずに、全部本音で。
カンナの思いがどんなものであろうと、全て真っ正面から受け止めて、その上で真摯で誠実な答えを返そうと思った。
だって、私はカンナの親友なのだから。
それだけは間違いないのだから。
美亜は穏やかな風が吹き抜ける山頂の草原の上で、車椅子に座り、一人、カンナを待った。
だが、カンナが山頂にたどり着くことはなかった。