【第5章】 高原キャンプ編 21
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悪魔は落ち着いた足取りでやってきた。
チキン、チキンとブーツから金属音を鳴らしながら。
暗闇からゆっくりと近づいてくる。
シンは深く息を吐き、呼吸を整えた。来やがった。
暗闇を歩いて来た男は、まっすぐにリフトの昇降口に向かってきた。まばゆい照明の中にシンの姿を見つけたのだろう。
シンはてっきりこの男は闇に紛れて姑息な不意打ちをかましてくると思っていた。だが、男の足どりは姑息などころか実に誇らしげにだった。まるで満を持して登場した映画の主人公のように。
リフトの照明がまず、皮のブーツのつま先を映し出し、次に足首、膝、と段階的に男の身体を照し出していく。やがて大きなカウボーイハットも白い光の中で露わになる。
ランダル。本名、樽木勝也が照明の中に堂々とその身を投じた。
「やあ。新堂政喜くん。いや、シンくんと呼んだ方がいいのかな」
ランダルは帽子の大きな唾をくいっと押し上げた。
「まさか、リフトを動かすとはね。予想外だったよ。しかも君がしんがりをしているなんて」
シンは沈黙を返した。ランダルは気にすることなくにこやかに言葉を重ねる。
「しかし、君はどうにも口が堅そうだからねえ。尋問するには向いてなさそうだ。君はさっさと倒させてもらって、他のお友達に会いに行こうかな」
シンは腰からパン切り包丁を引き抜いた。
「素晴らしい。一騎打ちだ。まさに西部劇だねえ」
「うるせえ」とシンは吐き捨てた。
そして言う。
「さっさと来やがれ」
ランダルは背中からすっと一本のナイフを取り出した。刃渡り15センチほどの見栄えのするナイフだ。照明の中でギラリと光る。
対して、シンはパン切り包丁を右手に構えた。刃渡りは30センチほど。波刃の刀身をランダルに突き立てるように持ち、右の肩を前方にして身体を斜めにする。
そして死角になった左手に密かにスタンガンを隠し持つ。
このスタンガンはシンが自ら改造を施したものだ。市販の何倍も電圧を引き上げてある。まともに食らわせれば相手を失神させられるほどに。その威力のほどは先の斉藤ナツとの戦いで証明済みである。
突っ込んでこい。
シンは乾いた唇を舐めた。ランダルとの距離は5メートルほど。
差し違えてでも、これをお前に食らわせてやる。
シンはその性格上、地元でチンピラ達に幾度もケンカを売られた経験がある。シンはそれを全て買い、そのほとんどに勝利してきた。
中には素手で勝てないと悟るやナイフをちらつかせてすごむ奴もいた。シンは焦らなかった。刃物を持った人間はその武器を頼りにするあまり、行動が制限され、本来の動きを失うからだ。
斉藤ナツが良い例だった。彼女は銃を向けたまま固まってしまったがために、あっさりとシンに銃を蹴り飛ばされた。慣れない武器を構えるとどうしても隙が生まれてしまうのだ。
事実、これまでシンにナイフを向けたチンピラ達も、皆一様に、バカ正直にまっすぐ突っ込んで来ることしか出来なかった。慣れない武器を手にした人間の動きはあまりに直線的で単純なのだ。動きが読めれば対応は容易い。
だが、ランダルは違った。
まず、一向に向かってくる気配がなかった。
そして、明らかに慣れていた。ナイフが手に馴染んでいた。微笑みを浮かべながら、ナイフを右手の上でくるくると回す。かと思いきや、一瞬宙に放り投げ、易々とキャッチする。まるで魅せるのように。何かのショーのように。
シンは焦ってそのナイフの切っ先を目で追う。どんな動きで接近してくるのか見当も付かない。
そうやってシンの目を釘付けにすること自体が目的だったことに、シンは気がつかなかった。気がついたのは、鈍い音とともに、自分の左手がスタンガンを取り落とした瞬間だった。
シンは何が起こったのかわからず、焦ってその身の左側に視線をやって唖然とした。
左の二の腕に、ナイフが突き刺さっていた。
その非現実的な光景と、突如襲ってきた激痛に、シンは、目を見開いた。
シンは混乱する。ばかな。俺はナイフの切っ先から目を離さなかったはず。
その隙をランダルは見逃さなかった。
地面を蹴り、猛スピードでシンに迫ってくる。その右手に当然のようにナイフが握られているのを見て、シンは自らの間抜けぶりを呪った。
なんで俺は、ナイフは一本なんだと思い込んでいたんだ。
シンが右手のナイフに気を取られたわずかな意識の隙間に、ランダルは左手に隠し持ったナイフを飛ばしてきたのだ。
ナイフ投げ。
ランダルは観客の目を欺くことで長年生計を立ててきた生粋のマジシャンである。
欺し合いでシンが敵うはずもなかった。
シンはうなり声を上げて、パン切り包丁を振るった。ランダルは当然のように頭をかがめてシンの右側にそれ、易々と回避した。だって、慣れない武器を手にした人間の動きはあまりに直線的で単純なのだから。
ランダルがシンの右の死角に回る。シンが焦って振り返る隙に、ランダルはぱっとナイフを左手に持ち替えると、一切の躊躇も無く、シンの右の脇腹に突き刺した。
ガリ。
不自然な音を立て、ナイフの刃が脇腹の上を滑った。ランダルが目を見張る。だぼだぼのTシャツの下に黒い生地が見える。
「防刃チョッキだ。ばーか」
シンはパン切り包丁を捨てると、屈んだランダルの側頭部を蹴りつけた。不完全な体勢からの蹴りだったが、ランダルの半身がぐらりと揺れる。シンはバックステップでランダルと距離を取った。
ランダルがその場に倒れ込んだ。思いの外クリーンヒットだったのか。
手応えはそこまで感じていなかったので、油断はしない。キックボクシングで鍛えたステップで身体を揺らし、次の攻撃に備える。
予想通り、ランダルはすぐに立ち上がった。ぬらりと音がしそうな気味の悪い立ち上がり方だった。だが、その顔から笑みを消し得たことにシンは溜飲が下がるのを感じた。
「やるじゃないかシンくん。正直、見直したよ」
シンはぺっと唾を吐く。
「もう一撃、お見舞いしてやるよ」
ランダルが右手のナイフをギラつかせながら向かってきた。
だが、今度はシンも油断しなかった。
ランダルは左手を腰の後ろに回している。きっとナイフをまだ隠し持っているのだ。
シンが蹴りを繰り出したら、左の隠しナイフで足を切り裂くつもりだろう。
良いだろう。右足一本くれてやる。刺すなり切るなり、好きにしろ。
シンは渾身のミドルキックを右足で繰り出した。ランダルは避けもせずに左の脇腹でそれを食らい、ばっと左脇に抱え込む。そして左手でシンの足を突き刺す。
「シロマの仇だああああ!」
そう叫びながら、シンは自らの左手に突き刺さっていたナイフを引き抜いた。鮮血とともに露わになった刀身でランダルの首筋を狙う。
差し違えてでも、こいつだけは。
そのシンの動きが突如固まった。決死の攻撃が、意志に反して強制的に停止させられる。
手の感覚が麻痺し、掴んだナイフが、ポロリと地面に落ち、地面に突き刺さった。
「・・・・・・は?」
ランダルに右足を抱えられたまま、シンはドサリと地面に座り込む。
シンの右足に突き立てられたのはナイフではなかった。スタンガンだった。
こいつ。いつの間に拾いやがった。
さては、あのとき、わざと倒れ込んで。
「悪いね。シンくん」
スタンガンを足に押しつけられ続け、ガクガクと痙攣するシンに、ランダルはささやくように言った。
「でもね、正義は勝つんだよ」
シンは呟いた。人なつっこい笑顔を思い出しながら。無二の親友の名を。
シロマ・・・・・・
だが、しびれた舌ではそれは言葉にならなかった。
次の瞬間、シンは頭を掴まれ、顎の下にスタンガンを押しつけられた。
自ら威力を高めた強烈な電流に、シンの意識はあっという間に霧散した。