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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第5章 言葉にしたって伝わらない
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【第5章】 高原キャンプ編 18


 18


【樽木勝也 2】


 樽木と妻は離婚した。

 当然のように親権は妻に取られてしまった。妻は樽木をなじった。自分の趣味にうつつを抜かして家庭を蔑ろにし、遂には娘の声を奪って人生を台無しにしたと。泣き叫びながら樽木の頬を何度も張った。樽木は何も言い返すことが出来なかった。

 樽木はキャンピングカーを貸し倉庫にしまい込んだ。

 カウボーイの衣装も全てその中に押し込んだ。

 もう何もかもが遅かったが、樽木は就職先を探した。大学時代に自分をおいて就職した大道芸仲間の先輩を探し出し、地面に額をこすりつけて職を紹介してくれと嘆願した。その勢いに飲まれるようにして彼は会社に樽木を紹介してくれた。

 樽木は今さらのように毎日スーツを着込み、会社に通った。デスクワークなど一度もやったことのない樽木だったが、恥も外聞も捨て、自分より遥かに年下の同僚にぺこぺこと頭を下げながら仕事を学んだ。サービス残業も、休日返上もなんでもやった。

 そこまでしても、妻は樽木にカンナと年に数回しか会うことを許さなかった。それに文句を言えるような立場に、樽木はいなかった。


 牧場の事件から一年。ようやく再会を許されたカンナは見た目は全く変わらないように思えた。声こそ出さないがにこにこと笑顔を絶やさない。樽木はあえてスーツ姿でカンナに会った。カンナは初めて見る父の姿に驚いたようだった。

 樽木は女の子が好きそうなカフェにカンナを連れて行った。できるだけ牧場を思い出さないようなハイソな雰囲気のところだ。美味しそうなパンケーキも豊富に種類があり、カンナはおいしそうに頬張っていた。しかし、二人してパンケーキを食べ終わった後になると、樽木は二人で過ごす場をカフェにしたことを後悔した。

 あれだけおしゃべりだったカンナはもう話す事が出来ない。その事実は当然知っていたが、それが何を意味するのかを本当のところで樽木は理解できていなかった。

どれだけ樽木が話題を出しても、彼女は頷くか、首を横ふるか、微笑むことしかできない。彼女の近況すら聞くことができない。自分はこの子から人としてかけがえのないものを奪ってしまったという事実は樽木の心を改めて握りつぶした。

 その日はほとんど樽木が話し続けた。しかし、どれも新しい会社の話ばかりになってしまい、どう考えても小学生のカンナに面白い話題だったとは言えなかった。だが、カンナはずっと笑顔で聞いてくれていた。


 それから、樽木はカンナと会うときはできるだけ話す時間がないような場所を選んだ。


 あるときは、水族館に行ってアシカショーを見た。水槽を見て回ったときは事前に調べておいた魚の知識をべらべらと話して聞かせた。カンナは興味津々でうんうんと頷いてくれた。動物園が併設されていたが、そのエリアには行かなかった。事故のことをカンナが思い出すかも知れないと思ったのだ。


 あるときは、樽木にはよくわからない流行の漫画の展示会に行った。すごい人だかりだったがカンナは樽木の手をぎゅっと握ってくれた。グッズショップでキーホルダーを買ってあげると喜んで鞄につけていた。


 あるときは、中高生に人気という恋愛映画を見に行った。若い子に人気というイケメン俳優が主演のやつだ。まだ早い気もしたが、カンナも中学生になっていたし興味があるはずだと思った。実際に観てみると主役のイケメンは口ではかっこいいセリフを連呼するが、終始なよなよした頼りない男で、この男の何がいいのか樽木には皆目見当が付かなかった。カンナはちょっと恥ずかしそうにしていた。やはりまだ早かったのかもしれないと樽木は思った。

 その帰りにハンバーガーチェーンの店で夕食をとった。もっと高い店に行こうと樽木は言ったが、カンナはどうしてもここが良いというように樽木の手を引っ張った。

樽木は会社の立場としては臨時採用だったので収入は高くなく、毎月の養育費を送り終えると手元にはほとんど残らなかった。それでもカンナに会う日はできるだけ羽振りの良い振りをしていたのだが、カンナは賢い子だ。それを見抜かれて気を遣わせてしまったのかもしれないと思った。

「カンナ。好きな子とかはいるのか」

安っぽい量産ハンバーガーをかじりながら、樽木は恋愛映画の流れから、ふと、そんな事を聞いた。

カンナは驚いた表情で固まったが、しばらくしてこくりと頷いた。

 樽木は自分で言っておきながら衝撃を受けた。そうか。もう男の子を意識するようになっているのか。中学生だもんな。それは父親としては非常にもやもやとするものがあったが、純粋に娘の成長が嬉しくもあった。

 だが、さっきの映画のなよっとしたイケメンを思い出すと樽木は複雑な表情になった。やはりカンナもああいう男が好きなのだろうか。

「あの、映画のような男の子か?」

 そう聞くと、カンナは慌てたようにブンブンと首を横に振った。その反応が大げさすぎて、案外図星なんじゃないかと疑ってしまうほどだった。もしかしたら樽木の渋い顔からなにか感じとってしまったのかもしれないとも思った。

「パパはな、将来、カンナがどんな男を連れてきても気にしないぞ」

 樽木は明るい声で言った。カンナはじっと樽木を見返す。

「正直、パパとママは、うまくいかなったけどな」

 樽木はそう言ってすっと目をそらした。

 よく考えれば、妻との関係についてカンナに話すのは初めてだ。妻はどんな風に娘に伝えているのだろうか。

 目線の先にあった席には、仲睦まじいファミリーがポテトを分け合って談笑していた。

「でも、カンナと、カンナが選んだ男なら、良いパパとママになれるだろう。かわいい孫が今から楽しみだよ」

 暗い空気になるのが嫌で、そう冗談めかして言った樽木は、前を向いて驚いた。

 カンナはポロポロと涙をこぼしていた。薄っぺらいハンバーガーを握りしめ、うつむいている。 

 樽木は訳がわからず、オロオロとうろたえた。そして自分を恥じた。年頃の娘に恋愛話をするなんてそもそも配慮が足りなかった。その直後に妻との不仲について言及するなんてタイミング的に最悪だ。

 その後は樽木が何を言ってもカンナは反応を返さなかった。


 その日がカンナに会った最後の日になった。


 妻に、「あなたには会いたくないって」と電話口で言われてしまうと、樽木にできることはなかった。

 会社勤めは続けた。養育費を送り続けなければならなかったからだ。会社勤めはきつく、何の楽しみも見いだせなかったが、この苦しさがカンナの喉への罪滅ぼしだと思った。そして、実際に稼いだ金をカンナのために送金するのが、娘との唯一のつながりである気がしていたのだ。

 カンナが高校三年生になった。

 妻がその歳の春に電話口で言った。「卒業式には出てやって」と。

 数年ぶりに娘に会える。樽木はその事実だけでどんなことだって乗り越えられる気がした。会社では地道な努力が認められ、正社員として採用されることも決まった。大人としてちゃんとしている自分を見てもらおう。樽木はそう心に決め、日々の仕事に打ち込みながら再会の日を心待ちにした。


 だが、それから一ヶ月もしないうちに、カンナは死んだ。


 高校の思い出づくりのイベントか何かでクラスで山登りをして、崖から転落した。

 なんでも、柵が老朽化していたそうだ。不慮の事故だったそうだ。不足の事態だったそうだ。痛ましく悲しい、日本中のどこにでも転がっているような不幸な出来事だったそうだ。

 葬式にはクラスメイト全員が参列した。その中には美亜、シン、委員長、ノブ、シロマ、アッコも当然いたが、樽木には誰の顔も判別できなかった。美亜たちも同様だったろう。急激に痩せこけた樽木の顔は、彼を普段から知っている者からしても誰かわからないほど絶望に打ちひしがれていた。

 遺体は損傷が激しかったらしく、棺桶は固く閉じられ、開かれることはなかった。

 白い花の真ん中におかれた女子高生の遺影は、樽木にとって馴染みのない少女に見えた。樽木の知っているカンナはもっと幼いはずだったのだ。

 葬儀の後、彼は妻と数年ぶりにまともに話をした。妻は一つの預金通帳を樽木に渡した。それは樽木が送り続けていた養育費だった。一円も引き出されていなかった。「大学の費用にしようと思っていたの」そう妻は言った。結局、樽木は全く娘と繋がることができなかったことを理解した。

カンナが住んでいたという一軒家に案内された。二階にあるカンナの自室へと妻に連れて行かれる。

 その部屋は樽木が想像したかわいらしい子ども部屋ではなかった。受験を控えた高校三年生の部屋だった。おもちゃを散らかしっぱなしにしていたカンナの部屋とは思えないほどきちんと整頓されていた。

 その部屋の白い壁には、一番目立つようにして、一着の服が飾ってあった。

 リトル・カウガールの衣装だった。

 樽木はその場に膝をついた。

「その衣装と写真は持って帰って」そう嗚咽混じり言った妻は戸をパタリと閉めて階段を駆け下りていった。

 取り残された樽木は、膝立ちのまま、這うようにして衣装に手を伸ばした。

 小さなカウボーイハットを手に取る。自分が十年以上前にあげたものだ。丁寧に手入れされていたのだろう。埃一つ無かった。

 側には投げ縄が飾ってあった。ベルにもらったのだろうか。

 そういえば、投げ技、見てあげられなかったな。

 樽木はその縄を握りしめた。

 いっぱい、いっぱい、褒めてあげようと思っていたのに。

 樽木はボロボロと涙を流した。次々と頬を伝う雫が投げ縄とカウボーイハットに落ちる。

 なんて独りよがりだったんだろう。

 趣味を捨てることで罰を受けたつもりになって。会社勤めをすることが「ちゃんとする」ことだなんて思い込んで。

 娘はこんなに、父親が好きなことを、父の生き方を愛してくれていたのに。

 潤んだ視界で部屋を見渡す。参考書だらけの本棚の上。一つの写真立てが置いてあった。飾ってある写真はその一つだけだった。まるでこれが人生で一番の楽しかった瞬間だとでも言うように。

 一人のカウボーイが歯を見せて笑い、少し大きいカウボーイハットを被った幼い女の子が彼に抱きついて笑っている。

 樽木は、初めて入った娘の部屋で、一人泣き崩れた。




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