【第5章】 高原キャンプ編 15
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ピトリと濡れた布が額に当てられた。その冷たい感覚に私は意識を取り戻して目を開いた。目の前に美亜の顔がある。手には濡らしたハンカチが握られていた。
「あ、痛かった? ごめんね」
私はしばらくぼおっとして、美亜の顔を見つめた。そんな私の顔を見つめて、美亜は潤んだ瞳で言った。
「ごめんなさい。みんな、なんだかパニックになっちゃって」
私は辺りに目をやって自分がいる場所を確認した。キャンピングカーの中だ。ランダルのキャンピングカーのキッチンの隣の壁にもたれるようにしてしゃがみ込んでいる。
立ち上がろうとして気がついた。
両手が拘束されている。それもロープなどではない。手錠だ。銀の大仰な手錠が両手首にはめられており、二つの輪をつなぐチェーンはご丁寧に車体の真ん中にある折りたたみテーブルの柱に通してあった。これでは立ち上がっても、腰の低い老人のような体勢になってしまう。
鍵穴をさりげなく覗くシンプルな作りらしく、その分、頑丈そうだ。暴れても外れそうにない。折りたたみテーブルの柱も太い金属だし、私の力ではどうにもならないだろう。しかも、用心深く、私の足首は両足揃えた形で紐でぐるぐる巻きにされていた。これはタープなどを張る際に使うパラコードだ。細いが、もともとパラシュートのコードとして使用されていたもので、力で引きちぎれるものではない。
「シン達がキャンピングカーの中を漁ったら出てきたらしいの。その、ランダル・・・・・・カンナのお父さんが用意してたのね」
湖畔キャンプを思い出す。あのときは後ろ手に結束バンドで椅子に固定されていた。それが金属の手錠になり、さらに足まで拘束されているのだから、脱出難易度が大幅にあがっている。いいんだよ。そういうネクストステージみたいな展開は。
私は「外してくれ」と言おうとしたが、もごもごと変な音が出ただけだった。
猿ぐつわだ。やれやれまたか。
「それもごめん。叫んでランダルを呼ばれたらまずいってことで。シン達が・・・・・・」
そのシン達はキャンピングカーの外で押し殺した声で話し合っていた。言い合いであると言ってもいい。ノブの興奮した声。シンの低い声。委員長の震えた声。スライドドアが開いているのでよく聞こえる。
「車道からなら確実だ。迷うことなく下山できる」
「でも、車がないだろ」
「キャンピングカーは?」
「キーがない。あったとしてもマニュアルの左ハンドルだぞ。誰が運転できるんだよ。崖から落ちて終わりだ」
「歩いて行けばいい」
「車で30分近くかかる道だぞ。歩いたら何時間かかると思う。美亜だっているんだぞ」
「そ、それに、多分ランダルが待ち伏せしてるよ。外灯もないし、暗闇から襲われたら・・・・・・」
「じゃあどうするんだ! 登山道を下れってか? よっぽど危険だろう。それとも、テントで一夜明かすか? どこから殺人鬼が襲ってくるかもわからねえのに」
どうやら彼らは山を下る方法を模索しているらしい。
「・・・・・・私が足でまといになってるんだよ。こんな足だから」
美亜は自分の足を見つめた。常に引きずっていた右足。
私は黙ってそんな美亜を見ていた。何か言おうにも、猿ぐつわをされているのでどうしようもない。
我に返ったように美亜は私を見た。
「額、ちょっと血が出てるよ」そう言って濡れたハンカチで再び私の額を拭う。細心の注意を払ってくれたのだろう。少し染みたが、そこまで痛むことはなかった。
「これ、ここに置いておくね」
そう言って、美亜はリボルバー拳銃をキャンピングカーの隅の床にゴトリと置いた。
「弾、出なかったし、モデルガンなんだね。ごめん。てっきり私たちを殺そうとしてたのかと思って。私もナツさんのこと撃とうとしちゃった」
私はゆっくり頷いて見せた。私も仕方なかったとはいえ、シンに銃口を向けた。お互い様だろう。
美亜は立ち上がり、シンクの蛇口を捻った。蛇口から水が流れる。美亜は私の血のついたハンカチを洗う。
「ナツさん。ナツさんは、ランダルさんとグルなの?」
美亜がそう言って私を見た。私ははっきりと首を横に振る。美亜は微妙な表情をする。信じてよいものか判断がつかないのだろう。
「・・・・・・私、小学生の時の遠足で牧場に行って、そこでランダルさんに会ってたの。ハンバーガーのことは良く覚えてたから、今回のキャンプも楽しみにしてた。まさか、カンナのお父さんだったなんて」
彼女は少し声を震わせた。
「すごく素敵な人だったのに。まさか、まさか・・・・・・」
彼女は下唇を噛んだ。
「ひ、人殺しだったなんて」
その瞬間、美亜の下半身が揺れた。シンク下の戸棚の扉がいきなり開いて美亜の足を打ったのだ。美亜は驚きの声を上げる。次に、顔の真横にあった引き出しが突然飛び出し、美亜の右耳を打った。カチリと音がして、美亜の大きなピアスがシンクに落ち、そのまま排水溝に消えた。
何事かと美亜がシンクから離れ、辺りを見回す。しかし、誰もいない。誰も見えない。美亜には。
私には見えていた。
カンナがいた。
呆然と立ちつくす美亜の顔や胸を、セーラー服の少女が泣きながらバシバシと叩いていた。しかし、やはり死者と生者の間には大きな隔たりがある。カンナの手はむなしく美亜をすり抜ける。美亜は何も感じないようで、怪訝そうな顔をしているだけだ。
カンナはやがて叩き疲れたかのように動きを止め、そのまま美亜の足下に膝をつくように崩れ落ちた。
美亜は釈然としない顔で辺りを見回して、その後、説明を求めるように私を見た。私は勿論、どうとも反応できなかった。
「美亜! 行くぞ!」
シンがキャンピングカーに顔を出した。
その瞬間、カンナの姿がかき消える。
「え? 行くって?」
「山を下りる。こんなところには一秒だっていられるか」
「でも、どうやって・・・・・・」
シンは「ノブが・・・・・・」と言いかけて、私が目を覚ましているのに気がついたのか、口を噤んだ。私はシンを睨み付けた。
シンも当然睨みかえしてくるかと思ったが、シンは気まずそうに目をそらした。スタンガンはやりすぎたと思っているのかもしれない。そうだぞ。反省しろ。
「・・・・・・ナツさんは?」
美亜の問いに、シンは私の方を見ずに答える。
「置いていく。まだ疑惑が晴れたわけじゃない。銃が本物じゃなかったとしても、俺たちを脅すために持っていた可能性は高いからな」
もっともな推論だった。間違ってはいるが。いや、実際に脅すために向けちゃったし、言い訳できないなこれは。まあ、猿ぐつわされてるから弁解どころかしゃべることすらできないんですけどね。
「で、でも。もしランダルの仲間じゃなかったら、危険かも・・・・・・」
「それは考えた。でも、俺たちは他人のこと心配できる状況じゃないんだよ」
「でも・・・・・・」
「それに、ランダルの目的がカンナの復讐なら、この女は関係ないはずだ。ランダルも何もしねえよ」
実に楽観的だな。シン君よ。私はキャンピングカーの天井を仰いだ。手錠のチェーンがわずかに音を立てる。
人を殺そうと思うような奴が、そんなまともな神経を持っていてくれるかどうか怪しいものだぞ。
とは言え、ここで必死に暴れて上目遣いで連れて行ってくれと訴えてもどうせ聞き入れてもらえない。私は壁にもたれたままシンに連れて行かれる美亜を黙って見送った。
美亜は何度も振り返りながらシンに手を引っ張られながらキャンピングカーを降りていった。
スライドドアが閉められる。車内はランタンの光がほとんど届かなくなり、とたんに暗くなった。
シン達は車の中で二言三言の言葉を交わすと、一斉に歩き出した。ざっざっという足音が徐々に遠のいていく。彼らはランタンを明かりとして持って行ったらしく、光も遠ざかっていった。
ランタンの代わりに、窓からわずかに月明かりが差し、縛られた私の半身を照らす。
足音も話し声も完全に聞こえなくなった。聞こえるのは山頂を吹き抜ける風音だけだ。
私は一人、真夜中の高原に取り残された。
次話は今夜投稿予定です。
よろしくお願いいたします。