【第5章】 高原キャンプ編 5
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「私、大学、受かった。県外よ。一人ぐらしするから」
そう言った私の言葉に、父は一切反応を帰さなかった。書斎のタンスから衣服を取り出してバッグに詰めている。また数日帰ってこないのだろう。
「大学の初期費用、おばあちゃんの残してくれた積み立てから出すわよ。それでいい?」
父は、背中を向けたまま、「ああ」とだけ答えた。
大学名を聞くことすらしなかった。もしかしたら娘が大学受験をしていたことさえ今、知ったのかもしれない。
別にこんなやつのために頑張ったわけでも何でも無いので、特に傷ついたりはしない。
だが、このまま家を出たら、もう一生、話す機会はないのではないかと思えた。だから、私は言った。吐き捨てるように。
「あんたさ、いつまで引きずってんの」
父は無視する。私は続けて言う。
「そんなんだから、母さんは出て行ったんじゃないの」
父の動きがピタリと止まった。
「あんた、一度でも母さんを探した? 引き留めようとした? 何もしてないんでしょ。それなのに何すねてんのよ」
父は、また動きを再開した。バッグのチャックをゆっくり閉める。
「無視すんなよ。都合悪くなったら黙るなよ。こっち見ろよ!」
父は立ち上がった。ゆっくり私の方に振り返る。私は生唾を飲んだ。
だが、父の目は私を見ていなかった。
父は私を避けるようにして通りすぎ、廊下に出る。そして、なんの迷いもない動きで、玄関から出て行った。
私の背後で、ガチャリと玄関の戸が音を立ててしまった。
私は父の書斎を睨み付けたまま動かなかった。
娘の顔ぐらい見ろよ。
ちゃんと向き合えよ。
お前、父親だろうが。
ぽたりと、一粒だけ、涙が床にこぼれ落ちた。
それ以降、私は父に会っていない。
「いらっしゃいませー」
こんなセリフを発するのは大学生の喫茶店バイト以来だ。私に接客は向いてないやとバイトをやめたのを覚えている。まさかこの歳になってまた言うことになるとは。人生、何があるかわからないものである。
私は赤いエプロンを着けさせられていた。エプロンにはでかでかと『ハンバーガーショップ・ウエスタン』とプリントされている。ロゴデザインもネーミングセンスもいまいちだし、添えられている手足が生えたハンバーガーのキャラクターも極限にダサい。ハンバーガーにカウボーイハットをかぶせる感性が理解できない。
「サマーくん! もっと元気よく!」
背後のタープ下からランダルにダメ出しされる。
私はため息をつきながら「いえっさ。ボス」と答えると、開き直って声を張った。
「らっしゃいませー! ハンバーガーいかがっすかー!」
その大声に草原に散らばってテントを設営していた客たちが驚いてこちらを振り返った。そのうちの若者たちの一団が、私の頭にかぶせられたカウボーイハットを見てぷっと吹き出し、仲間内で顔を見合わせた。
ああ? なんか文句あんのかこら。
私が睨み付けると、彼らは瞬時に表情を硬くして一斉に目をそらした。
「サマーくん! 別に怒鳴らなくてもいいよ!」
「すみませんボス」
ランダルはキャンピングカーの側面に設営したタープの下で、昨夜のバーベキューコンロを使ってハンバーグを焼いていた。挽肉の焼ける香しい煙が辺りに漂っていた。ランダルの格好は昨日と同じカウボーイコスプレ。勿論、カウボーイハットも被っているし、私とおそろいのエプロンも身につけている。
「それに、笑顔、笑顔。サマーくんはただでさえ顔、迫力あるんだから」
頬の傷のことだろう。はっきり言うなあ。まあ、変に気を使われるよりはよっぽどましだけど。
私は短期バイトとしてランダルに雇われた。職名はキャンプ場スタッフ。
職務内容はこのハンバーガー店の売り子。
時には受付のスタッフ。
時にはチェックイン時のキャンプ場のルール説明。
時には駐車場誘導。
時にはレンタル品の貸し出し。
時にはキャンプレクチャー。
時には迷子の確保。
まあ、雑用係である。
「いやあ、でもすごいお客さんだあ。さすがはGW」
馬ヶ岳高原キャンプベースは大賑わいだった。
冬はゲレンデに早変わりする草原は、今は青々と芝が生い茂り、沢山のテントが張られていた。ファミリーやカップルが多い。見たところ装備はどれも手軽なものだった。どう見ても宿泊向きではない簡易テントが多い。
「うちは基本的にはデイキャンプのみの利用にしてるからね。ここは車でアクセスできるのが最大の利点だ。来やすいし帰りやすい」
「でも、今日は宿泊客もいるんですよね」
「うん。さっきサマーくんが威嚇してた若い子達だよ。今晩は彼らの貸し切り。なんでも同窓会らしいよ。ま、大体は昼間で帰っちゃって、夜は六人だけになるらしいけどね」
私は改めて若者たちに目をやった。十人ほどだろうか。男女ではしゃぎながら焚き火台やテントを組み立てている。大人数用のテントがふたつ。本格的なブランド品だったが、キャンプ慣れしているのは数人らしく、なんとも危なっかしい設営風景だった。
「あ、そろそろ彼らに車を駐車場に戻すように言ってくれる?」
「ラジャー。ボス」
私は赤いエプロンにカウボーイハットをかぶった馬鹿げた格好のまま、若者の集団にずんずん歩いて行った。若者たちが何事かとこちらを見る。
「すいません。車、荷物を降ろしたら駐車場に移動させてもらえますか」
昨夜は暗くて見えなかったが、キャンプ場の入り口には車が数十台は停められそうな大きな砂利の駐車場がある。荷物の積み込み時以外は、客の車はそこに停めなければならないのだ。
「あ、ごめんなさい。すぐに移動させます」
手前にいた茶髪の女の子が慌てた様子で言った。結構暑い日なのに、長袖のシャツを着ている。日焼け対策だろうか。
彼女は車の側にいる短髪の青年に叫ぶ。
「シンくん! 車! 移動!」
シンくんとやらはタバコをくわえたままじっとこちらを見つめた。そして、車のドアにもたれたまま動かなかった。
「ちょっと! シンくん! 車!」
シンは動かない。じっと私を見ている。
私はやれやれと息をもらすと、シンの元にすたすたと歩いて行った。
「すみませんね。車、動かしてもらわなきゃいけないんですよ」
シンは車のボディにもたれて見下ろすように私を見た。ランダルほどではないが、それなりに身長がある。脱色した短い白髪にピアス。だぼついた厚手のTシャツにダボダボのズボン。これまた暑そうだ。先日会った正樹とは違うタイプの今時くんだな。
彼はだるそうに言った。
「積み荷、まだ降ろしてんだよ」
「もう一時間以上たってますよ。さっさと済ませてもらえます?」
シンは口に含んだ煙を空中にふーと吐いた。
「あんたらの店も駐車してんじゃん」
「ええ。してるわね」
「じゃあ、俺らもいいじゃねえか」
「あなた、今、自分で言ったじゃない。あれは『店』なの。だから停めててもいい」
私はシンの車を眺めた。流行のSUV。随分お高そうだ。
「あなたのお車、お店には見えないわね。どけてちょうだい」
シンはじろりと私を睨んだ。
「お前、さっきからなにタメ口きいてんの」
私もシンの目を見つめ返した。
「あんたがさっきからタメ口だからでしょ。なんで私に敬意を払わない奴に、私が敬意を示さなきゃいけないわけ」
「こっちは客だぞ」
「ルールを守らない奴は客じゃない」
もたれていた車から離れ、シンは私と鼻の頭がぶつかるぐらいに顔を寄せてきた。
さっきの茶髪の女の子が慌てて走ってきた。
「ちょ、シンくんうそでしょ? スタッフさんになにやってんの!」
女の子がシンのTシャツの袖を引っ張って、私から引き剥がそうとする。だが、シンはびくともせず、私を数センチの距離で睨み付け続けた。
その目を気だるげに見返しながら私は言った。
「あと、子どもも多く利用する日中は、当キャンプ場は禁煙となります。さっさと火を消せ」
女の子が今度は私の方をぎょっとした目で見る。
三人の間に沈黙が降りた。
「いいんちょー。どしたー?」
背後から声がした。振り向くと黒髪の女子が小首を傾げていた。シンと似たような全体的にダルンとした格好をしている。綺麗めにまとめられた茶髪女子とは対照的だ。さらに片手には缶ビールを持っていた。すでにほろ酔いらしく、足下がおぼつかない。右足を引きずるようにして身体を揺らしながら近づいてくる。
「美亜ちゃん。シンくんになんとか言ってよ。スタッフさんとケンカするんだよ」
茶髪女子が助かったとばかりに黒髪ショートカットに助けを求める。美亜というらしい。
「あー。シン、朝から超不機嫌だったもんね」
そう言って歩み酔ってくる美亜ちゃんとやらの髪は左右非対称で、左耳は隠れ、右耳が出されていた。私と似たようなヘアスタイルと言えるが、彼女の髪は私より幾分か長く、さらに晒された片耳には傷痕ではなく、大きなピアスが揺れていた。ピアスにも流行にも詳しくないが、私には針金細工の知恵の輪のようにしか見えない。
その知恵の輪女子の美亜ちゃんは少し赤らんだ顔で、私の顔をのぞき込み、「んー」と唸った。
急に見つめられると困惑する。なんなんだよ。
すると美亜という女は突然にはっと目を見開き、叫んだ。
「この人、知ってる! 有名人だ!」
何事かと他のメンバーもこちらを振り向く。おいおい。
「あれだ! あの人! キャンプの人!」
美亜ちゃんは大騒ぎし始めた。他のメンバーもどよめき、近寄ってきた。いや、人に指を差すんじゃない。
「ほら! あの湖のキャンプ場の! 連続殺人犯!」
違う。それは白鳥幸男の方だ。
近くに集まってきた若者の一人が叫んだ。
「え? あの、まだ捕まってない人?」
それは多分、清水奈緒だろう。
「えっとね、思い出すね。えっとねえ」
美亜はこめかみを押さえて考え込んだ。酔っているから思い出せないのか、そもそも中途半端な知識だったのか。
ぱっと表情を輝かせて、彼女は叫んだ。
「思い出した! ナツ! 斉藤ナツだ!」
違います。人違いです。私の名前はサマーくんです。ハンバーガーランド、ウエスタンから来ました。
「え? なんでこんなとこいんの? うそバイト? すごいすごい!」
美亜はそう言うと私にスマホのカメラを向け始めた。いや。モラルとか無いんか。
スマホをたたき落としてやろうかと思ったところで、「美亜ちゃん!」と茶髪女子が叫んだ。
「ダメだよ! 失礼だよ!」
美亜はその声で我に返ったような表情になり、慌ててスマホを下に向けた。
「ご、ごめんなさい。有名人に会ったの、初めてで、興奮しちゃって」
ばつが悪そうに笑う美亜の表情に毒はなかった。本当に悪気はなかったらしい。
「いいよ。別に」と私は大人の対応を見せる。とはいえ、勝手に写真撮っちゃだめだよ。若者よ。
「え? いいんですか? やった!」
そう言うが速いか、美亜は私の隣に滑り込み、私の肩を抱いた。
「え?」
戸惑う私に構うことなく、美亜は周りに呼び掛けた。
「みんなも入ろうよ!」
突然のことに固まっている私の周りを、わっと若者たちが囲む。「ノブ! 自撮り棒持ってなかったけ?」「あるぜ!」とそんな声が聞こえたかと思うと、ノブという黒縁眼鏡の金髪男子が銀の棒を持って走ってきた。あっという間にその先端にスマホがつけられたものが頭上に掲げられる。
いや。一言も許可してないだろ。まじかこいつら。
「委員長もはやく入りなよ! シンも!」
さっき仲裁してくれようとした茶髪の子は委員長と呼ばれているらしい。委員長ちゃんは「え? いいんですか・・・・・・」と私に遠慮がちな目線を送りながら輪に入ってきた。いいわけないだろ。
「シン! 入りなって!」
対してシンは再び車にもたれ、「あほくせえ」と呟いていた。うん。なんだか君が一番まともに思えてきたよ。
「まあいっか。撮るよー。はい。きゃんぷー!」
なんとも安直なかけ声とともにシャッターが下ろされた。
「おっけ!」という美亜の声とともに、ぱっと輪が広がり、私は息をつく。びっくりした。あまりに速い展開に身体が固まってしまい、何の抵抗もできなかった。パリピ怖え。
「うっわ。私、ブッサ。ていうかナツさん、カメラ睨みすぎー」
美亜はカメラロールを確認して実に嬉しそうだ。
「あ、SNS上げてもいいですかー?」
もう、好きにしてくれ。
ブオンというエンジン音とともに、背後でSUVが急発進した。シンが車を動かしたらしい。
「ちょ! シン! 危ない!」
美亜が叫ぶがシンは意に介さない。私は車の動きを目で追った。SUVは荒い運転ながら、まっすぐ指定の駐車場に向かっていった。
やれやれ。
私はなんだか脱力してしまった。ため息をつきながらキャンピングカーに戻る。
背後からノブと美亜の会話が聞こえた。
「美亜、結局あの人、どういう人?」
「あれだよ。キャンプワイチューバー」
それはレイジちゃんねるだ。