【第4章】 星空キャンプ編 終話
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十数年前のあの夏の出来事が、立花春香の人生にどれほどの影響を与えたのか、春香自身にはわからなかった。
でも、少なくとも、斉藤ナツと清水奈緒に出会わなければ、きっと春香はこの年まで生きられなかったのではないだろうか。それは事件を回避できなかったとかそういう次元の話ではなく、もっと人生に関わる話だ。
12歳のあの頃、春香は死なないから生きているだけ。そんな状態だった。相当危険な精神状態だったのだろう。美和子さんが目を離さなかったのも、ことあるごとに精神科に連れて行かれたのも、今思えば当然のことなのである。
だが、あの日、春香は生きるということがどういうことなのかを知った。それは衝撃的な一つの出来事が、という訳ではなかった。様々な出来事が混ざり合った複合的な体験であったと思う。
それは泣きながら公衆電話の下にうずくまる奈緒の姿だったかも知れないし。
ただ、あきらめないこと。それだけを必死に伝えてくれたナツの瞳だったかも知れない。
熊の前に立ちはだかり、自分たちを守ろうとしてくれたあかりの背中だったかもしれない。
それとも小熊を背負う母熊の姿か。
すずを守ろうとする幽霊の叫びだったのか。
なんにせよ、春香はあの日からようやく「生きる」ことを始めたのだ。
十数年ぶりに訪れた長野の山道は、綺麗に整備されていた。
季節がら、辺りの木々は雪に埋もれていた。夜の世界に車のヘッドライトが差し、雪がきらりと輝く。
その幻想的な中の真新しい車道を、春香のSUVが走り抜ける。
雪景色を見ても、春香の脳裏に映し出されるのは、あの夏の森だった。
あの日、3人揃って軽トラの荷台で荷物のように揺れながら走ったのを思い出す。
「懐かしいね。シズカ」
ハンドルを操作しながら、そう呟いてみる。
返事はない。
だって、シズカは私なんだから。
目的の展望台は、山道を車で走らせるとあっという間に到着してしまい、拍子抜けした。決死の覚悟で目指したこの地は、大人になってしまえばあっけなく来れるただの高地だった。
展望台の駐車場からは少し歩かねばならないようで、春香は車のトランクから荷物を取り出した。折りたたみ椅子。ブランケット。望遠鏡。その他諸々がつまったリュック。
えいやと背負って、スマホのライトを頼りに階段を上る。
当時は展望台と聞いて、すごい場所に違いないと勝手に思っていたが、なんのことはない。展望台と名が付いているだけのただの整備された山だ。だが、見晴らしが良いのは間違いないのだろう。頂上の広間には何組かの先客がいた。
大きな天体望遠鏡を持っている人もいれば、三脚に大仰なカメラを設置している人もいる。夜空を嬉しそうに眺めるカップルもいて、なんだか穏やかな気分になった。
他の客からなるべく離れた場所に椅子を組み立てる。
リュックから折りたたみテーブルや小型コンロも取り出し、コーヒーをわかす。たくさん着込んできたし、膝掛けもあるが、山頂が寒くないはずがない。やっぱり暖かい飲み物は欲しい。
日が完全に沈み切り、徐々に夜へと代わっていく空を、春香はコーヒーを片手に見つめた。
ずっと来ようと思っていたし、何度か近くまで来るチャンスはあった。
でも、なかなか踏ん切りが付かなかった。
あの夏の夜、ボロボロに草原の真ん中で見たあの満天の星空。
あれを超える景色など、絶対に見れないと思ったからだ。
でも、最近になって、それはそれでいいかと思えるようになった。
過去の最高を更新する必要なんかない。
なっちゃん。ナオちゃん。
あれ以上の友達には、春香は今日まで出会えなかったし、今後もないと思う。
それはそれでいいじゃないか。そう思えるほどには春香は大人になったのだ。
あの日ほどではない。でも、壮大な星空が、春香の真上に広がっていた。
どれぐらいたっただろうか。春香のスマホが震えた。
誰からかはわかっていたので、ろくに画面も見ずにスワイプして耳に当てる。
「もしもし。お母さん?」
『ごめん春香。今日、やっぱ行けないかも・・・・・・』
立花美和子の申し訳なさそうな声がスマホから流れる。
春香は怒った声を出す。
「もう。出来ない約束はしないでって、いつも言ってるじゃん」
『ごめん。急な案件でさ。なんとかしようとは思うんだけど・・・・・・』
「もう時間的に絶対無理じゃん。そんなことだろうと思った」
そう言いながらも春香は別に怒っていなかった。母は忙しい人だ。きっと、誰か母の助けが必要な人がいるのだろう。
電話の向こうで「立花先生!」と呼ぶ声が聞こえた。
「ほら。呼ばれてるよ。行ってあげて」
『ごめんね! かけ直すから! じゃ』
慌ただしく切られた通話に、春香は苦笑した。
周りの見物人たちの中から、歓声が上がった。
見上げると、春香の目にもちょうど一つの光が光って消えるのが見えた。
双子座流星群だ。
「ようやく来たね。シズカ」
十数年の月日を経て、ハルカとシズカはこの展望台にたどり着いたのだ。
あの日から今日までもたくさんの出来事があった。楽しいこともあれば、悲しいこともキツいことももちろんあった。でも、春香は思った。次々と輝く流れ星を見ながら、春香は思った。
まだまだ、人生は続くだろう。
春香は幸せになれるのか。それはまだわからない。幸せなんてもの大人になってもどういうものなのか、やっぱりわからなかったから。
でも、一つだけ思うのは。
「生きてて、よかった」
また、スマホが揺れた。
母がかけ直してくれたのだろう。また手探りでスマホをスワイプし、流れ星から目を離さずに耳に当てた。
ふと思い出した。必死に耳に押し当てた感覚を。だから春香は微笑んだ。
「こちらスピカ。こちらスピカ」
春香は笑った。ちょっと懐かしくて。
「今日も星空は綺麗です。オーバー」
一際、大きな輝きが、夜空を横切っていった。
【END】