【第4章】 星空キャンプ編 46
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自分がバカなことをしているということは、春香にも重々承知だった。
逃げるべきだった。自分を殺そうとした相手だ。当然、見捨てて逃げるべきだった。
でも、もう、誰も見捨てたくなかった。
例え、春香の幻想の中であったとは言え、春香は一度姉を見捨てた。
もう、あんなことは嫌だ。
銃を持つ手は震えていた。
銃を持っていたところで、勝てる保証なんてない。事実、さっき、すずがいとも簡単に負けたじゃないか。しかも、ちゃんと撃てるかの確証もなかった。
さっきは深く考えずに引き金を引いたが、反動がすさまじかった。銃が手を離れて飛んで行ってしまうところだ。肘と肩に痛みが走っていた。
でも、撃てる。弾を発射するために設計された道具だ。引き金を引けば弾が出る。
銃口の先には熊がいる。
その下にはすずが横たわっている。目を丸くして春香を見つめている。
よかった。まだ生きてる。
熊とすずの背後にはすずのお母さんが泣きはらした顔で立ちすくんでいた。春香に向かって、何度も口をうごかす。何と言っているかわからなかった。
春香は熊に繰り返した。
「お願い。あなたを撃ちたくないの」
この熊だって生きるためにやっているのだろう。それぐらいわかる。
でも、それでも、春香は銃を構えた。
熊が春香を見つめる。静かな目だった。静謐という言葉がふさわしい黒い瞳。
その目を、春香も静かに見返した。
二つの瞳が、じっとお互いを見つめた。
熊が不意に、ふっと顔を背けた。
そのまま背を向け、のそりのそりと4本足で歩き出す。
春香はその背に銃口を向けたまま、唇を噛みしめた。
熊は、例の崩れ落ちた屋根と地面の間の隙間に向かって、一声、短く吠えた。
数秒の沈黙のあと、穴の中から微かな物音がした。
中から、緩慢な動作で、一匹の子熊が出てきた。赤ん坊ほどの大きさの黒い小熊。
恐る恐ると言った様子で、不安げに辺りを見回す。後ろ足を引きずっていた。怪我だろうか、それとも生まれ持った障害か。
小熊は母グマを見つけると、安心したようにその前足にすり寄った。
春香はすとんと、その場に膝をついた。
そうか。そうだったのか。
熊が何度も春香達の前に現れた理由が、ようやくわかった。
熊が春香達を狙って追いかけてきた訳じゃなかったんだ。
私たちの方だ。私たちが、熊の巣穴にどんどん近づこうとしたから。
母グマは、ただ、子どもを守ろうとしていたんだ。
花火を向けられても。クラクションで脅かされても。
母は、命がけで子どもを守ろうとしていたのだ。
春香の頬を一筋、熱いものが伝った。
なんで、人間はできないのだろう。
親が子を守る。
こんな、当たり前のことを、なんで私たちは出来ないんだ。
母グマはひょいっと小熊を背に乗せた。
春香達を一瞥し、ゆったりと森の奥に消えていく。
もしかしたら、この親子のもともとの巣は、キャンプ施設辺りにあったんじゃないか。建設が始まって、ここまで追いやられてしまったのではないか。
そして、また、母子は住処を捨てようとしている。私たちが騒いだから。
「ごめんなさい」
春香は目をつぶった。
ごめんなさい。
たくさん怖がらせて、ごめんなさい。
きっと自然は過酷だろう。
きっとこれからも人間に虐げられるかも知れない。
ただでさえ足が不自由な熊がどれほど苦労するか、春香には想像もつかない。
「がんばって」
無責任だ。そう自分でも思いながらも、春香は口に出さざるを終えなかった。
「がんばって! がんばって生きて!」
私も頑張るから。
小熊が一瞬、こちらを向いたような気がした。
そして、母と子は、暗い森の奥に消えていった。
すずは重かった。
傷だらけの腕を背負うように持ち、春香はすずを引きずって、小道を進んだ。ただでさえボロボロの春香には想像を絶する重労働だった。だが、熊がまた戻ってきてもおかしくはない。あの場に置き去りにすることは出来なかった。全身を奮い立たせて進む。一歩、足を動かす度に、うめき声が漏れる。自然と前のめりになり、真っ暗な地面を見つめる。
「・・・・・・置いていきなよ」
すずが呟いた。
「私はもういいのよ。どうせ・・・・・・」
「うるさい!」
春香は叫んだ。
「勝手にあきらめてんじゃないわよ!」
すずが息を飲む。春香は小道の先を睨み付けながらまた叫んだ。体の奥から絞り出すように。
「私はあきらめない!」
なっちゃんと約束したから。
「だから、あんたも! あきらめんじゃないわよ!」
しばらく沈黙があった。春香の息遣いと、すずの足が引きずられる音だけが暗い小道に響く。
唐突に、春香の肩が軽くなった。
すずが自分の足で地を蹴り始めた。
ほんの十数メートルの小道だった。
その距離を、二人はもつれ合うように、支え合うように、必死に進んだ。
小道を抜ける。
森が終わり、草原に出た。
そのことは地面が草まみれになったことと、やおら視界が明るくなったことですぐにわかった。
草を踏みしめながら、一歩一歩踏み出す。自分の靴の上に汗が落ちるのが見えた。
草原をどれだけ進んだだろうか。ふと、春香は思った。
そういえば、夜なのに、どうしてこんなに明るいんだろう。
春香は、なんとなしに上を見上げて、固まった。
手から力が抜け、すずがその場にドサリと倒れ込む。
「ああ・・・・・・あああ」
春香は空を見上げ、膝をついた。
満天の星空が広がっていた。
満天。その言葉は何度も本で見た。ビデオでも何度も言っていた。でも、その言葉の意味を春香はようやく理解した。
空が、天が、星で満ちあふれていた。
知らなかった。星ってこんなにあるんだ。
知らなかった。空ってこんなに広いんだ。
ずっと、テレビの中だけのものだったから。
ずっと、天窓からしか見れないものだったから。あの枠の中でしか存在しないものだったから。
なんて大きいんだ。なんて眩しいんだ。なんて、なんて・・・・・・
光る砂をまいたように夜空一杯に光る星々。
突然、そんな中の一つの光が、輝きながらすっと線を描き、消えた。
あっと思って目で追った先で、またもう一つ。
視界の端でまた一つ。
あっちでも。こっちでも。
ペルセウス座流星群。
シズカの声が聞こえた気がした。
『星がびゅんびゅん流れていくんだぞ。絶対に綺麗に決まってる』
春香は頷いた。ぼろぼろと涙をこぼしながら。
「綺麗だね」
何度も何度も頷いた。
「お姉ちゃん。綺麗だね」
あふれる涙が邪魔をする。それが嫌で、必死で、両手で目を拭う。
「綺麗だね。綺麗だねえ。お姉ちゃん」
あふれる涙を拭うのが、追いつかなくって、どうしようもなく視界がぼやけた。
でも見えた。たとえ目をつむったって見ることが出来た。
だって、こんなにも近い。
姉の手が、春香の肩を抱くのを感じた。
流れ星は輝き、線を描く。
姉妹の上を流れ星が通り過ぎていく。
いくつも。いくつも。いくつも。
流れ星は輝きながら、空を駆け抜けていった。