【第4章】 星空キャンプ編 41
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リーダーネームすず、本名、玉城ベルが幼少期を過ごしたのは、小さな小さなアパートの一室だった。北向きで、建物に挟まれ、日中でもほとんど日光が入ってこなかった。
家族は母一人だった。母以外の親族には会ったことがない。
ケンカしちゃったの。母はそう言った。母は写真の類いを一切持っていなかったので、きっとベルだけを連れて実家を出たのだろうと推測できた。母のルーツをなんとなく感じさせるのは一つだけ。母がレシピなしで唯一、作ることが出来る、ちょっと味のうすいゴーヤチャンプルぐらいのものだった。
母はやさしい人だった。
そしてそれはある意味、お人好しな人だとも言えた。友達に勧められたからと、変な絵やら健康食品やら、お守りやらが四畳半の部屋に所狭しと置かれていた。きっと、それが良い物だとは母も思っていなかったに違いないが、それでも、その「友達」とやらの頼みを断ることの方が母は嫌だったのだろう。相手を傷つけるぐらいなら、自分が傷つく。母はそういうタイプだった。
母はいつも夜に働きに出ていた。別にそれは構わなかった。むしろ、日中、いつも一緒にいられるのがベルは嬉しかったから。
母はいつも言っていた。夜、私がいない間に部屋を出ちゃダメ。誰かが来ても返事しちゃダメ。それはお化けだから。お化けは怖いんだから。とって食べられちゃうんだからと。
母はベルを危険から遠ざけたいときはこうして怖がらせようとした。正直、それは大体がベルにとって空回りしていたが、ベルも別に母の言いつけを破ろうとは思わなかったので、いつも気を利かせて怖がった振りをしていた。
母はベルの事を大層かわいがっていた。古い化粧台の鏡の前で、自分の膝にベルを座らせて、茶色い髪を撫で、色素の薄い瞳を鏡越しにのぞき込んで微笑んだ。
「ベルはかわいいね。お母さんに似てなくて、お母さんうれしい」
父の存在をベルは知らない。
自分の外見から、父が外国人であることはわかっていたが、母に尋ねるとなんとも曖昧な話しか帰ってこなかった。母曰く、父はアメリカ軍人で、母と結婚し、ベルが生まれたあとすぐにイラク戦争で戦死してしまったと。しかし、聞く度に細部が変わった。父が死んだのはベトナム戦争だと言ったこともあったし、テロで死んだと言うこともあれば、事故に巻き込まれたと言った日もあった。
つまり、母は父に捨てられたのだろうと、ベルは子供心に理解した。
「ベル。あなたはちゃんと生きてね。お母さんはちゃんとできない人だから」
それが母の口癖だった。
母は確かにちゃんと出来ない人だった。掃除も洗濯も料理もどう見ても人並み以下だったし、夜に稼いできたお金も計画的とはほど遠い使い方をしてしまい、いつも家は貧乏だった。
家事はそのうち、ベルがやるようになった。掃除も、洗濯も、料理も、幼いベルがやった方がよっぽどましだったから。
そんな時、母はベルを抱きしめて言うのだ。
「ベルはちゃんとしてるね。えらいねえ。ごめんね。こんなお母さんで」
毎日の食事はそれはもう質素な物だったが、ベルの誕生日にはいつも母は近所のファミレスに連れて行ってくれた。なんでも頼んでいいと言ってくれたが、家計が厳しいことをよくわかっているベルはメニューの前でいつも迷った。高いのは頼んじゃダメだ。かといって安すぎるのを頼むのも、母が悲しむのが目に見えた。だから、いつもこれが好きなんだと言い張って、そこそこの値段のオムライスを頼んだ。母は本気でベルがそれを好きなのだと信じ込んだようで、喜んで二つ注文した。
本当はハンバーグの方が食べたかったのだが、ベルは母と一緒に食べれるのなら何でもよかった。
ベルの誕生日は8月18日で、近所では毎年、夏祭りが行われていた。誕生日プレゼントはそこのリンゴ飴だった。別にリンゴも好きだったわけじゃない。大きいから、母と半分こ出来るのが好きだった。
小学校に上がったベルは、一つのコンプレックスに悩まされた。他でもない、自分の外見である。
どう見てもハーフだとわかる外見の上に、ベルという名前。会う人会う人に、「英語教えて」だとか、「どの国から来たの」だとか質問された。当然、ベルは答えられなかった。英語なんて話せるはずがないし、自分の出自なんか知るよしもなかった。その時ばかりは、好きなディズニーアニメのヒロインの名前をつけた考えなしな母を憎んだ。でも、それを母に言うことはなかった。母が浅はかで愚かなのは、きっと母のせいではないから。
中学に上がる頃には、家計は全てベルが管理するようになっていた。部活動には参加せず、その空いた時間は年齢をごまかしてアルバイトをして、生活費の足しにした。
母は相変わらず、「友達」にだまされたり、利用されたりしていたが、大事になる直前でなんとかベルが阻止した。その度に母は泣いて謝ったが、すぐにまた似たような事態に陥った。ベルは別に怒らなかった。もう慣れっこだったのだ。
同級生が高校受験について相談し始めた頃、ベルはまた憂鬱になった。ベルの家庭環境ではどうせ高校など行けない。ベルは中学卒業と同時に働くつもりだった。
そんなベルにチャンスが回ってきた。
ベルの通っていた中学に、アメリカへの留学斡旋の案内が来たのだ。なんでも、子ども達の未来を広げるためにだとかなんとかで、どっかの企業が企画したものらしかった。アメリカの高校に3年間、無償で通うことが出来る。ホームステイの費用も、現地での費用経費も全て出してもらえるという。ベルの中学校から一名。学校は希望者の中から日頃の態度や成績を見て一名を選抜すると発表した。
ベルは死に物狂いでその枠を狙った。自分のコンプレックスから、この貧しい環境から抜け出す最初で最後のチャンスだと思ったからだ。
もともとベルは真面目な性格であったため、そこそこに成績はよかった。そこに、膨大な勉強時間の上乗せでぐんぐん成績を伸ばした。学校が終わればすぐにバイトに行って、帰るとすぐさま勉強を開始。毎日数時間睡眠が続いた。母も応援してくれた。不器用な手で形のいびつなおにぎりの夜食を作ってくれた事もあった。全く味がなくておいしいとは言えなかったが、ベルは嬉しかった。
ベルは中学3年生のほとんどの期間を校内成績トップで駆け抜けた。
ベルは夢見た。諦めかけていた高校生活を、届かない世界だと思っていたアメリカで叶えられるのだ。胸が高鳴った。
結果として、ベルは選ばれなかった。
選ばれたのは、成績はそこそこの、テニスの県大会で優勝したスポーツ少年だった。
ベルは、別にその青年を恨む気にはならなかった。自分が選ばれなければ、誰かが行くことになる。仕方のないことだ。
ただ、ベルが部活に行かずにバイトで生活費を稼ぎながら睡眠時間を削って勉強した毎日よりも、少年が親の金で買ってもらったラケットでテニスの大会に優勝した記録の方を、大人達が評価した現実に、なんというか、うんざりした。
ベルは数日、家に引きこもり、その後、バイトに精を出した。中学校には行かなくなった。もう行くだけ嫌な思いをするだけだったからだ。
それから数ヶ月後だった。8月18日。珍しく家で誕生日祝いをしたいと母が言い出し、なんとも不格好なオムライスを作ってくれた。ベルがもぐもぐと少し卵が固いオムライスを口に運んでいると、母がアメリカ行きのチケットを差し出した。
母がなにやらこそこそやっているなとはベルも思っていた。だが、まさかこんな物が出てくるとは思わなかった。
母は個人でベルの留学を申し込んだらしい。留学コンサルタントと契約し、ホームステイ先の確保と、アメリカの高校への編入手続きも済ましてもらったらしい。
「お金はどうしたの」と詰め寄るベルに母は笑った。
「お母さんにだって、へそくりぐらいはあるんだよ」と。
ベルはその母の申し出を断った。
ベルが今回、留学の制度にこだわったのは、無料だったからだ。母のなけなしの、恐らく虎の子のお金を使って自分だけアメリカでの高校生活を満喫しようとは思わなかった。
今すぐ契約を破棄して、お金を返してもらおう。そのお金で地元の高校に通わせてくれたらいい。そう言った。
母は怒った。あんなに怒った母は初めて見た。
「ベルの夢なんでしょ! アメリカに行くことは! お母さん知ってるもの!」
思えば、ベルは母の前で何かをしたい、何かが欲しいとはほとんど言ったことがなかった。母は嬉しかったのだろう。ベルが何かをしたいと言ったことが。だから、なんとしてでも叶えたいと思ったのだろう。
母は、最後は包丁まで持ち出した。
「ベルがアメリカにいかないと、お母さん、何するかわからないよ!」
母は泣いていた。
ベルにはわかった。いつものあれだ。ベルを危険から遠ざけたいとき、母はこうやって嘘をついて、怖がらせようとするんだ。ベルを守りたいから。
そして、母は、今、自分から、自分自身から娘を遠ざけようとしている。ちゃんとしてない自分から。娘にはちゃんとして欲しいから。
震える手で持った包丁をベルに向けられず、自分の方に刃先を向けているのが、なんとも母らしかった。
母は不器用な人だったのだ。
空港で別れる際、母は何度も何度もベルに手を振った。ちょっとベルが恥ずかしいくらいだった。
「ちゃんと生きて! ベル!」
そう叫んで。
大げさだなあ。3年で戻るのに。
そう思ってベルは笑った。
アメリカのテキサス州は、元々ベルが目指していた高校がある土地ではなかった。別にそれはよかった。学校名や州にこだわりがあったわけではなかったから。
問題は、ベルが行くはずだった高校の名簿に、ベルの名前が全くどこにもなかったことだ。
ホームステイ先の牧場で、ベルは高校からの来るはずの連絡を待っていた。しかし、一向に連絡がない。しびれを切らしたベルはホストファミリーに連れ添ってもらい、自ら高校に出向き、事の次第を知った。ベルの入学手続きなど、一切されていなかった。
ベルは資料をひっかき回した。学校名、日取り、全て合っているはずなのに。なんの手違いだろうか。
ベルは慌てて留学コンサルタントに電話をした。
留学コンサルタントは穏やかな笑顔の中年男性で、日本で出発前にベルの質問の全てに丁寧に答えてくれた、穏やかで信頼できる人だった。その人はこんな時のために、連絡用の番号もいくつも渡してくれていた。
だが、どの番号にも繋がらなかった。
そこで、ようやく、ベルは詐欺にあったことを理解した。
聞いてみると、ホームステイ先にも、半年分の費用しか払われていないとのことだった。
つまり、留学エージェントを名乗るあの男がやったことは、留学ビザの発行と、ホームステイ先の半年分だけの契約。行きの飛行機チケット。それだけだ。
現地のエージェントが留学先で渡してくれると言っていた諸々の費用は、もちろん全て持って行かれた。
ベルは一文無しで、外国の地にほっぽり出されたのだ。
その日、ベルは母に電話した。
母は上機嫌で、アメリカの生活についてあれこれ聞いてきた。娘にカタカナの名前を付けるぐらいだ。母自身も海外に大きな憧れを抱いていたのだろう。その地に、自分の力で娘を留学させたことが誇らしくて仕方がないのだ。
ベルは恨んだ。母をだました詐欺師を。コロッとだまされた母の人の良さを。そして、それに気が付かなかった自分の愚かさを。
そして、いつになくうれしそうな母に、結局、真実を伝えられない自分の弱さを。
ベルは、アメリカで生活を始めた。
一週間おきに電話をする母には、さも高校生活を楽しんでいる振りをして、実際はホストファミリーの牧場を手伝っていた。
ホストファミリーは良い人たちだった。
ベルの状況に心から同情してくれ、自分たちだって豊かではないのに、牧場の手伝いをしてくれるなら、いつまでもいてくれていいとそう言ってくれた。
ベルは今からでも入学できる現地の学校はないかと探したが、どの学校も当然、入学金が必要で、一文無しのベルにはどうしようもなかった。
運の良いことに、牧場の奥さんは元教師で、ベルに一生懸命英語を教えてくれた。もともと勉強家であるベルは、一年が経つ頃にはネイティブとそう変わりない英語力を身につけていた。
だが、学校に通っていない以上、学歴には全く反映されない。所詮は気休めだった。
そんな中でも、現地で友人らしき存在も出来、男友達らしき存在とデートしたり、地区の射撃大会で入賞したりしながら、ベルはようやく青春らしきものを謳歌し始めた。
その矢先、母からの連絡が途絶えた。
初めは、また電気でも止められて、電話が出来なくなったのかと思った。
しかし、手紙を送っても返事が返ってこない。ベルは不安になった。
ホストファミリーが飛行機代を工面してくれた。
必ず返すと言うベルに、彼らは「返さなくていい」と首を振った。
「その代わり、また牧場をいつでも手伝いに来ておくれ」
日本に戻ったベルは、母の死を知った。
過労死だった。
母にへそくりなどなかったのだ。よくよく考えれば当たり前だ。大金を使わずに貯めておくなど、母に出来るわけなかったのに。
母は、詐欺師に渡すためのお金を捻出するために、多額の借金を背負っていた。否、背負わされていた。きっと、その違法な高利貸しも詐欺師と繋がっていたのだろう。こうして弱者は一度目をつけられたら、包囲され、骨までしゃぶり尽くされるのだ。
母はそのなんの意味も無い借金を返すために馬車馬のごとく働き、そして死んでしまった。ベルが呑気に射撃大会なんかに参加している間に。
ベルは心から後悔した。なぜ、自分は母の側を離れてしまったのだろう。母が一人で生きていけるような人間ではないことは、娘のベルが一番知っていたはずなのに。
だが、ベルには喪に服している暇もなかった。
ベルには母が残してしまった多額の借金が背負わされたのだから。
帰国して母の死を知った直後に、ベルは手をこまねいて帰国を待っていたクズどもに囲まれた。体を売るか。臓器を売るか。そんな話をされた。
もう、どうでもよかった。唯一の大切だった人は死んだのだ。もう、どうにでもなれば良いと思った。
そんな時、田代という男が現れた。
田代はベルの英語力に目をつけた。
「裏の社会も、グローバル化が大事だからな」
そう言って笑う田代は自分の部下になれと言った。借金を肩代わりしてやるから、俺の手足となって働けと。
投げやりになっていたベルは一つだけ条件を出した。
「母をだました詐欺師を見つけ出して欲しい」
田代は笑い転げた。「ますます気に入った」とそう言って。
田代はものの数日で詐欺師を捕まえてきた。ベルの目の前にその男を引きずり出し、「話がちがう!」と叫ぶその男を、田代はその場で半殺しにした。
それを見ても何一つ、ベルの溜飲は下がらなかったが、一つの区切りにはなった。
田代の後ろにつくようになって、数年。
ベルは自分たち親子と同じような境遇の人を何人もだました。
私がやらなくても、どうせ別の誰かにだまされるのだ。そう自分に言い聞かせて。