【第4章】 星空キャンプ編 39
39
向こう側の二段ベッドまで吹き飛んだすずは、ひどい有様だった。
とっさに両手でガードできたらしい。顔の火傷は大したことのないようだったが、両の前腕にはひどい火傷が出来ていた。完全にぼろきれと化しているパーカーの長袖の生地がなかったら目も当てられなかっただろう。
足首を掴まれたまま後ろに倒れ込んだせいだろう。向こう側のベッドの縁にもろに頭をぶつけたらしく、意識が遠のいているようだ。目をつぶってうめき声を上げている。
「春香。大丈夫?」
ベッドの0段目から這い出てきたあかりはそう言って、春香の顔をのぞき込んだ。
呆然と花火の筒とガスバーナーを握りしめていた春香はこくこくと頷いた。慌ててバーナーの火を止める。
「あかりさんこそ、大丈夫ですか。肩・・・・・・」
「うん。かすっただけ」
春香が近くにあったシーツを適当に破り、あかりの肩に巻き付け、ぎゅっと結び目を作ったときだった。
「ねえ。どんな気分?」
すずのしわがれた声が響いた。
あかりが身構え、春香も慌ててガスバーナーを掴む。
だが、すずは立ち上がる気力はないようだった。
ベッドの縁にもたれ、じっと春香を見ている。
「おめでとう。これであんたは生き残れるわね」
すずはため息をついた。
「まあ、そのせいで私は依頼主に殺されるでしょうけど」
あかりが「知ったことじゃないわ」と吐き捨てるが、すずは聞いていない。ただ、春香だけを見ていた。
「私も、そこまで詳しくないけどさあ。あんたの父親。人間性はともかく、すごい人ではあるらしいよ。現役時代は抜本的な政治改革をいくつもやって。新制度もどんどん作って、それで救われた人も多いらしいわ。あの人の悪事が表に出ないのって、そう言う側面もあったのかもね。日本を救える政治家は立花浩一郎だけだ。そう言われてたらしいじゃん」
そんなの。そんなの私には関係ない。
「ねえ。あんたが生き残るより、大臣さんが政権復帰した方が、より多くの人が助かるかもよ」
あかりが「行こう春香」と春香の手を引いた。
春香は頷いて、すずに背を向けた。
その背に、すずは叫んだ。
「あんたの、精神科の資料見たわよ! ずっと自殺願望を抱えてるって書いてあったわ」
春香はピタリと足を止めた。
「何? もしかして、双子の姉が自分のせいで死んだと思ってるから? 自分だけ生きてるのが申し訳ないから? それも書いてあったわ。いもしない姉の声が頭の中で聞こえるって。完全におかしくなってんじゃん」
春香は振り返ってすずを睨み付けた。
「春香。よしな。敗者の戯言だって」
そう言うあかりを振り切って、すずの前に立つ。
「別に、あなたに信じてもらわなくたっていい。でも、シズカはずっと私を支えてくれたの。お姉ちゃんの悪口を言うなら・・・・・・」
すずは笑った。乾いた声で。
「だからさ。そのお姉ちゃんって誰よ」
なにを言っているんだろう。この人は。
「だから、シズカ・・・・・・」
次の一言に、春香は固まった。
「何言ってるの。あんたは一人っ子よ」
音が消えた。
開いた窓から聞こえていた虫の声も、風の音も。
すずの声だけがうつろに響く。
「あんたは、立花大臣と愛人の間に生まれた一人っ子。姉妹なんていない。記録を見たから間違いないわ。あのマンションに住んでいたのは、あんたの母親と、あんただけ」
え?
そんなわけない。
私たちはいつも一緒だった。
確かに、母の料理も、父のお土産も、考えてみれば一人前だった。
でも、それは、私たち二人が、ケンカしないから。仲良く二人で分けることが出来るから。
シズカの顔を思い出した。笑っている顔。泣いている顔。私とそっくりの、まったく同じ顔の双子の姉。
「救急隊員が駆けつけたとき、部屋にあったのは、割れたテレビ、アニメのDVD、それから、子ども部屋に置かれた、大きな姿見の鏡」
思い出す。シズカと手の平を合わせたこと。
額をくっつけ合ったこと。
いつも、シズカの肌はひんやり冷たかった。
そう。まるで、鏡みたいに。
あかりが叫び声を上げてすずの胸ぐらを掴んだ。
「黙れ。黙りなさい!」
だが、すずは止まらなかった。やけくそになったすずは涙をこぼしながら叫んだ。
「ねえ! 鍵のかかった寝室。何があったと思う? 死んでたのは、誰だと思う?」
あかりがすずの顔面を殴りつけた。すずは床に倒れ込む。
だが、春香は悟ってしまった。気づいてしまった。思い出してしまった。
あのマンションの一室。子ども部屋。
母が最後に子ども部屋に鍵を閉めたとき、リビングから物音がしなくなった。春香は、母がまた外出したと思った。
救急車の車内。
点滴のチューブに繋がれ、半分気絶していた春香が聞いた、救急隊員の会話。
『もう一人の方はどうだった』
『とっくに手遅れだったよ。死後、何日も経ってる』
死んでいたのはシズカじゃない。母だったのだ。
私に姉なんていない。
シズカなんていない。
自分と似た名前の少女がアニメに出てきたから、その名前をもらったんだ。
一人ではあまりに寂しかったから。
一人ではあまりにつらかったから。
私は、初めから、一人だったんだ。
春香はゆっくりと、その場に膝をついた。
あかりが駆け寄ってくる。
なにか、大事な糸のようなものが、自分を支えていた、引っ張っていた何かが、プツンと音を立てて切れた。
そんな気がした。