【第4章】 星空キャンプ編 38
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勝負は一方的なものとなった。
田代の拳は届く前に全て打ち払われ、白鳥の斬撃とも言うべき鋭い攻撃はことごとく田代のガードをすり抜け、次々と田代の体を打ち据えた。
もう、右目の死角がどうとか、そんな話ではなくなっていた。
「はっはっは! この僕に丸腰で挑むなんて良い度胸ですね!」
うるせえ。このナルシストの変態が。
しかし、リーチの差は如何ともし難かった。
田代はこれまでに長物を持った相手との戦闘経験がなかった訳ではない。しかし、ここまで洗練された技術を持つ者が扱う武器に対抗できる気がしなかった。
どうする。一旦引いて、こっちも武器を取りに行くか。
しかし、そんな隙を白鳥が与えるはずもない。
何の容赦もなく、急所ばかりに的確に打ち込まれる打突に、田代はもう自分に大した時間が残されていないことを悟った。左目の視界もかすみ始めた。
田代は覚悟を決めた。
自分の強みが殺されたとき、やることは一つだ。
自分の土俵に相手を引きずり落とす。
田代は「うおおお!」と叫び声を上げながら白鳥に突進した。
白鳥が驚きながらも的確な一撃を田代の首筋に打ち込む。
これが日本刀だったら、田代の頭は胴体と別れを告げていただろう。
しかし、それはあくまで木の棒でしかなかった。田代はすさまじい痛みに意識が持って行かれそうになりながらも、腰にしがみつく形で、白鳥ごと倒れ込む。予想外のタックルに驚いた白鳥の手から離れたクヌギの棒が音を立てて転がっていった。
よし。こうなれば俺の土俵だ。田代は砂利の上で勝利を確信した。武器を持った相手にこの形まで持って行けば、確実に勝てる。それが田代の経験則だった。
だが、相手はそこらのチンピラではなかった。
格闘技有段者の白鳥幸男であった。
ぬるぬるとした動きであっという間に田代の下を抜け、田代の右手に蛇のように腕を絡ませた白鳥の動きに、田代は愕然とした。そして、肘関節をいいようにひねられながら、思った。
寝技は俺の土俵じゃない。こいつの土俵だ。
何で気が付かなかったんだ。知っていたはずなのに。木の棒1本が脅威になることも。寝技では叶わないことも。
俺の判断はことごとく悪手だった。いつもならこんなミスはしない。いつもの俺なら、自分のスタイルを忘れず、拳だけを信じて、用心深く、徹底的にやれるのに。なんでここに来て俺は。
そこで、田代は気が付いた。たくさんの切羽詰まった弱者を食い物にしてきた田代は悟った。
ああ。今回は、俺が焦ってたんだな。
そりゃあうまくいかねえよな。
次の瞬間、田代の右肘に激痛が走った。
白鳥の関節技が決まったのだ。
「まいった! まいった!」
田代はもう片方の手で地面を叩いた。タップアウトだ。格闘技において、これは完全な降参を意味する。絞め技や関節技をする者は、すぐさま技を解かねばならない。
だが、相手は白鳥幸男であった。
緩めるどころか、徐々に角度を詰めてくる。田代の関節が悲鳴を上げた。
「白鳥! てめえ!」
「あ、田代さん、すみません。このまま折っちゃいますねー」
まるで髪型を決める美容師のようなその明るい口調に、田代は戦慄した。
こいつ、ほんとに折るつもりか。
激痛に田代は叫び声を上げた。少しずつ少しずつ負荷がかけられていく。
こいつ、愉しんでやがる。
田代は涙でぼやけた左目であたりを必死に見回した。
誰か。誰か助けてくれ。
視界の隅に、恐る恐る近づいてくる少女が見えた。
助かった。
「嬢ちゃん! 嬢ちゃん! 助けてくれええ!」
少女はゆっくりと近づいてきた。田代の顔をのぞき込む。
「助けてくれえええ! 嬢ちゃん!」
きっと、少女が立花春香であったら、迷わず白鳥を止めただろう。
斉藤ナツであっても、最後の最後には情けをかけたに違いない。
だが、その少女は清水奈緒であった。
少女は小首を傾げた。
「え? 何で?」
その瞳に、田代はあまりに奥深い闇を見た。
ああ。そうか。この嬢ちゃんも、こっち側か。
「田代さん。いいですか。今後、僕の過去のことを少しでも誰かに話すような事があれば、僕はあなたを見つけ出します。外国に行こうが、どこに逃げようが、絶対に見つけ出します。田代さん。いいですね」
「わかった! わかったから!」
白鳥が微笑んだのがわかった。
「じゃあ、折りますね」
田代は叫んだ。
「白鳥いいいいいいい!」
鈍く乾いた音とともに、田代は失神した。
カチン。
わずかな金属音がしたのみで、マカロフはすずの手の中で沈黙した。
引き金を引いたすずは事態を悟った。
ジャムった。
すずは慌てて銃を調べる。スライドに異常はない。カチリとスライドを下げると、撃鉄が下りているのに、薬室の中の弾が微動だにしていなかった。つまり、弾薬が発火しなかったのだ。
銃本体の問題ではない。弾の問題だ。保管方法が甘かったのか。田代の野郎。
すずは舌打ちしてスライドを力一杯引き、問題の弾を手動で排出した。次の弾が薬室に送られる。
さっと廊下に銃を向ける。
いない。二人とも。
さっきまで廊下に転がっていた二人はすずが拳銃の整備に気を取られた隙に姿を消していた。
どこに消えた。
かつかつと廊下を進む。緑の蛍光灯に照らされた廊下は得も言われぬ不気味な雰囲気を漂わせていた。耳にキーンと耳鳴りを感じた。イヤーマフもなしで、屋内で何度も発砲したのだ。耳が若干おかしくなるのも当然だろう。
3階で2発。階段で1発。この2階で2発。
あと、3発。
二人が倒れた場所に着く。床には、あかりの肩にかすった際に飛び散ったであろう血の痕があった。
廊下の先に目をやる。血痕はない。
あかりは銃を構え、側の宿泊室の一つのドアを片手で開け放った。
真っ暗だ。
銃を両手で持ち直し、ゆっくりと部屋に入る。両側に二段ベッドが並んでいる。
いた。
立花春香が、二段ベッドの一段目のマットの上で震えていた。
すっと銃口を向ける。
春香が「ひっ」と声をあげる。
「撃てないと思ってる? 私たちが欲しいのはあんたの心臓だけ。なんなら足に撃ち込んでもいいのよ」
慎重に、春香の前に移動する。春香はマットの上に両膝を抱える形で座っていた。銃口をその向こうずねに向ける。
「手を上げなさい」
春香がおびえた表情で両の手の平を上げた。そりゃあ怖いだろう。春香はさっきまでの5発で銃の威力を嫌ほど見ている。そんな物が自分の足に向けられているのだ。
「あかりは?」
すずの問いに、春香はおそるおそる指を部屋の奥に向かって指した。
見ると、窓が開いている。窓から逃げたのか。
「なるほど。置いていかれたの」
すずは春香を見つめた。緊張しているのだろう顔がこわばっている。
確かに、すずの一番の目的が春香である以上、春香を残して逃げ出すのが一番生き残る確率が高い。あかりは肩を怪我しているはずだし、戦意を損失。この土壇場で春香を見捨てて逃げ出したとしても、人間の心理として不自然ではない。
「なめないでよ」
すずはそう言うと、ベッドの二段目に銃口を向けた。
二段目に続くはしごにわずかに血痕が付いている。あかりは上だ。
春香が「やめて!」と叫ぶ。
すずはベッドの2段目に向けて、銃を発砲した。1発。下から打ち込まれた弾丸は易々とマットレスを打ち抜き、貫通した。
そこから数十センチ離した箇所にもう一発撃ち込む。春香の悲鳴がこだました。
どれだけ身をよじろうと、二発とも避ける事は叶わなかっただろう。動きがないと言うことは急所に当たって即死したか。
「あと一発あるわ。さあ、大人しく出てきなさ・・・・・・」
視線を落としたすずは面食らった。
春香がすずに向かって棒を突き出していた。
まるでトイレットペーパーの芯を大きくしたような、1本の棒。
薄明かりの中、棒に印字された文字が目に入る。
「手に持って発射しません」「人に向かって発射しません」
「単発」
こいつ!
すずは身を引こうとした。しかし、足が動かない。
焦ったすずは自分の足を見て戦慄した。
ベッドの下から飛び出した両手が、すずの足首をがっしりと掴んでいた。
清水奈緒が発見した二段ベッドの0段目に身を潜めていた岸本あかりの両手が、すずの足首をがっしりと掴んでいた。
こっちかよ!
すずはすぐさま銃口を足下に向けた。引き金を引く。
カチ。
発射されない。またジャム?
思わずマカロフを睨みつけたすずは面食らった。スライドが完全に引き切られ、止まっている。スライドストップ。弾切れだ。
なんで。あと一発、残っているはず。
すずは考えてしまった。そんな場合ではないのに。つい。
3階で2発。階段で1発。この階の廊下で2発・・・・・・
「あっ」
そこで気が付いた。
舌打ちしてスライドを力一杯引き、手動で排出した、あの一発。不発の一発。
すずは焦って前を見た。
まだだ。あの花火は火が付くまで、数秒のタイムラグがある。そのすきになんとか。
そして愕然とする。春香の手に握られていたのは、ライターではなかった。無論、マッチでもない。
高出力の、木の板を焦がすほどの火力を持つ、ガスバーナー。
耳鳴りがするすずは気が付かなかったのだ。部屋に入ったときから、シューとガスが漏れ出る音がしていたことに。
春香は花火をまっすぐすずに向け、もう片方の手でガスバーナーを花火の点火部に向けていた。
カチリ。
春香が点火スイッチを押した。ガスを垂れ流していた噴射口からボッとすさまじい勢いで炎が吹き出す。花火に一瞬で引火する。
春香は言った。まっすぐにすずを見つめ、完璧な発音で。
「Fire」
次の瞬間、すずは経験したこともないほどのまばゆい光に包まれた。