【第4章】 星空キャンプ編 36
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「いやあ。あいつも甘いよなあ」
田代は通話を切った携帯を無造作に後ろに放り投げた。
青少年自然の里の駐車場には砂利が敷き詰められている。その上に田代の携帯電話ががちゃりと落ちた。
「さっきの放送、聞いたかよ。甘いにもほどがある」
田代はネクタイを抜き取ると、それもぽいっと後ろに放り投げた。光沢が入った青いネクタイはまぶしいほどの照明に照らされてきらきら光りながら、ポトリと落ちた。
「せっかく人質がいるんだぞ。もっとうまく使えるだろうに。例えば、投降しろ。さもなくば、1分ごとに人質の指を一本ずつ・・・・・・とかな」
そう言いながら田代は両手の指を一本一本こきこきとならした。
「もっと頭の切れる奴だと思ってたんだけどなあ。まあ、こういうのは土壇場でわかるよな」
田代はぐるぐると肩を回した。ゆっくりと拳を握る。
奈緒はごくりと生唾を飲んだ。背負っているリュックの肩紐を握りしめる。
田代との距離は数メートル。
駐車場の奥には軽トラと田代のバンが止まっている。
そしてその更に奥には、警備員用のプレハブ小屋。そして、その先に、奈緒の目指すゲートがあった。 田代を倒さなければ、あのゲートにはたどり着けない。
奈緒の後ろにはゆきおちゃんがいた。奈緒の背後に隠れるようにして、小声で「あちゃー。やっぱりいましたか」と呟いている。
奈緒に策などなかった。どうせ、ゆきおちゃんにもないのだろう。
トランシーバーの作戦がうまくいけば、田代も慌てて屋上に向かうのではないか。その隙に車を奪えるのではないか。そんな考えがあまりに希望的観測であることはわかっていた。でも、ゆきおちゃんも「いたらいたで、どうにかするしかありません。運に任せましょう」そんな風に笑うだけだったし、作戦を練る時間もなかった。その結果がこれだ。
田代はすっと前傾姿勢になり、田代は拳を顔の前に添えた。サングラス越しに、視線を前に向ける。
その姿を見て、奈緒は確信した。
この人、ガチの人だ。
絶対に勝てない。
「なあ、ゆきおよ」
田代が奈緒の背後のゆきおちゃんに呼び掛ける。
ゆきおちゃんは奈緒のリュックにしがみつくように身を隠しながら、「なんですか?」と返した。
奈緒は思った。大人なんだから、前に出て欲しい。
「お前には、期待してたんだぜ」
田代はビュッと拳を宙に向けてはなった。
「医学生だ。医学生。それも国から返済無用の奨学金が降りるぐらいのとびきり優秀な奴だ。英語がうまいだけのベルなんかよりもずっと頭が切れる」
田代はおもむろに宙に拳を振るう。上半身もリズミカルにゆらしていた。シャドーというやつだろうか。
「しかも、お前はただのガリ勉じゃねえ。素晴らしいことに倫理観も吹き飛んでた。自分で調合した覚醒剤を売りさばくほどにな。しかも、自分は売買には一切関わらず、適当なチンピラに品を降ろすその度胸と思い切り。すげえ野郎だと思ったよ」
田代の拳が速度を増した。ビュッを超えてボッて感じの音が出ている。速いパンチってあんな音が鳴るんだ。
「俺は頭の切れる奴が好きだ。だから、抱き込んだ。俺が地元のヤクザに口きいてやらなかったら、お前、今頃、縄張りを荒らしたって事で二度と人前に出れねえ顔にされてたぞ」
ゆきおちゃんが奈緒の頭ごしに「その節はお世話になりました!」と声を上げた。
奈緒は混乱した。この二人は何の話しをしているんだ。
「俺はよくしてやったよなあ。ゆきお。お前が作ったヤクを、ベルに通訳させて外国人にも売りまくった。良い稼ぎになっただろ。お前もそれなりの額、懐に入れられたじゃないか」
「はい。効率的に稼げて、うれしかったです」
田代はその場でステップを踏み始めた。踏むと言うより、滑るようだった。小さな円を描くように滑らかなに移動しながら、拳を振るう。
「そうだろう。そうだろう。俺も嬉しかったよ。ベルとゆきお、俺の自慢の部下だ」
奈緒はようやく事態が飲み込めてきた。この二人、仲間だったのか。
「でもなあ。ゆきお。お前はここぞというこの大勝負で、俺を裏切った」
田代はピタリと動きを止めた。
じっと、ゆきおちゃんを睨み付ける。
「お前、なんで、倉庫でガキが入れ替わったときに俺に伝えなかった」
奈緒は、あかりの怒った声を思い出した。
『なんであんたまで捕まってるのよ!』
田代が怒声を上げた。
「こういうことにならないために、お前が見張りに付いてたんだろうがああ!」
奈緒は合点がいった。倉庫の時から、敵ながら、田代はあまりに抜けていた。
子供用のリュックだけとはいえ、荷物をそのまま倉庫に入れていたし、拘束もガムテープの適当な物だったし、何より、ターゲットが入れ替わっていることを疑いもしなかった。あまりにいい加減だ。
だが、その理由がわかった。田代はただ油断していたわけではなかった。田代には安心材料があったのだ。ゆきおちゃんという仲間が、自分も捕まった振りをして倉庫の中から見張っているのだ。そりゃあ、安心するはずだ。むしろ、すごい念の入れようであると言える。
だが、その田代にとっての最大の保険は機能しなかった。
「うーんとですねえ。僕、告げ口って嫌いなんですよね」
田代の堪忍袋がブチリと切れた音がした気がした。
「それに、田代さん。どうせ足洗うついでに僕もベルちゃんも切り捨てるつもりでしたよね」
しんと3人の間に沈黙が流れる。
パアン!
宿泊棟の方から破裂音が聞こえた。
「ほら。ベルちゃんに銃なんて持たしちゃって。ここまでの大事にしたら、ただの家出娘のあかりちゃんなんかに罪を着せるぐらいでなんとかなるわけない。田代さんが最後の手段として罪を着せようとしてたのは、僕ら3人ともでしょ。きっとこれまでの僕やベルちゃんの悪事の記録とか、あかりちゃんの家庭環境の記録とかも用意してあるんでしょうね。社会を恨む3人の若者。ついに凶行に走る。キャンプ場の惨劇。なんてね。筋書きもわかりやすくなりそうだ」
田代は拳を降ろした。
「それに、田代さんは僕の後ろめたいことを結構知ってますからねー。僕は覚醒剤の件とかは、正直、学生時代のアルバイト感覚だったんですよ。この後はいい企業に就職して、それなりに稼いで、実家の家業をついで、やりたいことがあるんです。なのに、後々になって、田代さんに脅されたりしたら嫌じゃないですか」
田代はじっとゆきおちゃんを見る。
「だから、このでかい仕事を利用して、俺を潰そうとしたのか」
「はい。そうです。まあ、僕がほとんど何もしなくても、なんだかんだで田代さん自滅しそうになってますけどね」
田代はため息をついた。地面の砂利を見つめる。
「なるほどなあ。頭が切れる奴、やっぱ、俺、嫌いだわ」
田代はすっと目線を上げた。
「死ねよ。そのガキと一緒に」
そう言った瞬間だった。
田代は足下の砂利を蹴り上げた。細かな小石や砂が飛んでくる。
思わず一瞬目を閉じ、目を開いた奈緒の目の前に田代の顔があった。
田代の右肩がぶれる。
あ、殴られる。多分、これ、あたったら死ぬやつ。
奈緒は瞬時にそう思った。
が、吹き飛んだのは奈緒ではなく、田代だった。
田代の右の顔面に、長い足がめり込んだ。奈緒を殴ろうとした腕は空を切り、田代は砂利の上を転がった。
「それにね。田代さん。春香さんたちに手を貸すことにした理由は、もう一つあります」
ゆきおちゃんは奈緒の顔よりも高く上がった左足を、すっと戻した。
「あなたはもうとっくに忘れてしまった感情かも知れませんが」
ゆっくりと奈緒と田代の間に立つ。もったいを付けて。まるで主人公のように。
彼は言い放った。
「男は皆! ヒーロー願望を持っているものなんですよ」
田代はばっと立ち上がった。
拳を顔の前で構え、前傾姿勢になる。田代はペッと砂利に赤い唾を吐いた。
「ああ。そういや。お前、あれだったな。なんかの師範の息子だ。柔道黒帯、空手二段だったか」
ゆきおちゃんは笑った。
「剣道が一番得意です。三段です」
「ああ。そうかい」と田代も笑った。そして、瞬く間にその形相が一気に鬼と化した。
「死ぬ気は出来てんだろうなあああ! 白鳥いい!」
彼もすっと両の拳を上に向け、組み手の構えを取った。
そして、奈緒に向かって振り向いた。
「安心してください。僕が、救ってあげますからね」
そう言って、20歳の青年、白鳥幸男はさわやかに微笑んだ。