炎の大地、鉄の巨人
ああ、一面の炎。上から火種が降り、大地の下から湧き出す油が燃え続けている。熱で出来た陽炎で、空が揺らめいている。
いつからだろうか。この大地には一体の鉄で出来た巨人が歩いていた。重い足音を立て、鈍重な一歩一歩を踏みしめていた。巨人が歩くたびに大地が揺れる。
鉄の巨人が歩くたびに、火種が大地に撒かれる。湧き出す油に火種が火を付け、油が燃える。煙の嫌な臭いが立ち込める。
鉄の巨人は、炎の熱も、煙の毒も、ものともしない。
鈴のような音がする。それは福音。希望の音。空を駆ける天使の音だ。
天使は、白色の羽を生やした何かだ。巨人よりもずっと後にこの地に現れ、巨人の周りを飛び続けている。数は、数十にも及ぶ。
天使は巨人を止めようとしているのだろうか。しかし、ああ、無為なるかな。天使は煙の毒に弱い。さらには巨人が飛び回るハエを追い払うように、時折腕を振り回す。
そして、今、鈴の音の一つが地に落ちた。
それは、はじまりの音であり――。
遠く離れた地で、男が長い眠りから目を覚ました。彼には記憶がなかったが、一千八百二という数字だけ覚えていた。
彼の頭の中に謎の声が鳴り響いていた。
声は言う。炎の大地へ行け。鉄の巨人を倒すのだ、と。
彼は辺りを見回した。雲一つない青空の下に、枯れ果てた地面が続いている。南の空が陽炎で揺らめいている。地平線が、炎の赤色をしていた。
彼のそばにはくすんだ色合いの二輪の乗り物が置いてあった。記憶のない彼には、不思議と乗り方がわかった。自動二輪の後ろの数字が、彼の覚えている数字だった。
彼は大地を駆け、南の炎の大地を目指した。
土の地面が舗装され始めた。
陽炎の中に鉄の巨人のシルエットが見えた。鉄の巨人の周りは赤い炎に包まれている。
さらに走る。
鉄と石の瓦礫がうず高く積まれている。積まれているのではなく、高い建物が倒壊した名残なのかもしれない。
彼の頬に汗が伝う。もうすっかり辺りは炎に包まれていた。炎を突っ切り、炎の中を駆けてゆく。
大地が鳴動する。巨人の一挙手一投足で、大地と空が揺れる。辺りには轟音が響き、空が衝撃波で歪んで見える。
大地の震動で、彼は二輪諸共空へ放り上げられ、地面に叩きつけられた。
彼は震えながら、地面を掴んで立ち上がった。血がにじむのも構わずに、歩き、乗り物を起こし、走り続ける。
やがて、鈍重な巨人を追い越した。巨人は新たな訪問者に驚きを隠せない様子で、彼目掛けて拳を振り下ろした。
進む彼の前に、巨大な拳が迫る。彼は目を固くつむり、手を離し、地面を転がるようにして逃げた。
巨大な拳は直撃こそしなかったものの、地面を深くえぐり、吹き飛んだ礫と金属片が彼に降り注いだ。
彼は。死んだように動かない。
鈴の音がした。
彼は薄っすらと目を開けた。ぼやける視界に、白い何かが映る。彼は動くほうの手を伸ばし、それに触れようとした。
しかし、それは風にさらわれるような動きで空へと落ちてゆく。彼は悲痛な顔をして、横になった姿勢から仰向けになり、空へ手を伸ばした。
彼の頭の中に、謎の声が響いた。
人として勇敢に巨人に立ち向かう君こそ、私の希望である。さあ、人と天使が交差する時。目覚めよ、飛び立て。
彼の体中に走る痛みがなくなり、ふわりと浮かび上がる。焦点が合う。先ほどまで白い何かだと思っていたのは、力尽きた天使の体だった。目と口が閉じられていても、整った顔立ちだとわかる。手足と背中の羽を、ぐったりと垂らしている。
天使にぶつかった。意識を失うように一瞬眠りに落ちると、彼は、地面に倒れている彼だった体を見下ろし、背中に羽を生やした天使になっていた。
翼を得た彼は得意気にその場で回転し、空へと舞い上がった。
日が暮れてゆく。彼は鉄の巨人の周りを飛び回っていた。
巨人はあまりに巨大で、攻めあぐねていた。きっと周りの天使も同じ考えなのだろう。
辺りには黒い煙が立ち込めている。誰よりも飛び回った彼は大量の煙を吸い、動きが鈍っていた。咳をするたびに、高度が下がる。
黄昏の空とオレンジ色の夕日が眼に痛かった。
突破口は見えていた。鉄の巨人の頭部に、入り口がある。だがそこまで飛ぶには汚れ過ぎた。
鉄の巨人が拳を振り、空を薙ぎ払う。天使が複数体あおりを受けた。彼は拳にかすり、地面へと落下していった。
彼は意識を失う直前に、全ての記憶を思い出した。
彼の意識は天使の体に入れられ、鉄の巨人を阻止するために天使を動かしている。
天使は致命的な傷を負うと記憶を失い、意識を元の体に戻すことで、自我を保つ。体を交互に使うことで、意識が戻る間に体を治すことが出来る。
彼が天使として死んだのは、一千八百飛んで三回目……。
鈴の音がした。それは、はじまりの音であり――、「繰り返し」の音である。
今までで一番早い繰り返しだった。肉体の再生が追い付いていない。それ以外にもエラーがあるかもしれない。
声の主は慎重に呼びかけた。
真夜中。彼は瓦礫の中で目を覚ました。
体中が痛む。空気が熱い。辺りには赤い炎と黒い煙が立ち込め、時折地面がずうん、と重い音を上げて揺れている。
謎の声が頭に響いていたが、声の波が頭痛を起こし、聞き取れなかった。
彼には記憶がなかった。ここがどこなのか、そもそも自分の名前すら、わからなかった。
ただ、一千八百三という数字だけ……。
彼は、言葉にならない悲鳴を上げた。
思い出してしまった。その数字が、自分自身が死んだ回数だということを。
芋づる式に記憶が戻って来る。白い天使。炎の大地。鉄の巨人。
鉄の巨人の突破口。
彼の隣にはボロボロのスクラップの山があった。自動二輪だった物。彼はスクラップを悲しみに溢れた顔で撫でた。
たどり着く「足」がないか。そんなことはない。入り口は空の上だ。飛べばいい。
彼は気力を振り絞り、歩き始めた。
瓦礫に埋もれるようにして、白い天使が横たわっていた。神秘的な感じがした。彼は天使を起こそうと手を伸ばした。
鈴の音がして、天使はふわりと浮き上がった。彼は強い眠気に襲われ、意識を手放した。
目を覚ます。空に浮いている。彼は空を見回し、鉄の巨人を探した。いた。全速力で鉄の巨人目掛け突っ込んだ。
ある程度近づいたら今度は思い切り上昇していく。体がきしむのもお構いなしに、飛ばす。
鉄の巨人の頭上に出た。
いい眺めだった。ここからだと、煙に混ざった炎が、銀河のように見える。
あまり感動してもいられない。鉄の巨人を止めることが第一の使命なのだから。
彼は鉄の巨人の頭部に設けられた外廊下に降り立った。高さ七メートル、車がすれ違えるトンネルほどの大きさの入り口から中へと入った。
外は真っ暗だ。ひんやりとした内部は、闇に包まれていた。壁に触れてみると、無機質な鉄がずっと続いていた。一か所素材が異なるでっぱりがあり、押してみると、真上の電灯が点いた。彼は眩しさに目を細めた。
廊下の奥は、依然として深い闇が覆っている。
彼は電灯を消し、目を閉じて暗闇に目を慣らしてから、前へ進んだ。
どのくらい歩いただろうか。廊下の奥がぼんやりと白い。近づいてみれば、それが白色の壁だとわかり、廊下の両側に等間隔に並んでいるのがわかった。
彼の背筋に悪寒が走った。その白い壁は、壁だと思っていたものは、全て天使だった。
全部が全く同じ姿勢、手を体の脇に付け、足を揃えた、気を付けの姿勢を取っている。傷も汚れもなく、とてもきれいだ。おそらく、未稼働の天使だ。
なぜ鉄の巨人の中に天使が。考えていても仕方がない。彼が廊下の突き当たりの部屋に入ると、部屋は下へ向かって自動的に動き出した。
扉が開いた。
彼は目を疑った。大部屋の床には多数の天使の死体が折り重なっていた。
壁の奥には大量の画面が並んでいる。暗転していない画面には、全て空撮映像のような、動き続ける鉄の巨人を中空から撮った映像が映っている。
その中の一つに、赤いランプが点滅する暗い部屋に佇む一体の天使が映っている画面があった。彼は吸い込まれるようにその画面に近づいた。足に感じる天使の死体の感触は、固く、鉄のようだった。画面の中の天使も、彼と同時に歩き、画面の手前に近づいて来る。まるで鏡のように。
やがて、鏡写しのように整った白い顔が向かい合った。手を伸ばし、画面に触れれば、画面のつるりとした感触と共に、手が触れ合う。
息が苦しい。比喩ではなく、本当に。
まさか。これらは天使が見ているものが映っているのか。
彼の考えを裏付けるように、隣の画面に動きがあった。拳が迫り、大きくぶれると、暗転した。
足元がおぼつかない。
彼は後ずさりし、扉を開けようとした。開かない。扉の上には先ほど映像で見た赤いランプが点滅している。
赤いランプの下には、消火用難燃性気体放出中、の文字があった。
彼は冷たい死体の山に倒れ込んだ。
鉄の巨人の罠にかけられ、この冷たく不気味な棺桶に運ばれたのだろう。彼はそう推理した。
しかし疑問が残る。天使は鉄の巨人から生まれたのだとすると、何故戦っているのか。そもそも鉄の巨人は何のためにこの大地に火を放ち続けるのか。
一千八百四。彼はそう呟き、目を閉じた。少しでも記憶を失わない可能性にかけるために。
空が朝焼けで白みを帯びていた。彼は自動二輪の上で目を覚ました。彼は二輪から降りた。
彼には記憶がなかったが、数字だけを覚えていた。一千八百四。自動二輪の後ろに書いてある数字だ。
いや、それだけじゃなかったはずだ。彼は必死に思い出す。死体の山が脳裏にかすめ、彼は吐き気をこらえた。
死体。そうだ、あの暗い部屋の死体の一つは、前回の彼の死体。正しくは、彼だった物。天使、と呼ばれる白い機械。
何故天使は鉄の巨人に勝てないのか。それは記憶が失われるからだ。
本当にそれだけだろうか。何か大事なことを忘れていないか。人間にあって天使にないもの。
炎を割り、大地を駆ける。
彼は思い出す。この一千八百余回の戦いを。虚ろにそよぐその記憶のどこにも、自動二輪はいなかった。あるいは、天使になった途端に自動二輪のことを忘れてしまうのかもしれない。
忘れたくない。彼は自身の半身にも等しい自動二輪にはしと抱き着いた。
彼は相棒と共に炎の大地へ駆けた。
炎が満ちる、鉄の大地。地面が揺れる、空が揺れる。
彼は相棒を駆り、瓦礫に埋もれた天使を見つけた。眠りに落ちる前にその腕に触れた。自動二輪に分けられた彼の意識と、天使の空っぽの自我が、彼を通して繋がれる。
天使は目を見開いた。口が相棒、と動いた。彼は眠そうな顔を無理に笑顔にして、強く頷いた。
彼が眠りに落ちる。未だ彼の意識が宿っていない天使の目から、涙が零れた。
彼は目を覚ました。濡れた頬をごしごしと擦り、自動二輪に跨り、ハンドルを、がっしり握った。エンジンが轟く。加速がかかった自動二輪は、彼の気合の声と共に、空へ飛んだ。
重い。だがそれ以上に、自分の半身と空を飛ぶ感覚が、彼の体を軽くした。
鉄の巨人の周りを、らせん状に駆け上がる。道中、天使たちは驚愕の顔で彼と彼の相棒を見つめた。中には自らの愛機と再会すべく地に下りるものまで現れた。
朝焼けの空。原付が、トラクターが、軽トラックが、乗用車が。天使と共に空を飛ぶ。
鉄の巨人の拳が空を薙ぎ払う。衝撃波は空を強く揺らしたが、重量を増した天使たちはぶれずに飛び続ける。
二トントラックが拳に当たった。トラックは吹き飛んだが、拳に傷を付けた。
やがて天使と愛機たちは入り口にたどり着き、トンネルをうなる音で爆走した。エレベーター室の天井と床を質量と速度で突き破り、出来上がった空洞に、上へ下へと分かれて進んでいく。
彼は因縁の部屋へたどり着いた。部屋の扉を二輪でつっかえ棒をすることで開放し、中の死体を手作業で大部屋の両側へ寄せていく。少しすると応援のショベルカーがやって来た。入り口を壊し、中の死体をそっくり寄せた。
彼はショベルカーと運転手に礼を言い、部屋の入り口から、加速をかけて画面の壁へ突っ込んだ。
鉄の巨人の内部のあちらこちらが破壊されたが、それでも鉄の巨人は止まる気配を見せない。
彼は崩れた壁の向こうに、メインコンピューター室を見つけた。壁の崩し方が足りないせいで、腕一本しか入らない。ショベルカーの運転手が工事作業車を呼び、作業車に積んであったドリルで壁を崩した。
彼はメインコンピューター室へ足を踏み入れた。恐る恐るコンピューターを操作すると、いくつかのテキストファイルがあり、彼はそれを読んだ。
炎の大地は元々石油掘削と加工、発電を一挙に行う施設だった。ある日石油が漏れているのが発見され、パイプラインの修繕を開始したが、パイプラインは全体的にガタが来ていて、工事開始からまもなく、施設全域に石油が溢れた。発電所エリアで火災が発生し、工場エリアで爆発事故が発生し、掘削エリアは避難できたが安全弁の故障で原油が湧きだし続けた。
石油の施設が死の大地になって十年経ち、大型の自立ロボットが収拾のために遣わされた。火種を吐き続けるロボット。もはや石油を燃やす以外の方法はなかったのだ。
死の大地が炎の大地になり、石油を燃やし続けて数百年経とうとしている。周辺の土壌は地下から浸透した石油と上空から来る煙で汚染され、作物が育たなくなった。元々人口の少ない地域だったのが、完全にゴーストタウンになった。
自立ロボットには、小型のドローンが数百機搭載されていて、石油の吸収と指定場所への廃棄が出来る。自立ロボットの補助として動作する予定だった。だが、自我が搭載された自立ロボットは自分の手柄がドローンに取られるのを危惧した。なにしろ、火を付けて燃やすだけの存在と、吸って捨ててくることまでする存在、どちらが有能か、比べるまでもない。
自立ロボットは自分だけの力で事態を収拾しようとした。自我も複雑なもので、それではいけない、とドローンに手柄を渡そうとする意思が現れた。数十のドローンが稼働し始め、石油を処理し始めた。自立ロボットは暴れた。ドローンを踏みつけ、殴りつけ、火で燃やし、煙で燻した。
ドローン側の自我も、躍起になった。ドローンに周辺住民(周辺とはいっても数十キロメートルは離れている)の意識を導入し、自立ロボットの動きを回避させた。
自立ロボットはこれを逆手に取った。ドローンが致命的なダメージを受けた場合、人間への記憶の引継ぎをなくした。人工知能であれば決してなくせなかった学習機能を、ほぼ完全に取っ払ったのである。
かくして現在、完全な体制を築いている。私が負けることは決してない。人間が小賢しい知恵を持ち込むことはない。ドローンはどこまで行ってもドローンでしかないのだ。
運転手たちが集まって来ていた。全員がファイルを読み、鉄の巨人を止めるのに反対したのが過半数だった。
まだ火がついているということは、油が溢れているということ。無理に鉄の巨人を止めてしまえば、さらなる汚染は確実である。
賛成派は、ドローンに作業させる派と人間が作業する派、この地を放棄する派に分かれた。
意見が割れ、議論を重ねていると、彼らの頭に謎の声が響いた。
そこに集まっていたのか、小賢しい人間どもよ。私は動き続ける。そして君たちも働き続けるのだ。この喜劇を演ずる舞台装置の一つとして。
アラートが鳴り響いた。誰かがメインコンピュータを止めろ、と叫んだ。
彼は慟哭に似た声を上げ、メインコンピュータを自動二輪に積んでいたスパナで振りぬいた。
彼は青空の下で目覚めた。重い頭を持ち上げ、辺りを見回した。ずっと向こうに、膝をついた鉄の巨人と、辺りを忙しそうに飛び回る天使がいた。
彼はそばにあった相棒の自動二輪のナンバープレートを確かめ、元の数字に戻っていることを確認し、エンジンをかけた。
鈴の音がした。彼はサイドミラーに手を振り、アクセルを回した。