マーディン
中ほどに暴力シーンがあります
本編に影響はないので、苦手な方はさらっと読み流してください
食堂ガーラがある通りの向かい側。店と店の間にある薄暗い路地に立ち、開店前のガーラを見ている二つの人影があった。
「本当にあの店にいるのか」
大きな人影が、自分の肩よりも小さい影に確認する。その声は男のもの。中年くらいか。
「ああ、間違いないよ」
答える声は、老婆のようだ。かなりしわがれている。
「昨夜、この周辺を歩き回って一番強い反応があったのが……あの店だ。特定するのはまだ難しいが、まだ反応があるってことは、店にいる誰かが持っているはずだよ」
「では、あの店にいる人間を皆殺しにして探す方が、手っ取り早いぞ」
「慌てるんじゃないよ」
過激な発言をする男を、老婆が母親のようになだめる。
「あの店には魔法使いも何人か出入りしているようだ。お前さんも昨日、見ただろう? 開店前だからと言っても、油断はしちゃいけない。もし魔法使いが今の時間にも店の中や周辺にいたりしたら、すぐに防御され、反撃されちまうよ。一度失敗したら、向こうも警戒するだろうし、そうなったら次の行動を起こしにくくなっちまう。ちゃんと見極めて、特定の人間だけを狙った方が確実さ。急いては事をし損じると言うだろ?」
「説教はいい。それなら、誰を狙えばいいのか、さっさと見極めろ」
「本当に短気だねぇ。大きな力を得ようってんだから、もっとどーんと構えておいでよ」
老婆が喉の奥でかすれた笑い声を出す。
いらついた表情を見せるその男は、ロッグの先輩魔法使いリグが見掛けたと話していたマーディンだった。
魔法使い協会を追われ、竜の力を得ようとして行方不明になった、その男である。
十年前、協会から追放処分を受けたマーディンは、竜の力を手に入れるためにバローグの山へと入った。
うまい具合に竜を見付け、致命傷を負わせるまではうまくいったのだが、竜の反撃に遭って負傷しながら崖下の川へ落ちてしまう。
アーストの魔法使い達も川へ落ちたらしい、ということまでは推測できたのだが、それ以上の追跡調査はしなかった。最終的に死体が上がらなかったので生死不明とされていたが、悪運強いマーディンは生きていたのである。
流れの速い川に流され、意識を失ったマーディンは、魔法使い達が捜索していた所よりもずっと下流まで流されていた。そして、岸に打ち上げられているのを、通りかかった猟師に見付けられる。
親切な猟師が山のふもとにある自分の小屋へ連れて帰り、彼の十八になる娘も一緒になって介抱してくれたので、マーディンはかろうじて一命を取り留めたのだ。
だが、竜に負わされた傷はどれも深い。
竜の鱗に見えたあの無数の刃がマーディンの身体を切り裂き、左目から光を奪った。鋭利な刃で付けられた傷は、なかなか癒えない。
さらには川に流されている間、何度も強く岩に叩き付けられたようで、骨折も数カ所あった。
起きあがれるようになるまで半年以上かかり、まともに歩けるようになるまでにはさらに半年以上が費やされる。
素朴で疑うことを知らない猟師は、マーディンが名前以外に自分のことをあまり話そうとしなくても無理に聞き出そうとはせず、面倒をみてくれた。猟師が住んでいる場所はレンディックの街からは離れており、街の人なら知っているマーディンのことも彼は全然知らなかったのだ。
どれだけ彼の性格がねじ曲がっているか、ということも。
療養中はいくらマーディンでも何かしでかす、ということはなかった。できなかった、と言う方が正しい。まともに起きあがることも難しく、ひたすら介護されるままだった。起きあがれるようになり、弱った足腰のリハビリをする間も、おとなしい男を演じて。
今、猟師に追い出されてしまえば、行く場所がない。レンディックの街へ戻れば、協会の魔法使い達が現われ、魔力を封じようとするだろう。だから、家にはもう帰れない。
それだけのために、無害な男を装った。
こんな境遇にあっても彼の中に、命が助かって感謝する、という殊勝な気持ちは生まれない。こんなボロ小屋で粗末な食事しか出ない状況に追い込まれ、腹の中では自分の周りにある全てのことに対して怒りが煮えたぎっていた。
だが、それを表に出さないように必死に努力して。
彼がこんな「努力」をしたのは、生まれて初めてかも知れない。
なまじ魔法の才能があったため、大した修行もせずに魔法使いの地位を得て、その高いレベル故に元々高飛車だった性格にさらに拍車がかかった。努力しなければ魔法使いになれない人間を蔑み、完全に自分の能力におぼれていたのだ。
だから、自分の感情はストレートに表現していた。誰かをほめるということはせず、能力が低いと思えば相手の前ではっきり口に出し、自分が不快に感じたことはすぐに暴力的な言葉にして吐き出す。
彼にとっては通常のこと。
だが、今はそれを隠さねばならない。そんな状態を受け入れることは彼の高すぎるプライドが否定したが、生きて行くためには仕方がない。そのプライドを抑え込もうと、彼は「努力」という行為を初めてしたのだ。
骨折した部分は何とかつながったが、右膝がどうしてもうまく動かず、歩くと引きずるような格好になってしまった。近くにちゃんとした医者がおらず、猟師が民間療法で治療したためらしい。
身体には、竜から受けた無数の傷痕が醜く残った。傷口は長い時間をかけてどうにかふさがったが肉が盛り上がり、どこに傷を受けたかが一目でわかってしまうのだ。
左目も完全に見えなくなっており、その周囲も肉が盛り上がっていた。まぶたが腫れ上がったようになり、光を失わずにいたとしても、まぶたがちゃんと開かないので、どちらにしてもまともに見ることはかなわなかっただろう。
顔にも身体と同じように数カ所の傷があり、やはり同じように肉が盛り上がっている。一年前は美形だと噂された容姿は、見る影もなかった。魔法使いなら治癒魔法で治せそうなものだが、竜によってできた傷には効果がなかったのだ。つながった骨も、時間が経ってから戻すことは難しかった。
猟師の住む小屋の隣に小さな倉庫があり、マーディンの部屋として使われていたが、そんな所に鏡はない。歩けるようになってから水鏡に映った自分の姿を見たマーディンは、あまりの悔しさに声もなく泣いた。
身体の傷は見えるので多少は予測していたが、現実はそれをはるかに超えている。マーディンは傷を負ってから初めて、自分の現状をはっきり知らされたのだ。
それは、彼にとって魔力を封じられるより悲惨な状態だった。あまりのショックに、その夜は熱を出したくらいだ。
性格は悪いが顔だけはよかったので、ずっと女には不自由しなかった。その見た目だけで彼に寄って来る頭と尻の軽い女はいくらでもいたし、夜になって彼が自分の部屋にいることはほとんどなかった。
仕事を断ってばかりいるくせに出世欲もそれなりにあったマーディンは、協会の理事長の娘に一時期目を付けていた。レンディックの街でも五本の指に入る、と言われるような美人で、頭も性格もいいという、天が二物を与えまくったような女性だ。
そんな彼女を手に入れようと動いたこともある。もっとも、頭のいい女性がマーディンのような男を受け入れるはずがないので、あっさりふられた。
後日、彼女の元にいやがらせの手紙が何通か届いたが、犯人の手掛かりが掴めないままうやむやになったことがある。もちろん、マーディンの腹いせだ。
いやがらせがすぐに終わったのは、自分に興味のない相手に対して彼もすぐに興味が薄れ、別の女性へ走ったからである。出世くらい、女の力を借りなくても自力で十分だから、と。
それが今は。
二目と見られない、自分でも見たくない程のあまりに醜い姿。
自分の顔を武器に遊んでいた彼に、そんな現実は到底受け入れられるものではない。
攻撃してきた竜を恨み、実力も認めずに協会を追放した魔法使い達を恨み、さらには命を助けてくれた猟師を恨んだ。
猟師については、もっと適切な処置をしていればこんな醜い傷痕は残らなかったのに、というあまりにも筋違いな恨みである。
マーディンの中に生まれたその恨みと現状の不満は、水鏡を見た次の日に爆発する。
猟師が仕事に出掛けた後、娘が熱を出したマーディンを心配して彼のいる部屋へ入って来た。その娘をマーディンは押し倒したのだ。
それほど器量のいい娘ではなかったが、そんなことはどうでもよかった。相手が若い女であり、自分のうっぷんを晴らせるのなら、本当に誰でもよかったのだ。
年齢の割にあどけない顔の娘を固い土の床に押し付け、自分の欲望を満たそうとする。必死になって抵抗する娘を、マーディンは容赦なく殴った。腹だろうが、顔だろうが関係なく。
その拳には、彼女が受けるいわれのない恨みが込められていた。
やがて、マーディンが持つ全ての不満と欲望をぶつけられ、心も身体も傷付いた娘がショックで虚ろな目になり、宙を見るようになった頃。
猟師が戻って来た。いつもより早かったのは、何か不吉なものを感じたせいかも知れない。
自分達が寝起きする小屋に、娘の姿がない。気になってマーディンのいる倉庫へ向かう。
そこで彼が見たものは、惜しげもなく裸体をさらして横たわる娘の姿だった。
引き裂かれた服が散らばり、切れた口の端には血がこびりつき、顔の所々に青あざが浮かび、身体のあちこちにも傷があるのを見れば、そこで何が起きたのかわからないはずがない。
横に立つ男が娘にどんなことをしたのか。
考えたくもないが、他にどんな可能性があると言うのだろう。
猟師は温厚な性格だったが、辱めを受けた娘の父親が逆上するのも無理はなかった。
猟師は銃をマーディンに向ける。恐らく、猟師がこれほどまでに誰かを恨んだり、憎んだりしたのは初めてだったろう。
獣に向ける銃を、人間に向けたのも。
だが、マーディンは何も感じない。うるさい奴が戻って来た、という程度だ。銃を向けられても、恐怖に怯える表情など見せずに黙って猟師に顔を向ける。
そして、猟師が引き金を引くより先に、呪文を唱えた。風の刃がいくつも飛び、猟師の身体を切り刻む。命の恩人を、マーディンはいとも簡単に殺してしまったのである。
いや、彼は恩人などと思っていなかった。それどころか、自分の身体に醜い傷を残した責任者、とさえ思っていたのだ。
どれだけ素行が悪くても、これまでにマーディンが人を殺したことはない。だが、彼を取り巻く環境の全てが、彼の神経を矯正不能なまでに歪めてしまっていたのだ。
父親の絶叫に、呆然としていた娘が顔を上げた。そこに見たのは、血の海に倒れている自分の父親。
その瞬間、娘の正気の糸は完全に切れた。
そこから出て行こうとするマーディンの後ろ姿を見て、娘が奇声をあげて飛びかかろうとする。狂ったための行動なのか、本能的に自分や父親を害した人間に復讐しようとしたのかわからない。
とにかく、娘はマーディンの背中に向かって攻撃しようと動いた。攻撃と言っても、その小さな拳を相手に叩き付けるくらいしかできない。
しかし、背後からというのがいけなかった。正面からであれば、突き飛ばされるくらいで済んでいたかも知れない。
マーディンは振り返ると、腕を突き出しながら呪文を唱えた。その手の平から強い光が飛び出し、娘を襲う。裸で武器一つ持たない女に向ける魔法ではない。
それは、強力な魔物に向けるような、攻撃魔法だった。
魔物でさえ無事ではいられない力に、人間が耐えられるはずもなく……娘は腹から下を全て吹き飛ばされ、残った上半身は壁に叩き付けられる。床に落ちた娘の目は、明らかに生者のものではなかった。
マーディンは猟師の小屋へ入り、売れば金になりそうな物とわずかな現金を物色すると、近くの街へ向かう。それからずっと、汚い仕事に手を染めて食いぶちを稼ぎながら、あちこちの街や村を放浪することになる。
途中、魔法使いくずれの男と手を組んだこともあるが、稼ぎを持ち逃げされて以来、ずっと一人で仕事をするようになった。
そして、月日は流れ……。
「ちょいとお待ち。お前さんの欲しいものが視えてるよ」
とある暗い街角で、マーディンは呼び止められた。
小さな水晶玉を持って立っている占い師の老婆だ。長い白髪を無造作にまとめ、濁った目でこちらを見ている。
傷んだ古い黒のローブを身にまとい、ひどく不気味な雰囲気を漂わせ、その表情は何かを企んでいるように思えた。
無視して通り過ぎようとしたが、老婆の言葉にマーディンの足が止まる。
「竜の珠が欲しいんだろう?」
「……なんだと?」
「視えるよ、お前さんの心が。力を求めてる。お前さんが手に入れ損ねた力のありかを、わしは視ることができるよ」
老婆は確かに「竜の珠」と言った。マーディンはこんな老婆など、今まで見たことがない。占いでマーディンのことを知ったとすれば、大した腕だ。
「……いくら欲しい?」
相手がどれだけふっかけてくるか、試しにマーディンは尋ねてみた。
「珠の力のひとかけらで十分さ。老い先短いからね。使い切れない大金を持っていたって手に余る。今よりもう少し食いぶちが稼げるよう、占いの力を上げてもらえればいいさ。ま、ぜいたくを言わせてもらえれば、もう少し若返れたらねぇ。身体が楽になるってもんだよ」
「それくらいなら、安いものだ」
「裏切っちゃいやだよ。お前さんが手にかけた父娘みたいに、無惨に死ぬのはごめんだからねぇ」
マーディンは表情に出さなかったが、内心では焦った。
あの件を知る人間がいるはずがない。小屋を出る時、ちゃんと焼いて処分しておいたのだ。一年以上あそこにいたが、人が訪れる様子はなかったし、誰かが来たとしても火事で山小屋が焼けたのだろうと思えるように細工しておいたのに。
それから九年近く経つが、そんな前のことを見て来たようにはっきり言われるとは思っていなかった。
「かわいそうにねぇ。あの子は生娘だったんだよ。世話するうちに、あんたに惚れかかっていたのに。あの猟師だって、必要以上には殺生しない男だった。お前さんを見付けて連れ帰らなかったら、今頃は孫を抱いていたかも知れないのにねぇ」
「……お前、どこまで知っている」
どこまで。他に誰が。
あんな山のふもとでひっそり暮らすような猟師父娘が死んだところで心は痛まないし、大した問題ではない。
だが、このまま放っておいて面倒が起きるのはできれば避けたい。
「そんな警戒しなくても、それくらいだよ。まぁ、視ようと思えば視えるけどね。わしに力を分けてくれれば、お前さんに必要なことを視てあげるよ。いくら竜の力を得ても、やっぱり誰にも術の得手不得手というのはあるからね。わしが今より力が強くなればもっと先まで見通して、お前さんに楽しい人生を歩かせてあげられる」
「相棒にしろ、ということか」
「そんなご大層なものにしてくれなくていいよ。必要な時に呼んでくれれば、いつでも視てあげるさ。お前さんにとって、そう悪い話じゃないと思うよ」
「……いいだろう」
どうやら、知っているのはこの老婆一人。マーディンが人殺しだと老婆が言いふらしたとしても、大して痛くもない。証拠はもう完全になくなっているし、いざとなればどうとでも逃げられる。
竜の珠を手に入れて、さらに先が明るくなればいいし、老婆が邪魔になればすぐに殺せばいい。竜の力を手に入れれば、何も怖いものはないのだ。
こうして、マーディンはジュパットと名乗った老婆と共に、竜の力があると占い師が言うレンディックの街へ来た。
「なぜ街の中に竜の力がある? あの時の竜はどうなった」
「死んだみたいだよ。その後、誰かが持ち帰ったみたいだねぇ」
「竜の力を持ち帰っただと? どういうことだ。魔法使いの誰かか」
「そこまで細かいことはわからないさ。近くへ行けば、もう少し説明してあげられそうだけどねぇ。だから、過去と未来がもっとわかる力がわしは欲しいんだよ」
竜の力があるのなら、そこへ行かなくてはならない。
レンディックの街はマーディンにすれば、戻って来た、と言うべきか。およそ十年ぶりだ。
魔法使いとして協会から追放はされたが、犯罪者として街を追放された訳ではない。
だから、マーディンがこそこそする必要はないのだが、華やかだった昔の自分が思い出され、人目を忍ばずにはいられなかった。マーディンだと知られれば、必ず昔と今を比べられるだろうから。
竜の力を手に入れれば、一番にこの醜い傷を治すつもりでいるが、今はどうしようもない。左目の傷は髪を下ろすことで普段から隠しているが、竜の呪いでもかかっているのか、よく風に髪が流されてその傷がさらされてしまう。
リグがマーディンを見たのも、そんな時だった。だから、彼はマーディンだと気付いたのだが、当のマーディンはリグに気付いていなかった。現役の時から自分より力のない者は気にもかけていなかったので、当然かも知れない。
協会の魔法使いに身分を特定されれば、今更ながらに魔力を封じられるだろうか。だが、今は逆にこの姿を利用して、別人だと言い張れば何とかなるはず。
竜の力がある場所を特定するため、二人で街のあちこちを歩き回る。
そして、ジュパットが指差したのは、食堂ガーラだった。
だが、店は繁盛する夜の時間帯。人が多すぎる。満員の店の中から誰が竜の力を持っているのか、見極められない。
なので、その日はあきらめ、こうして日を改めて再び店のそばまで来たのだ。
今の時点で竜の力があるとすれば、昨夜来ていた客達ではなく、店の人間か泊まり客ということ。だが、旅人は移動する。ジュパットは「この街にある」と視たのだから、店の人間と考えて間違いないだろう。
あとは、それが誰なのか、だ。
「……誰か入って行くぞ」
店を見張っていると、少女が一人、店の中へ入って行く。まだ開店時間ではないはずだ。
長い金髪をポニーテイルにした少女は、エルナだった。彼女の格好から魔法使いだとわかった二人は、手を出すのを一旦控える。どれだけの力を持っているかわからないし、下手に彼女のことを探ってこちらに気付かれては困るからだ。
「お楽しみはこれからだ。ゆっくりやろうじゃないか」
ジュパットがまた、ひからびたような笑い声を出した。