9. 愚行
「予想以上だった。ちょっとびっくりしたわ」
自転車で家に帰る最中、慎一が感心したように口を開く。
「相変わらずの集中力」
「俺も大概集中力高い方だと思ってたけど、比じゃない。あそこまでは気合い入れても無理。ていうか、塾で同じコースの奴見てても日織のレベルの人は一人もいない」
僕はそもそも集中する機会などないから分からないけど、慎一には思うところがあるのかもしれない。彼は上気させたような表情でまくしたてた。
と思ったら、柔らかい表情になって、
「ミツ、やっぱ色々付き合ってあげてよ」
「色々って?」
「いや、あれだけ根詰めてたら息抜きとか必要だろ」
なんで慎一がそんなこと言うんだよ、と思ったけど、
「今日ので俺もなんか気が楽になったし」
毎日何かに打ち込んでいるという点では慎一と日織は似ている。最近ずっと通い詰めている慎一も溜まっていたのだろう。晴れやかな表情でお礼を言われた。
「それに、なんか日織も頼ってるみたいだし?」
「そういう感じじゃないと思うけど」
ただ手伝ってと言われて、ちょっと興味を持って。彼女の集中力に慣れてしまったというだけ。
目つけられやすいからな、そう言って慎一は笑った。
次に葵さんとシフトが被った日のバイト後。
「まかない、食べて帰るの?」
その日、僕たちは三時半までのシフトだったが、お客さんが多かったせいでいつもまかないを食べる時間帯に食べることができなかった。それでバイトが終わってからまかないを食べていいと言われたのだ。
「うーん、どうしようかな」
時間は三時半を過ぎたところだったから、今からまかないを食べたら中途半端な気がした。でもお腹は空いているし。
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ」
お姉さんが奢ってあげるから、と葵さんは慣れたようにウインクをした。
「で、どういう関係なの? あれは」
先週三人でご飯を食べた時のことを訊いているようだった。中途半端な時間に小腹を満たすために近くの喫茶店に連れてきてくれたのはよかったものの、彼女の目的はそれだった。
「別に、部活が同じってだけですよ」
何度言っても彼女は面白がって根掘り葉掘り聞いてくる。
「で、あの子……あ、あのガールフレンドね。途中パソコン開いてたけど、何してたの?」
「趣味悪いですよ覗きなんて」
もう訂正が面倒になって、放っておく。
「何がよ」
素知らぬ顔をしてドーナツを齧っているので言ってやることにした。
「店長と同じですね」
「なっ」
反論に対応するのもこの後聞かれ続けるのも面倒なので、僕は続けて正直に言う。
「小説書いてたんですよ」
「へぇー、小説。すごいね、じゃあ、部活って文芸部?」
「はい」
「小坂くんも書いてるの?」
「いや、僕は書いてないです。読み専です、前も言ったかもしれないですけど」
「そっか。みんな楽しそうでいいなー」
「先輩は楽しくないんですか」
ただの社交辞令のつもりだった。
なんとなく言い方に違和感を感じたから聞き返したというだけの。
彼女の反応を待ちながら飲もうとしたアイスコーヒーのストローを口に持っていく途中で動きが止まってしまった。
葵さんが普段みたいな飄々とした表情をしていないことに、驚いたのだ。
彼女は何か、顔に出そうになった気持ちを抑えたみたいな表情をしていた。それが何か分からず、ひとまず謝る。
「えっと……何か変なこと訊いてたらすいません」
「あ、いや全然。ちょっと思い出してただけ」
どう返せばいいかわからず、ただ頷く。
「私……大学暇って言ったでしょ? それが楽しみで大学に入ったんだ、……実は。私昔から長期休み大好きで、ああ、他の人もだと思うけど。で、大学って人生の夏休みとか言うじゃない。だからネットで一番遊べる学部とか調べてそこに行くためだけに、高校の時は結構勉強して合格できたって感じで」
彼女は購入したルイボスティーのストローを手すさびの道具にしながら訥々と話す。
「でも結局やりたいことがあって入ったわけじゃないから、暇すぎて飽きるし、かと言って受けたい授業もないからサボりがちになっちゃってねー。それまでは、夏休みの自由さが好きだったんじゃなくて、多分普段忙しい合間に入ってくる休みが好きなだけだったんだって後から気づいて。まあ、就活で困らない程度には名の通った大学に通えるように勉強してたことは自分に感謝なんだけど、高校の時にもっとちゃんとやりたいこととことんやりたかったなーとか、自分から何か興味あること色々したかったなーって思って」
彼女は最初こそ口ごもりながらだったが、次第に軽い口調に戻ってきて、最後には、「ま、今は大学でできた彼氏と毎日のように遊んでるからいいんだけどー」と彼氏との写真を自慢げに見せてきたので、いい話をしてくれたのか自慢しただけなのか分からなかったが、とりあえず彼氏の話に「よかったですね」と、奢ってくれたことにお礼だけ言うことにした。
家に帰ってから、葵さんが言っていたことを考えていた。普段のからかい好きな彼女も、色々と考えているのだろう。
――とことんやりたかった
――自分から興味あることを
彼女が何を考えながら言っていたのかは知らない。でも、僕は彼女のその言葉に何かしら影響を受けてしまった。
日織のことを手伝えるのではないだろうか。そう思った。
なんとなく、うまくいきそうな感じがあった。
鞄からスマホを出し、メッセージの画面を開く。
気がつけば僕は、文字を打ち込んでいた。
今まで自分からしたいことを決めなかった自分に言ってやりたい。もっと考えるべきだったと。
そんな油断の後は大体悪いことが起こるのだと。でもそんなことは後になってから言えることで。
受け取り方がどうであったにせよ僕はこうして自分勝手な判断で何度目かの間違った選択をしてしまった。実際、この時の僕は気づいていなかったけれど、後から考えると、僕の愚行は初めてではなかった。
僕は日織を水族館に誘ってしまった。
送った後すぐに後悔し始めて、スマホをもったまま長い間頭を抱えていた。
予想外にも、メッセージの返信音がその日中に鳴った。
『嬉しい! ちょうどもうすぐ小説でも水族館のシーン出すつもりだったから。その日までに三章頑張って終わらせて、水族館に行ってから残り二章分、一気に書くね! 今から頑張る!』
彼女の返信は、いつもより若干テンションが高い気がした。彼女はまたパソコンに向かっているのだろう。そんなことを思って、僕はいい気分で布団に潜った。
なんて、気持ちよく寝ているだけじゃ何も気づかない。なんの胸騒ぎもしなかった。
彼女を追い込んだ。周りの影響で、なんてなんの言い訳にもならない。そのことに気づいたのも、自分でじゃなく、慎一の電話でだった。
彼女はその二日後の明け方、家で突然倒れ、救急車で病院に運ばれた。




