8. 慎一
最近お金を使いがちなので、夏休みは終日バイトの日を週一日か二日つくっていた。去年の夏休みは慎一と遊んだりもしていたけれど、今年は塾の講習に追われているらしく、夜に慎一の家で一緒にご飯を食べるだけだったので、思う存分シフトを入れられたのだ。
店長もある程度家の事情を理解してくれているから、朝から夜までのシフトをお願いすると、とくに理由も聞かずバイトの時間を伸ばしてくれた。
「小坂くん疲れない?」
一日シフトの場合、昼と夕方にまかないが出る。キッチンの奥にあるスペースで夕方のまかないを食べている時、僕よりちょっと早く休憩に入って賄いのパスタを食べている葵さんが気遣いの表情をして訊いてきた。
彼女はまだ夏休みには入っていないらしいけれど、全休という平日なのに授業がない幸せな時間割のおかげで今日もまた終日のバイトを入れていた。
「まあ、なんとか。でも一日バイトは流石に疲れますね」
「小坂くん最近シフト増えてない?」
日程と時間はバイトメンバー全員に共有されるから、当然一日シフトを作ったことも知っているのだろう。彼女が他のバイト仲間の分まで見ているとは知らなかったけど。
「夏休みに入るので増やそうかと」
「なに? 夏休みがまだ始まってない葵先輩への当てつけかな?」
「いや、葵さんいつも、暇だーって騒いでるじゃないですか。というか、葵さんは疲れないんですか?」
「それとこれは別なの。うん、慣れてるからねーって、私が暇だから一日シフトに慣れてるって言いたいの? 許せない小坂くん」
「そんなこと言ってません」
「言った」
わざとらしく口に空気を溜める先輩を無視できず、ノリを合わせる。
「ごめんなさい」
「お姉さんは寛大だから許してあげるよ」
ふふん、と嬉しそうに頷いた彼女はフォークを持った手をビシッと前に向け、わざとらしく格好つける。
「で、急にバリバリ働き出して、どうしたの? 春休みとかそんな感じじゃなかったのに。まあ、話し相手ができてお姉さんは嬉しいけど」
「自分で使うお金くらいは自分で稼ごうと思って」
「そっか。偉いんだね」
大学生でバイトは当たり前だからか、僕が高校生だと言った時も葵さんはあまり反応しなかった。
「なに、好きな子でもできた?」
今回もさらっと流されるかと思ったが、彼女は面倒な方に舵を取りをはじめる。
「なんでそうなるんですか」
僕は呆れながら言う。
「いやー? 高校生でお金欲しいってのは、女の子と遊びに行くお金とか、そういうことなんじゃないの? だれ?」
彼女は楽しそうに笑いながらずけずけと質問を投げてくる。どこが寛大な先輩だ。
「偏見ですよ」
「前来たって子?」
「へ?」
僕の話を聞かない葵さんがとんでもないことを言い出す。前に彼女とこの店に来た時、確か葵さんはいなかったはずだ。と言うことは……ふと目線を感じ後ろを振り向くと、奥で聞き耳を立てていた店長と目が合う。
「ごめんな、つい」
大げさにため息をつくと、店長は「これで許して」とか言いながらまかないを一品増やしてくれた。
「そのガールフレンドと遊ぶため?」
一層目を輝かせた彼女に少々うんざりしながらも、ちゃんと弁解する。
「違いますよ、そんなんじゃないです。本が好きで……」
はっきり違うというと、少しの罪悪感が滲み、声がしぼんでしまいそうになる。慌てて声量を戻して付け足した。
「それを買うために」
「ふーん」
僕の声がしぼんでしまったことに気づかなかったのか、それとも休憩時間が終わるから話を切り上げようと思ったのか、さらに深追いしてくることはなかった。
声が小さくなったのは、僕の反応につまらなさそうな顔をしている葵さんの言っていることはあながち間違いでもなかったから。先輩の言う通り、彼女と会う予定をしていたから。ただ、今回は二人じゃない。初めて慎一も誘っていた。
もともとその日は母と華さんが夜ご飯を食べる予定だった。母からそれを伝えられたのが約一週間前で、料理を作る必要がないことを日織に言うと、一緒に夜ご飯を食べようという事になった。
せっかくなので慎一も誘おうという話になり、慎一を誘った。
慎一は、予定が分からないから後日連絡すると言っていたが、会う予定をしていた日の前日の夕方になっても慎一から連絡は来なかった。
バイトから帰宅した後、確認のために慎一のスマホに電話をかけると、華さんが出た。
「もしもし?」
『あ、もしもしミツくん。ごめんね、いま慎一風呂に入ってるんだけど、ミツくんだったからでちゃった』
彼女はやっぱり、ペットの頭を撫でるようなやわらかい声を出す。電話で華さんと話すのもなんだか気まずいので話を切ろうとする。
「あ、そうですか。また後で大丈夫なので出たら折り返すよう伝えてもらえませんか?」
『伝えることあれば伝えるけど?』
「あ……じゃあ。明日の夜のことで……」
それだけで華さんは話の流れを理解したようで、
『ああ、明日ミツ君のお母さんと私が夜ご飯食べるから、慎一とどこかで食べてくるって話でしょ?』
「ええと」
それの返事がわからないから電話したのだけど……。
華さんの様子では、もう確定事項のことのように思っているらしい。もしかして、と五日前の記憶を遡る。
確か、僕は母に「母さんが華さんと夜ご飯食べる日、僕も晩御飯食べてくるから」というようなことを言った記憶がある。それを僕の母が、僕も慎一と食べてくると勘違いして受け取り、そのまま華さんに話してしまったということだろうか。
「いや」
僕が話の伝達の齟齬を取り除こうと切り出した時、電話の奥で慎一の声が聞こえた。
しばらく何か言い合いする二人の声が聞こえてから、話し声が慎一に戻る。僕は少しだけ張っていた肩を緩める。
『――ごめん、話聞いた』
「おう」
『連絡遅くなってごめん、明日五時に駅でいい?』
「わかった。日織にもそう伝えておく」
『あ、ちょっと待って』
向こうで何やらトントンとステップが聞こえる。ステップの音が止まると、さっきよりちょっとだけ声のトーンを下げた声が聞こえた。
『日織のこと、かあさんに話した?』
「話してないよ」
僕が母に話していないのだから華さんに伝わっているなんてこともない。
母親に交友関係――特に女子の――を知られているのかどうか、わざわざ二階に上がって確かめたかった慎一の気持ちはなんとなく分かったので、平坦な声で事実を言うと、慎一は「おっけいおっけいサンキュー」とおどけて返事をした。
もちろん僕も母に最近よく出かける理由が女子と会うから、なんて言うつもりもない。
葵さんがやたらニヤついた笑顔を振りまきながら、僕たちにお冷を出してくれる。
僕らの状況を確かめて、失礼な想像をしたらしい葵さんは、僕の横腹を小突いて戻っていった。
「あの人は?」
彼女が前と違うバイト仲間に反応する。
「バイトの先輩。大学生でよくちょっかいかけてくる人だよ」
夜ご飯を食べる場所は集まってから決めるつもりだった。それはいいのだけど、慎一が僕のバイト先に来たいと言ったせいで、葵さんのバイト中に店に行く流れとなってしまったのだ。
「ご注文、よろしいですか?」
普段キッチンで働いているはずの葵さんがわざわざホールの仕事である注文取りのために僕たちのテーブルに近づいて来る。不可解な気持ちが表情から伝わってしまったのか、葵さんが口を少し膨らまして尋ねる。
「なんで葵さんなんですか、とか思ってる?」
「思ってません」
そんなこと訊くのならキッチンにいればいいのに、とは言わなかった。
「ホール、忙しいんだよ」
思ってないと言ったのに、彼女は言い訳をする。
「西野さん、いますよ」
西野さんはホール担当のベテランだった。
「あはは、ばれちゃった。暇だからこの時間帯」
知ってるでしょ? と同意を求めるように言う。夕方早い時間帯も店が空いていることはもちろん知っていたが、特に話を広げないように注文をする。
「そうですか。じゃあ、特製グリルハンバーガーと本日のジュースで」
「無視かー」
と言いつつも彼女は注文を書く伝票を後ろのポケットから取り出す。
「あ、おれも同じので」
慎一が続けて注文する。
「じゃあ、私は、紅茶とミニ和風パスタでお願いします」
「ミルクと砂糖はどうなされますか?」
「ミルクだけください」
「かしこまりましたー」
話を切られたことは気にせずからからした表情でキッチンへ戻る葵さんを見て、日織が「大人のお姉さんだね」なんて言う。
いつものようにちょっかいをかけてくる葵さんに対する見解がポジティブで思わず笑ってしまう。
「だいたいからかってくるから。慎一みたいな感じ」
「え? 慎一君ってそんなキャラなの?」
「ミツがいじられやすい性格してるだけだろ」
流れ弾をこちらに打ち返してくる慎一。なんだよそれ、と思ったのは僕だけらしく、彼女は同意する。
「それはなんとなく分かる。年上に目つけられてからかわれそう。前も先生に仕事頼まれてたし。あの先輩もそうなんじゃないかなあ。ミツ君が可愛く見えて」
彼女は自分が手伝いをさせていることを棚に上げて笑う。
目の前で自分のことについて話しされることに居心地が悪く感じ、僕は話を変える。
「これが前言ってたハンバーガー」
メニューを指差す。僕がバイトに入る前だけどこのハンバーガーが人気になって取材を受けたこともあるらしい。
「ミツに言われて一回食べてみたかったんだ」
「美味しいよ。私このサイズは食べれないけど」
日織が手でバーガーの大きさを示す。
「日織も食べたことあるの?」
「そう、私が食べたのはミニサイズのだけどね」
彼女が今度は手を近づけて小さくする。
「あれでも多かった」
彼女は少食なのだろう。前もサラダしか頼んでいなかった。
しばらくして、キッチンに戻ったはずの葵さんがまた料理を運んできた。
彼女が頼んだパスタは女性向けの量だったので先に彼女は食べ終える。僕たちが半分も食べられていないことを見ると、カバンからパソコンを取り出し、すこし申し訳なさそうにしながら僕たちに「書いていい?」と確認する。ここにくる前に書いていた続きを書きたいらしい。
「うん」
僕が首を縦に振ると、慎一が不思議そうな目でこっちを見た。
「なに?」
「いや」
そして日織の方に向き直り、
「ああ、いいよ全然」
彼女は驚いた顔をした後、僕と顔を合わせる。やっぱり。
そして彼女は自分の世界に入っていった。
「どういう反応?」
「慎一は流石だなって」
「なんだよそれ」
「先に日織に言っておいたんだよ。慎一の前だったら遠慮することないって」
「そりゃどうも、ってか流石はミツだろ」
「どういうこと」
「そのまんまだよ」
ため息をついた慎一が興味深い表情で、日織を見る。
「例の集中モード?」
「うん」
肉を頬張りながら頷いた時、彼女のパソコンのすぐ隣に紅茶が置かれていることに気づく。手を伸ばして僕はそのカップを彼女の手の届かない位置にずらした。
「なにしたの?」
「近くに置いておいたら途中で飲んで溢すかもしれないから」
「前言ってたやつか」
「うん」
「それを流石って言ったんだよ。慣れすぎ」
「まあ、これまで二回もやらかしてるから流石に気になってしょうがないだけだけど」
彼女はもちろんカップが動かされたことにも僕たちの会話にも気づいていない。慎一は彼女の様子を確認し、楽しそうに笑みをこぼす。
「いつもこんな感じなの?」
「いつもって?」
「ご飯食べてる時とか。あ、いつもは書いてるだけで終わるんだっけ」
「うん」
「なんか、意外」
慎一が少しだけ声音を重くした気がして、僕は首をかしげるだけにとどめる。
「学校とかでも思ってたけど、友達とかが話してる時も日織、寝てること多いじゃん? それは休み時間とか……って、本当に、聞こえてないんだよな?」
慎一は急に心配になったらしく、おずおずと訊く。
「うん、絶対」
大真面目に返すと、「断言するんだ」と首をすくめる。
「まあ、それなら大丈夫か。で、日織が学校で寝てるのって、朝とか十分休みの時だけだろ?」
「授業中もだけど」
「あ、いや。休み時間の中ではって話」
僕は、話が見えず曖昧に相づちを打つ。
「昼休みは寝てないってこと」
ああ、確かに。休み時間は大抵眠っているけど、食堂で友達とご飯を食べている時に彼女が寝ているのは見たことがない。
「だから、みんなが自由にだべってる時は気にしてないけど、みんなでわざわざ食堂に行ってご飯食べようって時は寝ないようにしてるのかなって」
「そんなことわざわざ考えてるのかな」
「多少はあるでしょ。日織いつも弁当なのに周りの子に合わせて食堂に行ってるし。俺がミツに仕方なく付き合って、食堂について行ってるみたいに」
優しい慎一は、そんなこと絶対思っていないはずなのに、余計なことを付け足す。
「でも今日は気にせずしたいことしてる」
「まあ、確かに。でも、休日に日織と会ったらだいたいこんな感じだし」
「居心地良さそうなんだよなー」
切々とパソコンに向かう彼女の様子を眺めながら呟く。
「まあでも――えっ?」
慎一が言葉を止めたのは、レジの方で小銭がこぼれる音がきこえたから。見てみると、おじいさんが会計の際に財布を落としてしまったらしい。
金属がぶつかり合う音と散らばったお金が転がる音が辺りに広がる。
落ちた中の数枚が僕たちのテーブルに向かって転がってきていた。慎一と僕が椅子をずらし、転がってきた小銭を受け止める。
レジの前で小銭を集めているおじいさんにそれを返してから席に戻ると、予想通りの日織と慎一の反応があった。
つまり、下を向いたままの彼女と目を丸くしている慎一。
「これか、言ってたのって」
「そう、これ。すごいよね」
「たしかに。すごいな」
その時、彼女がカップに手に伸ばそうとして手が空を切った。二、三度空中で左右に動かしてから「あれ?」と言いながら顔を上げる。
「あ、ここか」
カップを見つけた彼女の視線が上がり、僕たちと目が合うと、真剣な表情がすっと不思議そうな眼差しに変わっていく。
「どうしたの? あ、もう食べ終わった?」
「集中力すごいね」
慎一が椅子に座りながら言う。
「迷惑かけることも多いけどね」
「日織はさ、なんでそんなに集中できるの?」
僕は流れで訊く。
彼女はしばらく考えた後、
「時間がないからかな。私たちには時間がないんだよ。えっと……ほら、もうすぐ面談もあるでしょ」
「それは、そうだけど」
進路を考えているうちに時間がどんどん経ってしまって、気づけば決める時が来てしまっている。高二になった今だと、その感覚はもう分かっている。だから彼女が言わんとしていることはなんとなく理解できた。
「だよね?」
僕の反応にしっかり頷いてから彼女は慎一の方を見る。彼女は慎一が医学部に行くために努力をしている姿を部室で何度か見ていたからだろうか。
「そうかもな」
彼女の質問に即座に答える慎一を見て、なんとなく僕の体の奥にある空気が薄れた気がした。
「だから、私は焦ってるだけだよ」
まあ、焦ってるだけじゃ意味ないかもしれないんだけど、と少し悲しそうに彼女は目を伏せる。
「そっか」
彼女の考えは彼女の普段を見ていたら納得できるものだったし、それに正しいと思った。人生、何が起こるか分からない。お父さんだって、死ぬなんて思っていなかったのだから。
にも関わらず僕が曖昧に頷いただけで留めたのは、僕が悠久に思える時間を普段から大切にしている自信がなかったからだと言う他ない。
「それに、ミツ君が手伝ってくれるようになってからなんだかやる気出ちゃって。ありがとうね、ミツ君」
「急に何」
慎一も驚いたような微妙な表情で僕と日織の顔を交互に見つめていた。
「やめてやめて」
僕は何もしてないから。恥ずかしくなって僕は、無理矢理彼女の話を遮った。




