6. 目の奥の曇り
地獄のバイトを終え、フードコートに向かう。フロアは混んでいて親子連れやカップル、年配の客など老若男女がそこら中にいた。雨だからこそ駅から傘をささずに来ることができるこのモールに来たくなるのだろう。
普段からここを利用している人間としては嬉しくないことだけど、そんなことを考えて憂鬱になる方が嫌なので歩速をあげて周りを見ないようにする。フードコート内にも人が多かったけれど、彼女はいつもと同じ場所に席を確保していたためすぐに見つけることができた。
先週話した通り、僕は彼女の書いた小説の原稿を読むことになっていた。
原稿は、彼女が部室であらかじめ印刷したものだった。昨日の放課後、彼女はそのためだけに部室を訪れた。彼女によるとコンビニで印刷するのは嫌で、理由はコンビニのコピー機の中には店員がデータを閲覧できるものがあるから念のため、らしい。
そんなふうに、彼女は印刷機に関してのこだわりが強く、彼女が部活に入って一番喜んでいるのは印刷機が自由に使えることだと言っても過言ではなかった。
いつもと違う質感で本を読んでいるからか、なんとなく落ち着かなかった。それでも何か感想を言うつもりでじっくり読んでいく。
彼女は僕が原稿を読んでいる間、ずっと座って読み終わるのを待っていた。居心地が悪かったけど、僕の反応が気になるのだろう。
そして、読み終えた後僕が的確かどうかわからない感想や気になった部分に関する意見を言うと律儀にメモに取っていた。
「って言っても、僕推理小説しか読んだことないから言ってること間違ってるかもしれないけど」
「いやいや、ありがとう」
「でも続きが読みたくなった」
素人である僕の言葉に彼女は笑みを深くした。
「ありがとう。ちょっと書き直してみる」
「じゃ、次の章期待してる」
そう言って、気づく。今まで恋愛小説を読まないようにしていたけれど、もしかすると大丈夫かもしれない、という気配があった。
彼女が再び潜り始めたので、僕はトイレに立つ。ついでに、本屋に行く。
今日のバイトは昼からだったのだけれど、朝は寝坊をして本屋に寄るタイミングがなかったのだ。彼女の小説を読む約束をしていたし、それにどうせ彼女が自分の世界に潜り始めたら買いに行けるだろう、と思いバイト終わりそのままフードコートに来ていた。
雨雲のせいで全体的に薄暗い中、雨雲の切れ間から柔らかい光が差し込んで遠くの山を明るく照らしていた。よく見ると山と空の間から虹が出ていた。日織はこの虹にも気づいていないだろう。
そう思った瞬間、僕は表情を固める。
曇った空によって鏡のようになったガラス面に映る自分の顔に存外な笑みが浮かんでいたから。
むずがゆさを感じ、僕は体を震わせる。そして景色から目を背けてそそくさと本屋に向かうことにした。
無事に二冊の文庫本を購入した後本屋から戻ると、彼女は相変わらず波紋ひとつない水面のように張り詰めた集中をしていた。
近くの店舗から、食器がガチャガチャとぶつかる音が響いているけど、当然のように彼女の心は凪いでいるようだった。ぶつぶつと独り言を呟きながらキーボードを叩いている。
相変わらずの様子に唇の端から笑みが漏れてしまう。ただまあ、ちょっと変わっているそんな彼女にも学習能力というものは備わっているらしく。
前回のことを反省しているのか、パソコンの横にお盆を置いて、その上にコップを置いていた。集中しながら水分補給をすることは前と同じだったけれど。
僕は彼女の後ろに回り込んでパソコンの画面を覗く。さっき読んでいたのと同じような縦書きの文章で、彼女が手を動かすごとに文字が増えていく。当たり前なのだけど、実際彼女の書いたものを読んだ後だとなんとなく変な感じがした。
彼女は息継ぎをすることもなく、僕が後ろにいることにも全く反応しないから、なんとなく覗き見ていることに罪悪感を覚え始め、罪滅ぼしに彼女のコップに水を入れてくることにした。
本を読んでいると、僕の耳には小さな子の大きな泣き声が当たり前のように聞こえてきた。前みたいに転んでしまったのだろうか。
見てみると、その女の子は立ち尽くしたまま叫んでいた。
人間は慣れる生き物だ。以前経験したのとほとんど同じ状況に遭遇したら、どんな人でも対応が分かる。予想できる。どうすることが最も良いのか、前回よりも即座に賢く判断できる。結果、僕は予想通り無反応の日織を横目に文庫本を机に置いて立ち上がり、すぐに少女の元へ近づいた。
「大丈夫?」
少女はぐずぐずと鼻をすすりながらゆっくり言葉を話す。
母親と一緒に来ていたのに、気づいたらどこかではぐれてしまったらしい。どこかでというのは、ゆっくり訊いても首を振るだけだったので分からなかったからだ。
フードコート内でその子を探している人がいないか見渡したものの、見つけられなかったので、仕方なく僕はその女の子をインフォメーションまで連れて行くことにした。
無事母親が見つかった後に事情を聞くと、ゲームセンターで遊んでいる途中、母親の気づかないうちにフードコートの方に出てきてしまったらしい。母親はずっと乗り物の中で遊んでいると思っていたらしい。
僕が戻ると、不思議そうな様子の彼女と目が合った。
「どこに行ってたの?」
「そうなるよね」
予想通りの反応に思わず笑いが漏れる。
「笑わないでよ」
「笑うよ」
不服そうに口を膨らます彼女に迷子の女の子の話をしてあげると、「それは笑われても仕方ない」と頷いていた。
「ねえ、日織はどうしてこの小説を書こうと思ったの?」
ずっと気になっていることだった。一番最初に好きになったものとは違うものを書いているらしいから。
「好きだからだよ」
前にも言わなかったっけと首をかしげる彼女に続けて訊く。
「いや、そういうことじゃなくって、恋愛小説をってこと」
彼女はその返答を聞いて、曖昧に頷く。
「ええと、つまり。本を好きになったきっかけって確か……」
「あ、そういうこと。うん、一番最初にハマったのはミステリーだね。読むことが好きになったのはそれがきっかけなんだけど、私が本を書くようになったきっかけはまた別にあって。あ、今持ってるよ」
言って、彼女はカバンの中から一冊の本を取り出した。
「これを読んで小説を書いてみたいって思ったの」
彼女が見せてくれたその本は、恋愛小説を読まない僕でも知っているくらい有名な小説だった。
「いつも持ち歩いてるの」と微笑む彼女によると、彼女はいつもその本をお守りとして鞄に入れているらしい。ちなみに彼女は初めて読んだ本も持っていて、見せてくれたその本は、僕が昔からなんども読んだことがある子供向けの推理小説だった。
「これ、僕も好きだった」
そう言うと、彼女は僕の目をじっと見ていた。
「なに?」
「……いや、やっぱり知ってるんだと思って。推理小説好きな人はほぼみんな読んだことあるって言うよね、これ」
好きじゃない人でも学校の図書館とかで一度は読んだことがあるかもしれないくらいだ。実際、本をあまり読まない慎一でも昔ハマっていた。
「で、そっちの影響で本を書き始めたってことか」
「そういうこと、しかもこれ見てるだけで頑張ろう! ってなるんだ、あれ」
彼女はお盆の上のコップを見る。
「入れてくれた?」
「うん」
「何から何まで」
「良いよ、本の話できるの楽しいし」
彼女は、少し目を丸くした後、何も言わず顔を下ろした。
彼女が目の前にいると、僕もつられて読書に集中できるせいか、いろんなことに巻き込まれてしまうからか、時間が経つのが早い。でも、巻き込まれやすいのは昔からなので、前者だろう。気づけばそろそろ帰らなければならない時間になっていた。
エピローグを読みながら、何気なく顔を上げて彼女の様子を見る。彼女の手はお盆の上のコップに伸びていた。以前経験したのとほとんど同じ状況に遭遇したら、その後起こることを予想してしまう。僕は本に目を戻さず、彼女の方をじっと眺めていた。
同じ状況がそろえば同じことが起こることは珍しくない。コップを戻す時、彼女の手がお盆に引っ掛かり、コップが倒れるのが見えた。
幸い、逃げた水の反乱はお盆の中でほぼ完結したし、僕がこぼれた瞬間布巾を手に取ったので、前と同様、濡れたりすることなどはなかった。でも全てが同じにはならなかった。
「ごめんっ! またやっちゃった」
唯一違ったことは、彼女が自身が水をこぼしてしまったという状況に気づいていたということだけだった。
彼女は机にあったもう一枚の布巾を手に取り、お盆の中にこぼれた水を拭いたのだ。
「え」
喉の奥から驚きの声が漏れる。
「水かかってない?」
どうして何も教えてないのにそんな言葉が出る? いや、本来ならこっちのほうが普通の反応かもしれない、けどあの彼女だ。すぐ近くの泣き声にも反応しない彼女だ。
僕は心配そうにしている彼女の顔をまじまじと見つめる。
「大丈夫、だけど」
「あ、やなんか」
彼女の質問には答えたものの、その場には沈黙が流れる。気のせいだろうか。彼女の目の奥が曇っているような気がした。
「そろそろ帰るね」
気まずい空気を感じ、僕はそれだけ言ってフードコートを後にした。
彼女は小説を書いているときに、集中しているのではないのだろうか。さっきは何がどうなって彼女が自分のしたことに気がついたのだろうか。
もしかしたら、ただ引っかかった時に手に衝撃を感じて気になっただけかもしれない。それとも、たまたま集中が切れるタイミングだったのだろうか。
「あんた!」
食卓を挟んで向かい合っている母親が珍しく大きな声を張り上げる。驚き見ると、母親はクマのある顔を全力でしかめていた。
「え?」
「これ、塩と砂糖入れ間違ってるじゃない」
晩御飯に作った親子煮の話だった。
「そんなはず……」
口に入れる。嘘――
「かっらぃ!」
目の前にあるのは吐き出しそうなほど辛い親子煮だった。
「最悪……」
母親は僕の呟きに吹き出す。
「こんな間違いするの、初めてじゃない? なんか考え事でもしてた?」
「……いや」
「なんかあるんでしょ」
「なんでもないって」
何かを期待するような目でまじまじと見てくる母親の親子煮を問答無用で奪い取り、鍋に入れて中華スープに変えていく。僕が火を調節している後ろで、母親はなぜか鼻唄を唄っていた。




