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君と明日の約束を  作者: 檜垣梁
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5. 違和感

 結局僕は、彼女の前に座って本を読んでいただけだった。文庫本を読み切ると、そろそろタイムセールが始まる時間が近づいていたので、僕は手の中にあるその本をカバンの中にしまう。


 彼女は結局あれ以降休憩をとっていない。予想通り彼女のコップから水が随分減ってしまっていた。

 また彼女がコップに手を伸ばして水を少し口に含む。そしてそのコップを机の上に戻す――戻らなかった。彼女がコップから手を離した瞬間、バランスを崩したそれはそのまま傾いていき、


「あぶないっ――」


 僕が手を伸ばす間も無くコップが地面にぶつかる高い音が響き、水がこぼれた。

 僕は急いで机の上から乾いた布巾をとり、小さな水溜りの上に落とす。水が広がってさっきみたいに子供が滑ってはいけない。

 少し離れたところまで転がってしまっていたコップを取りに行ったところで違和感に気づく。日織は?


 おそるおそる彼女の方を振り向くと、予想外にというか予想通り、さっきと何も変わらない状況がそこにあった。


 彼女は海底で周りの音をシャットアウトするみたいに集中したままだった。つまり、彼女は自分がコップを落としたにも関わらず、その事実に気がついていなかったのだ。

 仕方なく僕は彼女の腕に触れる。


「ん?」


 彼女はしゃがんでいる僕の方を振り向き、一瞬不思議そうな顔をする。

 落ちた彼女のコップを渡すと、彼女はやっと理解したらしい。目を大きく見開いた。


「え! 私?」


 頷くと、


「ごめん! え、かかってない?」

「いや、かかってないけど」

「うわー、やってしまった」


 彼女が慌てて立ち上がる。


「私やるからいいよ、ごめん」


 彼女は急いで布巾を持ち、周りに飛び散った水を拭いていく。僕はもう一枚除菌済みの布巾を取りに行く。


 コップにはそれほどたくさんの水が入っていなかったから、その二枚で事足りて、床の水気はほとんど無くなった。


「今度からちゃんとお盆の上に置くようにします」


 少し反省した様子で彼女が謝る。


「集中力、すごいよね」

「さっきより嫌味がこもってる気がするのは気のせい?」

「気のせいではないと思う」


 少し、からかう。


「ほんとうにごめん!」

「いいよいいよ」


 別に本が濡れたわけでもない。少し驚いただけだ。

 ただ、彼女は申し訳なさそうに手を合わせていた。


「そうだ。そろそろ時間だから」


 僕は鞄を肩にかける。


「あ、ありがとね。結局本読んでもらってただけになっちゃったけど」

「仕方ないよ、バイト後はあんまり時間ないし。日織はまだ帰らないの?」

「うん。まだまだ」

「親心配しない?」


 周りを見ていない彼女が少し心配になった。


「大丈夫、うちの家結構放任主義なところあるから」

「そっか」


 あまり口を出すことでもないと思ったので、そこで話をきる。


「うん。あ、じゃあ次までに初めの章書き終えとくから次は読んでよ」


 日曜日はバイトがなかったから、次というのは来週の土曜日のことだった。


「わかった」

「あ、でも」


 彼女は少しきまりの悪い表情をする。


「私書いてるの恋愛系だけど」

「いや、まあ」


 彼女があれだけ集中して書いていたものに、決して興味がないとは言えない。


「読ませてよ」


 それを聞くと彼女がぱあっと顔を明るくする。


「やった、嬉しい」


 その笑顔が、僕の心の奥を刺激する。なんだ、これ。

 彼女は「じゃあねー」と言って彼女はコップを替えるために席を立つ。僕は、軽く手をあげて席を離れる。フードコートを出るときもう一度彼女の方を振り返ると、彼女はもう潜水を始めていた。






 僕はやっぱり集中力がないのかもしれない。授業中、日織の姿が目に入って授業に集中できなかった。


 でも別に大した理由でもない。彼女の驚くほどの集中力を知って、ただ彼女が学校でどのように過ごしているのか気になってしまっているだけだ。

 知っていたことだけど、彼女は学校で、やっぱりずっと寝ていた。改めて彼女のことを見ていると、思わず笑ってしまう。


 僕が学校に着いた時には彼女はまだ登校しておらず、来たと思えば友達の輪の中に入って睡眠を始める。授業前に起こされて、授業が始まればまた睡眠。睡眠の休憩にたまに起きている授業がある、そしてまた睡眠。


「なんかあったの、ミツ」


 食堂で慎一と昼ごはんを食べているときだ。

 僕は食堂のランチセットで慎一は弁当。日織も違うテーブルで数人の友達と弁当を食べているようだった。食堂は広くないから、大きな声を出していたら目立つ。弁当を広げている彼女の周りの女子は何やら盛り上がっているらしく、調子の良さそうな笑い声を上げている。


「慎一って集中力高いよね」


 僕は慎一の質問には答えず、唐突に切り出す。

 彼女の集中の入り方は、部室で慎一が勉強を始めるときのそれと似ている気がした。

 ちなみに慎一は風邪が治って週末はしっかりと塾で授業を受けていたらしい。


 卵焼きを箸で掴んだまま、慎一が怪訝な表情をこちらに見せる。


「急になんの話?」


 昨日のことを言うと、慎一は「さすがだな」と笑う。


その言い方に引っかかる。


「知ってるの?」

「うん、ちょっとな」


けど、それ以上は教えてくれなかった。僕も訊かない。


そして「学校ではいつも寝てるのにな」と笑う。


 その感想はよく分かる。ここ数日の彼女を見ていた僕の感想と一致しているから。


「ほんとに。で、日織なんか慎一に似てた」

「ん? 俺に?」

「そう。慎一が勉強集中し始めるときの空気感ってあるじゃん。それが」

「なんだよ、それ」

「こう、今から一人の世界に潜りますよ、っていう。それがすごかった」

「俺……ばかにされてる?」


 慎一は心外だというような顔をして訊いてくる。


「してないしてない」

「いや、けど、そんなにすごいの、日織の集中力」

「他の音全く聞こえないレベル」

「いやー、まじか。すごいな。俺には絶対無理だ」

「けどなんとなく慎一の集中モードの感じ似てたけど」

「全然違うって」

「そうなのかな」

「そうだろ」

「でも、僕は慎一で慣れてるけど他の人が見たら引くレベルだと思う」


それを聞いた慎一が、けたけた笑う。


「前から思ってたんだけど、なんでそんな集中できるの?」

「んー、俺は集中しないと絶対解けない問題解くときは集中せざるを得ないって感じかな。目標がある間はなんとかって感じ」

「みんな、なんでそんなに何かを見つめられるんだろ」

「なに、さっき田内に何か言われたの」


聡い慎一は話の奥を理解する。


「うん、また進路の話」


 昼休み前、数学の授業の後田内に呼び出されて進路のことをもう一度確認されたのだ。


「決まらないの?」

「……まあ。まだって言ったら決めないと勉強のモチベーションも上がらないでしょうって言われた」

「それはなあ、まあその通りだと思う」


 思わずため息が溢れる。


「慎一はなんで毎日のように勉強続けられるの」

「医学部、勉強しないと受からないから。そうするしか方法がないってだけ」


 慎一が間髪入れず答えるので、今まで訊いていなかったことを尋ねる。


「なんか医者になって絶対に叶えたいこととかってあるの?」


 それとも、他に理由が? 可能性は考えられたけれど、慎一に失礼だと思い口には出さなかった。


「そりゃ、一応理由はあるけど」


 慎一が女子生徒のひときわ大きな笑い声に反応して振り向く。日織たちのグループだ。何か盛り上がることがあったのだろう。


「なに?」


 会話が止まってしまったので慎一に先を促すと、あると言った割に難しい顔で何かを考え出した。


「……でも実際、俺の場合は洗脳の部分大きいと思うよ。だって、親が病院のトップって、最初からレール敷かれてるようなものだし」


 結構思ったことをそのまま言う慎一だけど、周りに理由を依存する慎一は珍しい。でもいつも無理していることは知っていたので違和感はなかった。


「俺の親めちゃくちゃ過保護だしな。ほら」


 慎一は自分の弁当箱に目を落とす。


「それは華さんの優しさだと思うけど」

「まあ、そうだな。でも勉強に関して、親の過保護さが嫌じゃないのはそういうことなんだろうけど。だから俺と日織の覚悟は多分全然違うんだって」


 確かに話しかけても反応しない人は初めて見た。


「まあでもミツ、見ててやってよ。俺週末はいつも塾入ってるから忙しいし」


 それに、もしかしたら日織に影響されて何かやりたいこと見つかるかもしれないだろ、と相変わらず頼りになる笑みを浮かべた。


「うん。慎一もまた夏休みにでも一緒に行こうよ」

「ああ。そうだな。そろそろ講習とかで忙しくなるけど、タイミングが合えば行こうぜ」


 昼休みの食堂も終わりに近づき、人が少なくなると、慎一は後輩らしき女子生徒に声をかけられて、僕に先に戻るように言ってきた。


 午後の授業でも日織の様子は変わらなかった。六時間目に至っては、他の生徒も眠気を誘う地理の先生の影響か、慎一の二つ前の席でセーターに頭を預けたまま一時間を終えた。慎一は話を聞くふりをしながら問題集を解いていた。


 その日の放課後、彼女から週末のバイトの確認をされ、二回目の手伝いが決定した。






 家を出た時から降っていた雨がまだ止まないのだろう。キッチンの奥の曇りガラスはうすネズミ色に染まっていた。雨の日なのに忙しいキッチンの仕事を憂鬱な気分でこなし、注文が落ち着いた小休止、どうやら同じ気分で働いていた(あおい)さんに話しかけられた。


「なんでこんなに人来るかな」


 葵さんというのは同じアルバイトで僕より三つ年上の女子大生だ。と言ってもバイト自体は僕と同じ時期に始めたので、やっている仕事はだいたい同じようなものだった。

 彼女とはシフト時間もよくかぶっていることもあって、休憩時間やご飯を食べている時によく話をしていた。


「雨の日くらい家でくつろいでくれたら良いのにね」と、オーナーかお客さんに聞かれてしまったら確実に反感を買うだろうこと――ただそれは今日のシフトに入っているバイト全員の代弁だけど――を言う。

 僕は反感を買いたくないので相槌で済ます。


「つれないなあ」


 彼女は鮮やかなピンク色の唇を歪ませる。

 ここ一年ちょっとで彼女の性格はよくわかっていた。思ったことは遠慮せずに話すが、それが良いキャラとして働いていることと、気が向いたら年下をからかいたがること。


「私だったらこんな天気なら絶対大学休むけどなあ」

「それは葵さんだけです」

「そんなことないって。大学生なんてみんなそう。私だって高校の時は皆勤取ってたくらいなんだから」

「えっ、そうなんですか」

「本気で驚かないでよ! そうだよ。大学に入った時は頑張ろうとか思ってたけど、まあ三ヶ月経ったら面倒になるよね。ちゃんと全部の授業行ってるのは何か目標がある子くらいなんじゃないかな? 私はそういうのは無い。まあ、私の入っている学科が緩いだけなのかもしれないけど」


 以前葵さんの所属している学科の話をちょっとだけ聞いたけど、楽ということしか分からなかったのであまり深くは聞かない。


「小坂くんも大学に入ったら分かるよこの気持ち」

「そんなこと……」


 沈黙になりそうだったのを、進路に悩んでいる感じを葵さんに悟らせないために、僕はほぼ無意識に言葉を続ける。


「ないですよ、多分」


 最後に「多分」と付け足すことで言葉の間にできた変な間を薄められたと思う。

 幸い、追加の注文が一気に流れ込んできたので、そこで会話が途切れてくれた。


 そこからバイト終了の時間まで、僕たちほとんどノンストップでフライパンを握り続けていた。

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