3. お手伝い
僕の急な勧誘に倉本さんは目を丸くする。
「部活?」
「うん」
「えーと……」
彼女はしばらく頭の中で何かを天秤にかけているみたいだった。少しずつ険しい顔になっていく。あまり乗り気じゃない空気。
「無理にとは言わないから全然――」
「どんなことするの?」
「ええと、基本自由で……ああいや、籍置くだけでいいんだ。部員少ないと色々――」
そうじゃない。
「いや、三人超えないと廃部になるらしくって」
「え、そんなことになってるの!」
「そう、だから帰宅部の人を探してて……」
手応えを感じて、説明を続ける。
「放課後に慎一と部屋で各自好きなことしてるだけだから、全然来なくてもいいし」
「じゃあ……いいよ」
「え、いいの?」
自分から誘っておきながら、十中八九断られるだろうと考えていたので、慌てる。
「なんでそんなに驚くの」
「いや、まさかこんな簡単におっけいしてくれるとは思ってなくて」
「私も本は好きだからね」
「じゃあ逆になんで今まで入らなかったの」とは聞かなかった。それよりも、お礼が先だ。
「ありがとう」
「うん。仲良い子も大人数の部活に入ってるから頼まれないだろうし……名前貸すくらいなら全然。気にしないで」
その時、廊下の奥で生徒の騒ぐ声が聞こえてくる。僕も彼女もその音に自然と廊下へと目を向ける。移動教室の掃除をしていた生徒が帰ってきたのだろう。
「って、あ! やば」
彼女は思い出したように振り返り、黒板の上に設置されている時計を確認する。
「時間?」
「うん、ごめんね。ちょっと楽しくなっちゃって。入部届とかはまた今度でいい?」
「いつでも大丈夫」
「分かった。じゃあ一応よろしくね、小坂君」
僕がもう一度お礼を言うと、彼女は手を振って颯爽と帰って行く。
しばらくして数人のクラスメイトが帰ってくる。慎一はいない。班長だから鍵を返しに行っているのだろう。
「おーミツ、お待たせ。ちょっと遅くなった」
慎一が戻ってきたのは数分後だった。
「でも理科室の鍵返すときについでにもらってきた」
彼の人差し指には部室の鍵がついたリングがはめられている。
「さすが」
「仕事が早いだろ」
得意げな表情をする慎一に言う。
「慎一、倉本さん文芸部入ってくれるって」
「えぇえ」
慎一が何だかすごく下手な驚き方をしたので笑ってしまう。
「あ、そっか。帰宅部なんだ……」
「籍を置くだけならって言ってたけど、それでいい?」
言うと、彼は安堵したように息を吐き出した。
「……そっか。うん、助かる」
彼は明らかにいつもと違うテンションで「仕事早いなー」と言いながら背中をバシバシ叩いてくる。
この日の夜、慎一は久しぶりに風邪をひいた。
週末の昼、僕の目の前には、食事中の倉本日織が座っていた。彼女は食事中も先ほど購入した小説を満足げに眺めていた。不思議だった。
僕は家を出て自転車で駅に向かっていた。バイトは午後二時からだから、それまでに買い物と昼ごはんを済ませようと思って少し早めに家を出たのに、午前十時から元気に活動している太陽が僕を襲う。
駅に着くまでに汗ばんだ背中にシャツがへばりつかないようにしながら歩いていき、改札を抜ける。電車が進むにつれ、周りの建物の高さがどんどん高くなってくる。ここから電車に十数分揺られると、栄えた駅に着く。
この駅は何本かの線路が交わる駅で、外に出なくとも駅に併設されたモール内で全ての買い物を完結させられるから人が集まりやすい。その中には大きな映画館や服屋、病院もある。
バイトの場所をこの駅に決めた理由は、駅の近くに大きな書店があるからだった。
コンコースを通り抜ける際、周りの壁にいろんな広告が貼り付けられているのが目に入る。高そうなブランド商品の宣伝の中に、八島総合病院の広告もあった。
八島総合病院は慎一の父親が経営している大規模な病院で、この駅から近く、僕も小さい頃お世話になったことがある。
通路を抜けた先に大きな階段とエスカレーターがあり、そこを上がると書店の入り口が見えてくる。
大きな駅から直結のモールに入っている書店だから、人が多い。本を探したり立ち読みをしている人の間を縫うように文芸コーナーに行くと、目当ての本があった。今日発売されたその本は書店員が押しているのかお洒落なポップに紹介がされていて、サイン本はすでに売り切れてしまっているらしい。
そのあたりのこだわりのない僕は平積みされている本の中から一つを選ぶ。手に持って質量を感じた瞬間、数ヶ月溜めこんでいた期待が胸の奥で膨らむ気がした。
帯に書かれているコメントを読んでいる最中、横から来た人が窮屈そうに手を伸ばすのが視界に映ったので、同じ本を取ろうとしているのだろうと思い体を動かして場所を開ける――と、
そこに、彼女がいた。眠気なんて全て家に置いてきたと言わんばかりの大きな目をした彼女が。
びっくりした。なんとなく近寄りかたに違和感を感じたのは、彼女が僕のことに気づいていたからだったのか。
僕は彼女がすぐにこちらを振り向いて、学校で話した時のような愛想のいい顔をするのだろうと予想した。
結果、僕のその予想は大きく外れた。
僕が彼女の横顔を見ていると、彼女は僕のことなんか目に入っていない様子で嬉しそうにその本を一冊手に取る。彼女は表紙を眺めた後、表紙をめくり、ページを進める。ペラペラと紙がめくられる小さな音。
真横にいるのに顔を上げない彼女を見ていると隣に立っている僕のことをわざと無視しているんじゃないかと思えてくる。だから僕はあえて彼女に声をかけずじっと見つめていた。
黒と白で統一された姿で、彼女のスタイルが良いから様になっているものの、どこか無頓着さが残っている服装。僕がファッションに興味がないから分からないだけかもしれないけど、制服と違う服を着ている彼女はあえて『緩め』を出しているような、外に出るために着飾った雰囲気ではなかった。
結局彼女が僕の存在に気づいたのは、数十秒後、買うことを決心したのかその本を持ったまま振り向いた時だった。
「わ!」
彼女は本気で驚いたのだろう。勢いよくのけぞった。
「小坂くん! びっくりしたー」
いや、今まで気づかなかった方がびっくりだけど。
「いつからいたの?」
「倉本さんが本を取る前から」
即座に答えると、彼女は「ええっ?」と言いながら目を見開く。
「ずっとだよねそれ」
「だね」
「気づいてたんなら声かけてくれたらいいのにー」
彼女はわかりやすく唇を尖らせた。いや、むしろこっちはわざとじゃないのか疑っていたくらいなんだけど。
「そこまで気づかないとは思わなくて」
「いやー、恥ずかしい……。あ、それ」
僕の手の中のものを指差す。
「小坂くんもこれ買いに来たの?」
「うん、新刊出るの待ってたから」
「私もこのシリーズは毎回買ってるんだ、面白いよね! あ、すいません」
後ろから来た客の邪魔になっていたので、僕たちはその場を離れることにした。
「この本屋さんにはよく来るの?」
「バイト前にいつも」
「そっかぁ、バイトか。何のバイト?」
あれ、と思う。予想外の反応だったから。
同じ学校に通っている人にこの話をすると「え! バイト? なんで?」という大げさで面白半分の反応が返ってくるが、彼女にはそういった物見高さがない。
彼女の顔をまじまじと見ていると、何も考えていないみたいに小首をかしげる。もちろん、これが彼女の優しさからくるものではないのかもしれないし、実際はただ何をしているかの方が気になっただけかもしれない。けど、それでも僕はちょっとだけ、彼女の純粋な返答に好感を持った。
「飲食。レストラン」
「え、どこの?」
「このモールのレストラン街の中」
「そっかー、小坂くんのバイト姿想像つかない。今度行ってみようかな」
「僕キッチンだから来ても意味ないよ」
「え、じゃあ料理できる系男子?」
「まあ、ある程度は」
「すごい、模擬店でも料理してたねそういえば」
彼女は真っ直ぐに感心した表情で控え目に拍手をした。なんだか恥ずかしくなって、話を元に戻す。
「倉本さんは? ここよく来るの?」
「うん、定期区間内だし。本屋さんのためと、カフェとかフードコートとかで本を書きに」
「本?」
え、本を書くの? 驚いて質問を重ねようとしたのを彼女が遮る。
「ねえ、この後暇?」
「……お昼どこかで食べようと思ってたけど」
「じゃ、ちょうどいいじゃん。一緒に食べようよ」
そんなわけないのに、初めから誘うことを決めてたのではないのかと疑ってしまうくらい自然な流れで、彼女は僕を昼ご飯に誘ってきた。
「本書いてるって?」
「そう。小説家になりたいの」
小説家? それは。
「小説を書いてお金をもらう、あの小説家だよね」
「そう、その小説家」
訊くと、彼女は食後に店先で買ったホットティーを飲みながら涼しい顔で頷いた。
え? なれるものなのか? 小説家って、そういうことだよな。それは、物語を生み出すってことで。ほとんど離れた世界に住んでいると思っていた本の製作者になりたいってことだろうか。
僕が飲んでいたアイスコーヒーの氷が溶け、からんという音が響く。
「えーっと……」
言葉に詰まる。
そのあとに続くマイナスの思考を断ち切ろうと思ったのは、彼女が迷いなんかないみたいな様子だったからかもしれないし、彼女の純粋さを少なからず評価していたからなのかもしれない。
だから僕は深く考えることをせず、頭に浮かんだ別のことをそのまま彼女に聞いた。
「どうして?」
「小説が好きだから」
彼女が落ち着き払った表情で微笑む。僕も小説は好きだし、気持ちは分かる。けど。
「シンプル、だね」
そんな簡単に書こうと、僕はならない。なれない。
「うん、今日もそのために来たの」
「書くために?」
「うん。週末はだいたいこの駅に来て」
その後、僕が何を聞いても彼女の返答には迷いが一つも含まれていなかった。それはつまり、本気だということなんだろう。
「あ、時間大丈夫?」
彼女にそう言われ、慌てて時間を確認する。
気づかないうちに、バイト開始の時間が近づいていた。
「本当だ。じゃあ後五分くらいで行こうかな。今日いつもと時間違うから危なかった、ありがとう」
僕は言いながら残ったコーヒーを飲みほす。
「いつもは何時に入ってるの?」
「だいたいお昼時、11時から15時半くらいかな」
「飲食店混みそうだもんね」
「そう、忙しい時間帯だから」
そう思うと、今日のシフトがいつもと同じだったら彼女には会わなかったわけで。なんだか少し不思議だな、と思った。
「土日?」
「うん、片方だけの時もあるけど」
「……そっか」
不意に沈黙が流れる。彼女は何かを躊躇っているような、微妙な表情をしていた。
僕は何か言わないといけない気持ちになり、
「倉本さんは、この後もいるの?」
「そう、夕方までは書くつもり」
「ここで?」
「うん、もうすぐ空いてくるし」
確かに。
このモール内のフードコートもお昼時は混むため、昼食以外の使用は禁止されていた。でももうその時間は過ぎている。僕は、彼女がそういうことをちゃんと考えていることに安心する。
「ねえ、小坂君。私の小説手伝ってくれない?」
「手伝う?」
彼女の言葉の意図を読み取れず、訊き返す。どういうことなんだろうか。
「……うん」
「手伝うって、なにするの?」
彼女はその質問に、驚いた様子だった。「えっと」と呟き、何かを考えているようだった。
しばらくの沈黙の後。
「実際に行きたいところがあったらついてきてもらうとか……」
「え、そんなことまでするの」
口に出してから、しまったと思う。語弊がある。
そんなことまで手伝わせるの、ではなく、小説を書くのにそんなことまでちゃんとやってるの、だ。
「ああ、そういう意味じゃなくて。ただ単純に」
単純に驚きだった。
作家が、実際に舞台となるところに行ったりすることがあるのは知っていた。けどプロだけだと思っていたから。
「本格的だね」
「まあ、できる限りは、だけど」
またも当たり前だといわんばかりの表情で頷く彼女。
「バイト終わってから夕方までとかでもいいから……どう?」
別にその時間、他にしていることはない。しいて言えば、最寄駅近くのスーパーのタイムセールが始まるタイミングに合わせて電車に乗るくらい。それまでの間は、本屋に行くかどこかで本を読んで時間を潰していた。だから別に断る理由はない。それに、もう一つ気づく。
彼女は人質を持っているわけで。まだ入部届けを出していないんだから条件を出すくらいできるのに、そんなことはしてこない。ただ頼んでくる。
今日話してみて分かった。多分彼女は良い人で、純粋に手伝って欲しいからそう言ってるだけなんだろう。
「部活の延長ってことか」
「そう」
「まあ、遅くならないなら」
それに、何を聞いても堂々と答える彼女を見て、少しだけ興味が湧いたのだ。
昼のピークを過ぎてから入ったバイトは驚くほど忙しくなかった。
普段だったら料理の最中も途切れることなく注文が飛んできてフライパンや鍋は同時に二個以上使うのが当たり前なのに、今日は料理が終わるごとに十分ほど空き時間があって調理器具の手入れの方に時間をかけられる程だった。バイト中に時間をもてあますことに慣れていないせいか、体力は減っていないのに精神的に疲れている気がする。
無駄に体力は余っていたので駅の方面に向かう前、フードコートの階に行って彼女の様子を覗いてみることにした。
なんとなくそんな気はしていたが、彼女はさっきバイトに行く直前に見たのと同じ姿でそこにいた。
難しい顔をしながらパソコン画面と対峙している。
時々上を向いて何かを考えているような仕草はしているがそれ以外はずっと手を動かしている。僕がバイトをしていた四時間、ずっと書いていたのだろうか。遠くから見ている僕にもちろん彼女は気づかない。
明らかに彼女を見つめる不審者になっている自分に気づき、彼女から目を逸らす。ゆっくりしていてタイムセールが終わってしまってはいけない。僕は彼女に背を向けて歩き出した。




