23. 貸し百
急遽現れた医師の診断で、彼女は記憶障害だと診断された。
彼女に対していくつかの質問がなされた後、状況が判断された。予想通り、手術の合併症によるもので、記憶の一部がダメージを受けている状態のようだった。しかし、日常生活に支障が出るようなものではないらしい。
その日常生活とは、もちろん、『一般的な』日常生活のことを言っている。
つまり、日織の場合は、忘れてしまった小説に関する記憶なしに、この後の生活をしていかねばならないということになる。
語弊があるといけないので加筆しておくと、小説以外のことも忘れている可能性がないというわけではない。実際、どの記憶が失われたか正確に判断することは難しいからだ。
ただ、日織の場合、小説に関する記憶が大きいため、それを忘れてしまっているという事だけはいち早く結果として現れた。日織の態度を見ていた周りの誰もが、今までとあまりにかけ離れたその部分だけに目がいってしまうのだ。
日織の母親が一番ショックを受けていたようで、日織の父親が「命が助かっただけで十分じゃないか」と慰めていた。
夕方病院に来て初めて話を聞いた慎一も、少なからず衝撃を受けているように見えた。
その中で僕は、なぜか、日織の置かれている状況を落ち着いて眺めていた。心が驚くほど凪いでいた。
彼女が小説を書くことをどれだけ大切にしてきたか、そんなこと僕も分かっている。
それなのに、彼女が小説に関することを忘れてしまったことが、些細なことにしか思えなかったのだ。
みんな日織に重い雰囲気が伝わらないように気を使っているけれど、日織はその変化を感じ取れないほど馬鹿ではない。
日織の手術が成功した時とは変わってしまった雰囲気に戸惑っているように見えた。
でも、と思った。気にはならなかった。
だって、彼女と約束したのだ。
それでも、慎重にはなった。忘れてしまった記憶を無理に思い出させようとするのは良くないと医師に忠告されたからだ。
だから僕は事前に確認し、彼女に小説を読んでもらった。彼女はその小説を面白いね、と言って読んだ。
「大丈夫か?」
慎一は彼女の様子を心配そうに眺めながら、さりげなく訊いてくる。
「大丈夫だと思うよ。ほら、本を好きなのは変わらないみたいだし」
「いや、日織じゃなくて、ミツが」
「それこそ大丈夫」
「……」
「何その目?」
慎一は驚いたような、情けない顔をした。そんな顔をする慎一を見るのは初めてだった。
「いや、なんか今日のミツ、ミツっぽくない」
確かにそう思われても仕方ない。ちょっとおかしいのだ。みんなほどこの状況を悲観的に見ることができなかった。
僕が病室を出て待合スペースに向かうと彼が後ろからついてくる。
「約束したから」
「約束?」
「最後まで日織が書く小説、手伝うって約束したんだよ。だから、こんなこと言っていいのかわからないけど、忘れてしまったことなんてどうでもいい」
虚をつかれたような顔をした慎一は、しばらくして吹き出した。怪訝な顔を彼に向けると、彼はそれを受け流して、微笑む。
「なんでも、手伝えることあれば言えよ」
「じゃあ……」
なんとなくそう言われるような気がしていた
「勉強教えて」
「……なんで?」
呆気に取られたように首をかしげる慎一は、しばらくしてはっとしたように目を見開く。
「大学……?」
「そう。面談でちゃんと決めた。だから準備しないと」
「そっか……そっか! いいよ。受験までだったら貸し百くらいだな!」
彼は嬉しそうに何度も頷きながら、バシバシと背中を叩く。




