22. 嫌な汗
次の日の朝、僕が病室に行くと、日織は布団の中で目をつぶっているように見えた。
駆け寄り耳をすませると、呼吸の音が確かに聞こえていて、一安心する。
「朝一度起きたんだけどね、まだちょっと体力回復してないみたいで」
日織のお母さんは「ごめんね、わざわざバイト前に来てもらったのに」と笑う。昨日より目の下のクマがひどくなっている気がした。彼女は昨日からずっと寝ていないのかもしれない。でも、憔悴しきった表情に浮かぶ笑顔がずいぶんすっきりしたものになっていて、改めて手術の成功を感じ肩の力が抜ける。
日織の口にはもう酸素マスクがついていなかった。落ち着いた表情の寝顔は、少し微笑んでいるように見える。
彼女の側にある椅子に座り、僕は文庫本を取り出した。バイトまでは三十分ほどある。
しばらくすると、部屋の中に寝息が二つになっていることに気づいた。相当疲れが溜まっていたのだろう、振り向くと彼女の母親が船を漕いでいた。椅子の下にさっきまで持っていたカーディガンが落ちている。
音を立てないようにそのカーディガンを拾い、机の上に置いてから椅子に戻ろうとして、日織と目が合った。
「ミツ君」
日織の口から僕の耳に、はっきりと自分の名前が伝わる。
「ちゃんと、手術成功したよ」
彼女はこれから、もっとたくさんの本を読むのだろう。
もっといろんな場所に行って、もっといろんなことを経験する。
これから、たくさんのことを学んで、たくさんの時間を使って、いろんなものを我慢して。それでも本を書くのだろう。
彼女には、これからが待っている。消える可能性のあった彼女の命の光は、消えることを諦めたのだ。理不尽な終わり嫌う僕に、彼女は続きを見せてくれた。
これから。
これからのことを想像する度に、隣にいる彼女を想像している自分に気がつかないわけがない。
「ありがとう」
認めるのが恥ずかしくて、僕はそんな言葉に引っ込めた気持ちをすべて込めた。彼女が僕の気持ちをどう理解したのかはわからないし、わからなくていいけど、彼女は精一杯の笑顔で、言った。
「どういたしまして」
バイトを終えて、病室に行くと、日織はベッドのリクライニングを朝より少しだけ起こし、そこに仰向けになっていた。
視線は一点を見つめていて、僕は彼女のその格好を知っていた。
昔、彼女が入院していた時。あの時も彼女はいつも真顔で天井の一点を眺めていた。
「何してるの?」
その時も何をしているか聞いたような記憶が、なんとなく頭の中にあった。
の時彼女はなんと答えたのだろう。
僕の声に気づいた彼女は、上げていた顔をこちらに向けた。
「んー、ただ見てるだけだよ」
「面白いの?」
そんなわけないだろうとは分かっていたけど、なんとなく軽口を叩く気分になって、わざと興味を持ったように聞くと、彼女はおかしそうに笑ってくれた。
「ふふ、全然」
じゃあなんで眺めているの、という疑問は心に留め、「そっか」と頷くと、
「暇なの、やることないから。ねえ、お母さん」
彼女が部屋の奥で僕たちのやり取りを見ている母親に話を振る。
「手術明けなんだから仕方ないでしょ」
「なんか暇潰せそうなもの持ってきてよ」
僕はその言い方になんとなく違和感を感じた。彼女の母親は気づいていないようで、当たり前のように指差す。
「そこに置いている本はもう全部読んじゃったの?」
人差し指の延長線上には、個別に割り当てられた移動式の机のようなものの上に並んでいる文庫本。隣にあるパソコンではなく本の方を差したのは、パソコンを許可してしまうと、彼女の安静が約束されないと思ったからだろう。
「えっ、ああ小説? 一回は読んでるのばっかりだけど、これお母さんが持ってきてくれたの?」
「え……」
日織の顔を見ながら話していた彼女の母親は声にならないような呟きをした後、ゆっくりと首を回し僕の方を振り向いた。ぎりりと音がなるようなぎこちなさだった。
廊下から、看護師さんが慌ただしく駆けていく足音が聞こえてくる。
日織に視線を戻すと、僕たちの空気に引っ掛かりを感じたのか、怪訝な様子で視線を彷徨わせていた。
背中にじとり、と嫌な汗が流れる。
彼女の遺書を読んだ後、彼女の病気を調べていた。彼女が言っていた成功率を知りたくて、ネットに病名を打ち込んだ。
手術成功率。
それに気を取られて見過ごしていた文字列が今になって鮮明に頭の中に浮かび上がった。
――手術合併症。
「日織?」
固まっている彼女の母親の後ろから、僕が声を出した。彼女と目が合う。
「その小説、どうしてここにあるか覚えてない?」
あえて、軽く。今抱いている疑惑なんて些細なことに過ぎないと言い聞かせるために、僕は彼女になんでもないような空気で質問をした。
「え……うん」
不安そうに頷く日織は、冗談を言っているようには見えなかった。隣にいた彼女の母親が息を呑む。どうしてこういう悪い予想は、当ってしまうのだろう。




