20. 手術
夜、母親と進路の話をした。ちゃんと話すのは初めてだったのかもしれない。そして、風呂に入って寝た。朝起きてすぐに病室に行き、彼女と顔を合わせ、彼女を手術室に送り出し、そのまま朝食を食べず、学校に行き母親と合流、そして田内と面談をする。そんなことが、淡々と行われていた。というか、多分実感していなかっただけなのだろう。
電車に乗って、途中の駅で母と別れてから、急に得体の知れない不快感がこみ上げてきてしまい、長い間病院に足を向けられず駅のトイレにこもっていた。ポケットに入っているスマホが震えた気がして、画面を開く。メッセージなんて届いていない。
手術が終わったら日織のお母さんが連絡はしてくれると言っていたから、まだ手術は終わっていないらしい。
なんだかよく分からなかった。重圧、冷や汗。手の震え。目をつぶれば日織の表情が脳裏に映り、日織の声が耳の奥で響いている。なんだこれは。
胸の奥がムカムカして吐き気がする。朝何も食べなかったのは正解だった。えずいても何も出てこなくて済む。
このまま病院に行って手術が終わるのを待てる自信がなかった。こんな精神状態で病院にいたらおかしくなる。
僕は圧を振り払うように首を振り、気を紛らわせるために文庫本を開いた。ポケットの中の振動はずっとおさまらない。
文字を目で追って、また戻る。文字を追って、戻る。何度も同じ一行を繰り返し読んで、パタンと閉じる。
だめだ。気持ち悪くなってきた。
外に出ると、自然と足はフードコートに向かっていた。
とぼとぼと歩くと、少しだけ気分がましになった気がする。
「あ、小坂くんお疲れ様―」
その時、不意にかけられた声にぎょっとする。
派手な格好をした葵さんが「よっ」と手を挙げていた。
「今日バイトなかったよね――って、大丈夫? 顔色すごいよ?」
目を合わせない僕を覗き込んだ彼女の目が、心配の色に染まる。
それでも可能な限り力強い声で「大丈夫です」と返すと、あまり深く聞かずに頷いてくれる。
「じゃ、私これからバイトだから」
彼女が背を向けてエスカレーターの方に進んでいった。
――と思った。
「また連れてきなよ、ガールフレンド。一緒に来たらお姉さん奢ってあげるから」
彼女は振り向いてウインクしながら、そんなことを言う。
――また
――一緒に来たら
葵さんは手術のことを、知らない。
当たり前だ。知らない。日織は本当であれば僕にも知られるつもりなんてなかったのだから。
彼女は、隠し通すつもりだったから。失敗するかも、なんて言わない。僕に遺書を見つけられてしまったことも、知らない。
それでいい。
ポケットの中でスマホが震えが止まり、別の振動を感じた。
確認する前に、駆け出した。
来た道を全速力で引き返す。途中、何度もつまづきそうになって、駅のコンコースを歩く人にぶつかる。その度に怒鳴られているのだろうけど、よく聞こえない。目の端に八島総合病院の看板。『ここから徒歩五分』の文字を捉え、僕は速度を上げる。
「日織!」
扉を開けると、ちょうど出てこようとした日織の母親にぶつかりそうになった。
「小坂くん。よかった、ちょうど電話しようと思ってたの」
少し目を赤らめている彼女の手にはスマホが握り締められている。
彼女の奥に見えるベッドの上に日織が寝ていた。
「手術、終わってまだ麻酔が残ってるから、意識はっきりしないって」
「手術、成功ですか」
マスクをつけている日織をこの目で捉え、それでもちゃんと確認しなければ気が済まなかった。
「一応ちゃんと終わったようよ」
日織の傍に立っている白衣の男性が、日織の母親の言葉に頷く。
その瞬間、空気が、一気に緩む。全身の筋肉が脱力するのがわかる。
体の芯から安堵が全身に行き渡り、僕は大きなため息をついた。
「よかっ、った」
ゆっくり歩いていき、目を瞑っている彼女を確かめる。見ると、管は繋がれているけれど、日織に掛けられている布団が上下に動いていて、ちゃんと彼女が呼吸をしているのがわかる。生きている。身体中の強張りが弛緩し僕はそのままその場にへたり込んだ。




