19. また明日
同じだった。
変わらない。
小さい頃、僕が日織に本を貸してからは、僕が病室に入るとずっと本を読んでいた。それがパソコンに変わっただけ。バイトが終わったその足で僕は彼女の病室に向かっていた。
彼女と約束をした日、僕はあることを決意した。だから、その日以降のバイトは減らさなかった。今日まで、三連勤で明日明後日は休みだった。
相変わらず彼女は、病気のことなんか忘れたようにパソコンと向き合っていた。窓から差し込む橙色の光が、パソコンにずっと伸びている日織の手に影を作っている。
実際は忘れていない、いや、あるいは本を書いている間は忘れているのかもしれない。
その時間を邪魔しないように、そっとベッドの脇の椅子に腰を下ろす。彼女は、水族館に行くパートまでほとんど書き終わっていると言っていたが、残り少しの部分に苦戦しているようだった。書き終えれば読ませてもらう約束だったのに、まだ渡されていない。
病室には、彼女しかいなかった。元々は相部屋だったのに、一人部屋になっていた。たまたまか、それとも病状の問題か。後者だというのは明らかだった。
ずいぶん広いスペースの中で、ベッドと隣に置かれた机付きの棚が目に入る。机の上には彼女が母親に頼んで家から持ってきてもらったらしい小説が所狭しと並べられていた。
しばらくして、彼女は身震いをしたかと思うと、膝のあたりまでかけていた毛布を引き上げた。
「ミツ君。来てくれたんだ」
ここ三日同じ時間に来ていることで特に驚かなくなった彼女の声を聞いて、違和感を覚える。手術を明日に控えた彼女の声が、少し掠れているように思ったのだ。
「……あ、ああ。どう? 体調」
戸惑いを悟られないよう引っ込める。
「元気。明日手術終えたらすぐ退院できるかもね」
僕に向けて親指を立てる彼女の手は、驚くほど華奢で頼りない。もともと線は細いけれど、ここ数日ベッドの上で時間を過ごすようになってから一層やつれて見えるのは、もうすぐ手術だからという色眼鏡があるのだろうか。
「そっか。……慎一も心配してた」
心の奥に湧く嫌な気持ち誤魔化そうと、流れを変える。
「うん、慎一君にも迷惑かけちゃったもんね」
あれから慎一は、僕が見舞いに来ているタイミングで数度顔を出している。昨日晩御飯を食べた時、慎一も手術当日は塾が終わったらすぐに来ると言っていた。
「そういえばさ」
彼女はパソコンを閉じ、急に思い出したかのように顔を上げた。
「恋愛小説読まなくなった理由って、未来がわからないからって言ってたよね?」
ためらいを含んだその質問。
「それって、お父さんのことがあったから?」
いつもと同じように病院から帰って、布団に入っていた時に僕を起こしに来た母の緊迫した表情を思い出す。
正直なところ、特に推理ものを無理に選んでいるわけではないけど、理由をつけるのだとすれば。
「そうなんだと思う。きっかけは。絶対生きれると疑わなかった人が死ぬのが嫌、というか苦手なんだ。理不尽に死んだところを見てしまったから」
頭の奥にはっきりと刻み込まれている父の影を見つめながら僕は口を開く。
「死ぬとは思ってなかったんだ。本人も話せなくなるまでは絶対大丈夫。退院して一緒に遊ぼうって約束してたから」
「心配しなくていいよ」
僕の震えた声に、彼女の優しい声が重なる。
顔を上げると、先ほどより血色の良い彼女の顔がそこにあった。
「大丈夫だよ、私はそんな理不尽なことはしないって決めてるから」
それは彼女の書いている小説の話を言っているのだろうか。
それとも、彼女自身のことだろうか。
彼女が僕に向かって小指を出す。
「約束。明日のこの時間もまた会おうよ」
多分、どっちもだろう。
「わかってる。心配なんてしてない」
言うと、彼女の表情に驚きが滲んだのがわかった。
嘘だ。でも、心配なんかずっと掛けてくれれば良い。そう思った。
「もう最後まで手伝うって決めたから」
彼女が光を込めた瞳でこちらを見据えている。
僕が頷き指を絡めると、彼女は。どこまでも自然に、自分の体に潜んでいる病気なんて忘れてしまったかのような幸せな顔で、笑った。
彼女の笑顔は、僕を心配させないため、自分も失敗するかもしれないという不安に押しつぶされないため。どっちでもいい。
絶対なんてない。だから僕は、最後まで彼女を手伝うことを決めたのだ。
面会時間の終わりが来て、僕は立ち上がる。
「また明日も来るから」
病室を出てエレベーターホールに向かう途中、待合スペースに寄ると彼女の母親が座っていた。
僕に気づいた母親が立ち上がり、疲れ切った顔に笑みを浮かべる。その表情の奥に以前のような葛藤はない。
「ありがとうね、小坂君」
「こちらこそ、ありがとうございます」
僕がバイトの後に面会に来るのを知って、僕がいる間、病室の外で待っていてくれているのだ。一度、中にいてくださいと言ったのだけど、面会終了までの数時間以外はずっといるのだから、と食い下がられた。
「明日の手術、お昼ですよね?」
「そうね、十一時から。明日は朝から来てくれるの?」
「はい。十時ごろに一度。その後学校に行く用事があるので、また昼過ぎに来させてもらいます」
面談の日だった。田内に言ってずらしてもらうことはできたのだけど、それをするとなんだか彼女の手術が失敗になるかもと考えてしまっているようで嫌だった。だから、朝に一度顔を出してから、面談を終え、すぐに病院に戻る予定にしていた。
それに、面談で話したいこともあった。
「うん。一緒に手術室に送ってあげて。日織、あなたがいると落ち着くと思うから」
もう一度お礼を言って帰路につく。




