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君と明日の約束を  作者: 檜垣梁
18/25

18. 約束

病院のエントランスを抜け、そのまま以前の病室に行く。


 病室に近づいて、ぎょっとした。彼女の名前が書かれていなかった。慌ててメッセージを確認すると、彼女からの文章の最後に、部屋の番号が記されていた。彼女はあの後でも僕が病室に来られるようにしたのだ。


 すぐさま渡り廊下を渡り、エレベーターに乗った。

 彼女の遺書は、ぐしゃぐしゃのまま鞄に入っている。彼女の遺書は、もっともらしい遺書だった。遺書を残す人間は、もうすぐ死ぬとわかっているか、死ぬ可能性を現実的なものとして受け入れているのかのどちらかだろう。彼女は、死ぬ可能性があるということになる。


 100パーセント成功ではなかったのか。彼女は脳の手術、と言っていた。


 絶対はないなんて身にしみてわかっている。でも素直に受け入れられる気がしなかった。


 病室に着いて中を覗くと、日織はベッドに設置されたパソコンと、いつものように対峙していた。


 そう、いつものように、小説を書いていた。


 病室には、彼女以外誰もいなかった。カーテンは開けられているが、今日は外が曇っているので病室の中も少し薄暗い。僕は、幾度となく経験した状況をなぞるように、彼女の近くまで歩いていった。


 ベッドの脇に置かれてある椅子に座り、彼女の様子を観察する。


 彼女は、十数分後、初めて本屋で会った時とほとんど同じ反応をした。最初、彼女に寿命のことは嘘ではないか、手術は本当に成功するのか聞くつもりだった。それを言えなかったのは、彼女が僕の顔を見た途端、


「ごめんなさい」


 なぜか謝ってきたからだった。


 少し戸惑ったように微笑んだ後、彼女はもう一度謝った。


「ごめんなさい」

「なんで日織が謝るんだよ」


 そんなことを言いに来たわけじゃないのに、思わず強く言い返してしまう。

 彼女は弁明を示すように首を横に振った。


「そうじゃないの、私、気づいてたの」

「それは……」


 聞かずとも彼女が何に気づいていたのかということは、遺書を読んで知っていた。


「一番初めに私たちが会った時のこと」

「確か向こうの棟だった」


 僕はあえて、話に乗って窓の外に見えているもう一つの棟を指差した。

 予想通り、彼女は意外そうな顔をする。


「退屈そうにずっと天井眺めてた」


 初めて会った時のことを思い出しながら言うと、


「気づいてたんだ」

「うん、先週ここで日織に会った時に」

「ごめんなさい」

「だから何で日織が謝るんだよ」


 彼女の意図が汲み取れない。謝るべきなのは僕の方だろう。


 彼女は、「あ」とか「え」とか何か言おうとしては口を閉じ、なかなか話し出さない。僕がもう一度謝ろうとした時、意外な言葉が聞こえた。


「私が、ミツ君とお父さんの時間を奪ったから……それに気づいてたのに」


 思わず、「は、……え?」と頓狂な声が口から漏れる。

 彼女は、何を言っているのだろうか。


 確かに、僕と彼女は小さい時に病院で会っていた。でもそれだけ。

 それがどうして彼女が、僕と僕の父親の時間を奪ったことになる?


「私の病室に毎日のように来てくれて、その後ミツ君のお父さん亡くなっちゃって、だから私がミツ君に明日も来て、なんて言わなければもっとお父さんと過ごす時間増やせたかもしれないのに」


 力を入れて話す彼女は、今にも涙を流しそうになっている。


「いや……」


 彼女の説明があまりにも予想外すぎて、唖然とする。


「だから、ごめんなさい」


 彼女は布団に頭をつける勢いで頭を下げた。


「いや、えと……」


 呆気にとられて、謝られたこちらの方がうまく返せない。


「違うんだ」


 彼女は勘違いをしていた。


 むしろずっと眠っていて声を聞けなくなった父親の隣でずっと座っていると、つまらないと思いそうで嫌だった。大好きな父親の隣にいるのが苦痛だと感じたくなかった。だからあの日僕は父が診察の間に病室を抜け出したのだ。そうじゃなかったら彼女の病室にわざわざ棟をまたいで訪れることなんかない。


 彼女のおかげで、葬式の時に本気でお父さんの死を悲しめた。


 別に看病とかしているわけじゃないけれど、そういうことはよく聞く。周りにいる人が看病に疲れ切ってしまって、看病されていた人が亡くなった後、思うように悲しめないことがあると。


 だから僕は、今思えば彼女に救われていた。


 でも、これを口にだすと嘘っぽく聞こえてしまいそうで、僕は自分の謝罪に切り替える。彼女は僕の言葉を構えて待っているようだった。


「僕の方が悪いこと、したんだ」


 咄嗟に何か言おうとした彼女だったが、僕の空気を察して黙ってくれる。それに甘えて僕は話を続けた。


「日織が病気だと知ってたはずなのに。だから無理させてはいけなかったのに無理させるようなこと言って。体に負担をかけさせて」


 あの時バイト先でジャンキーなものを勧めたせいで店長が彼女に作ったバーガーがずっと頭の中で引っかかっていた。ご飯を食べる時、彼女が毎回のように料理に入っているものを確認していたのも多分栄養を考えてのことだったのだろう。


「挙げ句の果てに、水族館まで誘うようなことをして」


 僕がそこまで言い切ると、彼女が違う、と声を張った。


「別にそんなんじゃない。私もミツ君のおかげで頑張れているって言い方したけど、それはミツ君がいなかったら楽しくやれてないって意味」

「だとしても一方的に怒鳴って約束を無視して」


 彼女は少し口を膨らまし、頷いた。


「確かにあれはひどいよね、信じられない。傷ついたよ」

「ごめんなさい」


 彼女はふふっと息を漏らした後、「でもね」と告げる。


「水族館も誘ってくれるのは有難かった。小説のためもだけど、普通に関係なく楽しみだった。だから、そう、手術が終わってから行けばいい。ちゃんと治ってから、行って、楽しんで、それで思う存分勉強して書けばいい。手術が失敗することはない。死ぬならまだしも、無理して水族館に行く必要ない。君が正しい」


 彼女は死なないと言っている。遺書まで用意した上でなお、そんなことを言う。


 彼女は僕が遺書を読んでいると思っていないのだろう。


「だから、君が私に無理させた、っていうのは違う。それはうぬぼれだよ。むしろ逆。ミツ君が手伝ってくれるようになってから、私は毎日が楽しくなったの。分からないかもしれないけど、私いつも苦しかったんだ」


 奇しくも、日織は慎一と同じ言葉を口にした。


「だから、大丈夫。手術が終わったら、一緒に行こうよ」


 言うつもりはないらしい。考えてみればそうだ。僕と関わってから今日まで、ずっと彼女は嘘をつき通している。


 彼女が切望にも似た表情を浮かべているのを見て、僕は彼女の嘘に乗るべきか考えてしまった。もし乗らなかったら彼女はどうなるだろう。僕が彼女の遺書を鞄から取り出したら、彼女は動揺を隠してまだ嘘をつき通すだろうか。保険のためだと言い張って、会うたびに嘘の笑顔を作って僕と話すのだろうか。


 それとも、僕に本当のことを言って、彼女は申し訳なさそうな顔をするだろうか。嘘をついていたことへの罪悪感と、会うたびに自分の心配をされるだろうことを考えて、悲しい顔を見せるだろうか。


 ふっと、昔聞いた彼女の言葉を思い出した。


『明日も来てくれる?』


 無表情だった彼女が、初めて見せた笑顔。それを、思い出した。


 僕は、彼女の嘘を遺書と共に心の中にしまうことにした。彼女のためだけじゃない。彼女を手伝いたいと思った自分の気持ちと、自分の心を守るため。口に出さないことが、彼女が置かれている事実を再確認しないまま過ごす方が、いいように思えた。


「わかった」


 僕が言うと、彼女は抱えていた圧から解放されたように破顔した。


「ねえ、ミツ君、また――」

「また手伝うよ」


 彼女の見開かれた目の奥に、温かい光が灯った。


 それを見ているとなんだか恥ずかしくなってしまって、それを紛らわすように言葉をつなげる。


「大して何もすることないけど」

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