16. ミツくん
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謝らないといけないことがある。私はずっとミツ君に隠し事をしていたのだから。
ミツ君と昔、会った事がある。
ミツ君の体を大事にしろという言葉には、彼の父親が亡くなったことが影響しているのだろう。いや、もしかすると彼の反応は私のせいかもしれない。
私は、彼が父親と過ごす時間を奪ったのだから。
小さい頃から、体が弱かった。私の記憶の一番初めは、病院での入院生活だった。今でこそ普通に学校に行けているけど、小学生低学年までは喘息がひどくて、病院で生活していた。
喘息で息をするのにも体力を使うから、他に何かしようとも思わなかった。ただ、その生活が普通だから、特別退屈に思うこともなく、天井を見上げて一日を終えることばっかりだった。
その子が現れたのはそんな時だった。彼は同じ年齢の男の子で、お父さんが入院することになったらしく、そのお見舞いで病院を訪れたらしい。
彼が私の病室を覗いたのはたまたまだったのだろう。後から聞いても彼のお父さんの病室は棟が違っていた。ただ同じ階だったので、お父さんが診断のために病室からいなくなったタイミングで、連絡通路を渡って来たのだと言っていた。
「何してるの?」
いつものようにただ上を見上げていたら、声をかけられた。お母さんやお父さん、看護師さんたち以外の声がしたのは初めてだったから、私はぱっと首を動かし、扉の方を向いた。
拍子に咳が出る。
「大丈夫?」
その男の子は焦ったような声を出して、私の方に駆け寄って来た。
私はまだ咳がおさまっていなかったけど、指で丸を作ってその子に見せる。その男の子は心配そうな目で私のことを見ていたが、少し落ち着くともう一度さっきの質問を繰り返した。
「何見てたの?」
不思議そうに私が見ていた先を見上げる男の子に、思わず笑みが漏れてしまう。笑うのはずいぶん久しぶりのことだと思った。
私は、できるだけ呼吸を整えて、答える。
「ただ見てるだけだよ」
「面白いの?」
興味津々な様子で尋ねられ、また口角が上がる。
「全然」
「そっかあ」
興味をなくしたように、でも優しい響きで、その子が笑う。
「そろそろ行かないとお母さんが探すから」
そう言って彼は出て行ってしまった。年齢が近い子と話すことに慣れていないから、私の反応が面白くなかったのかな、と少し残念な気持ちになった。
でも次の日、彼はまた私の病室を訪れた。
「また見てる」
その時、私は昨日と同じように天井を眺めていた。
「何の病気?」
「喘息と、頭の中の病気」
「ふうん。じゃあここから出てないんだよね?」
「そう」
「はい、これ」
名前も知らない男の子は、そう言って私に小さな本を差し出した。小さな私の手でも困らないくらいの本。何度も読まれているのか、表紙の橋はふよふよと波打っているし、裏には大きく名前が書かれてあった。
「何?」
受け取って開けると、細かい文字がびっしり並んでいた。
思わず顔をしかめてしまう。
「読んでみて!」
キラキラした目をこちらに向けるその男の子の勢いに負けて、私はゆっくり一ページ目の文字を目で追っていった。
しばらく読んで、分からない文字が来た時に顔を上げた。隣には、嬉しそうに笑う男の子がいた。
「面白い?」
「まだわからないよ――っ」
そう言った時に、大きく咳き込んでしまう。
「大丈夫? 読むのしんどかった?」
――そうじゃないよ、急に話したから。
心配する男の子に言おうとして、気づく。
本を読み終わるまで、咳の心配をしていなかったことに。
いつもだったらどんな動作でも咳を出さないように慎重にする。それなのに、文字を追っている間は、それを忘れていた。
それだけじゃない。思い出そうとしても、咳き込むまで、呼吸がしんどいと思わなかった。
こんなことはなかった。
面白いかはわからないけど、「しんどさ」を忘れるなんて。
寝ている時でも、息がしにくいことが頭から離れないのに。
男の子は、本を眺めている私の顔を見て、
「貸してあげるよ」
と笑った。
「わからない言葉だらけだけど」
なんとなく恥ずかしくなって、そんなことを言ってしまう。
「大丈夫。調べたら分かるよ」
突き放されているようには感じなかった。
「うん……ありがとう」
「うん。あっ、行かないと。お父さん検査から帰ってくる」
出て行こうとした時、思わず聞いた。
「明日も来てくれる?」
それからその男の子は、毎日のように来てくれた。そして分からない言葉があれば、その都度教えてもらうようになった。
その子は、寝たきりのお父さんのお見舞いを抜け出して、一日一時間以上私の病室に居座るようになった。
読むのは遅かったけれど、毎日、続きが読むのが楽しみで、二人の時間が来るのが待ち遠しかった。二人の時間が終わって、次の二人の時間が来るまでは、ずっと今まで読んだ部分を繰り返して読んでいた。先には進まない。だって、その楽しみは二人の時間にとっておきたかったから。
こんなことは初めてだった。早く明日が来て欲しいなんて、考えたこともなかった。毎日、明日を生きがいに辛さに耐えられるようになった。
退屈だと気づきもしなかった日常が、色づいていくようだった。
こんな楽しいことがあるのだと知った。初めて、心が踊ると言うことを覚えた。
でも、そんな楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。数週間して、私はやっと本を読み終えた。
そして次の日から、その男の子は私の病室に来なくなった。
看護師さんに聞くと、何となく口を濁された。幼いなりに、なんとなく違和感を感じた。
一人の時間が増えて、寂しさが胸の中にあふれた時、気づく。私は、男の子とお父さんとの最後の時間を奪ってしまっていた。お父さんも、あの子が病室にいなくなった時、今の私と同じ気持ちだったと思う。心配になり、お母さんに訊いても、看護師さんみたいに微妙な返事が返ってきた。看護師さんの表情は読み取れなくても、お母さんの表情ですぐに気づいた。
あの子のお父さんは、亡くなったのだ、と。
後悔しても後の祭りだった。寂しさと申し訳なさをどうにかしようにも、その子はもういなかった。
私が今の病気に罹っていると気づいたのは、男の子が病院に来なくなってから数ヶ月経った頃だった。
私がそのことに気づいたのは、彼がシングルマザーだと話してくれた時。あの瞬間、自分の中にある記憶の糸が手繰り寄せられる感覚になった。
小坂満。こさかみつる。
あの読み尽くされた本に大きく書かれてある名前がそうだった。
そして、父親は亡くなったと聞いて、確信した。
だからお母さんが病室に入ってきた時、ひやりと心臓の裏側を撫でられるような気持ちになった。
もしかしたら、お母さんは気づくのではないだろうか。
今目の前にいる少年が、ミツ君であると。
そしてその少年が、あの時の男の子であると。
あの時の話を持ち出してくるのではないかと心配した。
ちゃんと私はミツ君に謝ろうと思っていた。あの時のことを、ちゃんと話して。ミツ君は多分気づいていない。だからちゃんと自分の口から話したかった。中途半端な形で彼に知らせてしまうのは嫌だった。
それと、もう一つ。
私は、ミツ君が病室によく遊びにきてくれていたあの男の子だったと気づく前に、お母さんにミツ君の話をしていた。
病気に罹ってから、私はお母さんにできるだけ学校であった話を伝えるようにしていた。それは私が病気に罹っているせいで友達とうまくいっていない、とお母さんに思わせないためだった。
喘息に病気、とずっと心配をかけている後ろめたさもあった。
話すとお母さんはそれを嬉しそうに聞いていた。あまり笑わないお母さんが自然な笑みを見せるその時間が好きだったし、だからそれが習慣になっていた。
ミツ君と休日会うようになって、同じ部活に入って、嬉しかったのだろう。
無意識のうちに小説を手伝ってくれているミツ君のことを話すことが増えてしまっていた。
「その子、日織の病気のことは知ってるの?」
いつも楽しそうに私の話を聞いていたお母さんが少し迷惑そうな表情を滲ませるまで、病気を抱えている娘と近い関係にある異性に対して抱く母親の感情に気がつかなかった。
お母さんがそんなことを訊いたのは多分、家に帰ってからも部屋で小説を書くようになったことが原因だろう。基本的に私がしたいと言ったことにはあまり口を出さなかったお母さんが、何度か注意するようになった。
それから、私はわざと彼のことを話題にあげる頻度を下げるようになった。
だから、私の病室にいるのがミツ君だと気づいたお母さんがミツ君に対して筋違い――お母さんにとってはそうじゃないにせよ――な怒りをぶつけないだろうかと懸念した。
お母さんがミツ君に名前を聞いた時、その後の展開を想像し、私は慌てて止めようとした。でも、ミツ君は覚悟したような表情をしていた。
話を遮ることは叶わなかったけれど、結果的に、お母さんはどちらともとれない言い方をした。憤りを感じているのは分かったけれど、抑えてくれた。
お母さんが病室を出て行った後、ミツ君が誘ってくれていた水族館の話を持ち出すと、彼は病気が治ってから行こうと言った。
彼もいつでも良いと言った。ただ、少しだけ。死ぬことはないと思っていても、手術が失敗する可能性だって、あった。
ミツ君には詳しいことは分からない、と言ったけれど、先生に全て教えてもらっていた。ほとんどの手術が成功しているけど、一部では術中に亡くなった事例もある。それに、四肢の麻痺、など後遺症が残った例も少なくないらしい。
でも、そのことをミツ君に言うつもりは無かった。
誰にも言わないと言うのは昔から決めていたことだし、今回たまたま手術のことをミツ君に知られてしまったけれど、本来なら手術が終わってから話すつもりだった。
通院しているのがこの病院だったから、唯一知っていたのは慎一君だけど、彼も口裏を合わせてくれていた。
手術までに書ききれそうもない。もうあとは手術が失敗しないことを願うしか無かった。
それでも、もしも万が一の時のために、準備もしている。
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