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君と明日の約束を  作者: 檜垣梁
12/25

12. おとうさん

 *


 しんと静まりかえった廊下。何十回と訪れているはずのその場所が、父親を取り囲むどす黒い空間にしか見えなかった。

 悪の巣窟。本で読んだ悪者が住んでいる場所。齢十歳、世界に対して偏見を持っていなかった少年が、病院を恐怖とか、悪いイメージと結びつけたのは、その日が初めてだった。


 病院だからじゃない、むしろそれまでの病院のイメージは、父親に会える楽しい場所だと思っていた。だから、ただただ心臓に直接突き刺されるような胸の苦しさを感じたときは吐き気がした。もう何十回と訪れているはずなのに、僕はいつもと違う異様な雰囲気を感じていた。


 さっきまでは家にいて、寝る時間になって布団を被り、目をつぶっていた。夢と現実の間でふわついた気持ちになっていると、お母さんの大きな声に起こされた。抱きかかえられた僕は、すぐさま上着を着せられ車に乗せられた。

 目的の場所は、聞かなくてもなんとなく分かっていた。


 普段ならシートベルトが締まっているか確認するお母さんが、今日は何も言うことなく車を発進させた。焦った顔をしているお母さんに迷惑をかけたくないという思いから、僕は自分でしっかりベルトを締める。


 しばらくして、予想通りお父さんの泊まっている病院に到着した。


 お母さんに手を引かれ早足で病院の廊下を歩く。夜遅くに病院に来るのは初めてだから、夜の病院がこんなに暗いとは知らなかった。非常灯の明かりと、それが床に反射した光がぼんやり浮かんでいる。

 なんだか怖くなって、僕はつないだお母さんの手をぎゅっと握る。

 するとお母さんは一瞬僕の方を振り向き、「大丈夫よ」と震えた声で囁く。初めて聞く泣きそうなお母さんの声で、僕の胸の中は余計不安に包まれた。


 静かな病院の廊下に、僕とお母さん二人の足音だけが響く。いっそのこと音がなかったらいいのに、いろんなところから足音が聞こえるみたいで、気持ち悪い。


 進む先に、一つ光が漏れている部屋があった。お父さんのいる部屋だ、そう思った瞬間、腕を強く引っ張られる。痛いと感じる間も無く僕はまたお母さんに抱え上げられた。急ぎ足で光の元に向かうお母さん。ずっと、「大丈夫、大丈夫」と呟いていたのを覚えている。


 お父さんの部屋には、白衣を着た大人の人が数人お父さんを取り囲むようにして立っている。暖かい光に包まれた部屋に、ピッピッピッっという、他の音から取り残されたみたいな音が響いていた。


「お父さん」


 随分長い間耳にしていなかったお父さんからの返事を期待していたわけではない。ただ気がつけば、勝手に口から声が漏れていた。


 みんながこっちを向いて、困った顔を見せてくる。なに? なんでそんな顔をしているの?

 みんなが見せる顔は、今まで見たことのない表情だった。だから、みんなの顔が何を表しているのか理解できなかった。いつもより少しゆったりとした音が鳴っていた。


「奥さん、声をかけてあげてください。耳は最後まで聞こえていますから」


 丸っとした体型の優しそうなおばさんが、お母さんに言う。お母さんは頷き、僕を腕から下ろしお父さんに近づいた。おばさんの言っている言葉の意味は、あまりわからなかった。


 母の様子を他人事のように眺めていると、眼鏡をかけて疲れを含んだ顔の男の人が僕に目線を合わせた。無理に口角を上げて話す彼は、会ったことのない人だった。


「ボクも最後に、お父さんに声聞かせてあげて」


 声を聞かせる? 最後? 声なんていつも話しかけてるじゃないか。さっきも。彼が言いたいことがよく分からず、僕は首をかしげる。


 ピ。ピ。ピ。ベッドの上で眠っているお父さんに目をやると、お父さんは気持ちよさそうに目を瞑っている。


「お父さん」


 その呼びかけが空気に溶け、耳にピーと音が入ってきた途端――幼いなりに、すう、と理解できるものがあった。


 その単調な音に体が押しつぶされるような気持ちになる。

 みんなが何かと向き合う音のない数秒間。どんな時でも僕から目を離さないお母さんが、僕のことなんか目に入っていないみたいにお父さんに話しかけている。


「お父さん」


 目の前にいる大好きなお父さんが自分の涙でぼやけていく中、こもったような一音が耳に届いていた。


 白衣を着た男の人が僕の父親の死亡を告げたあと、いつも温厚な母がその人にまくし立てていたことを、ふわふわした気持ちで見ていたことを覚えている。


 数週間前に父親と話した時、大丈夫だと笑っていた。だから大丈夫なんだと思った。

 治る、と言っていた。すぐに退院できる、と言っていた。だからもうすぐ一緒に遊べるものだと思っていた。


 終わりが分からない小説を嫌いになったのは、あれからだったと思う。


 *

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