10. かくしごと
そのことを知ったのは、次の日の昼前だった。
日織と会う予定もバイトもなく、昼まで寝る勢いだった僕をけたたましい電子音が叩き起こした。
慎一からの電話だった。
『ミツ!』
電話の向こうからは慎一の怒鳴り声が聞こえてきた。
「もしもし。慎一、塾じゃないの?」
『休み時間! そんなことどうでもいいから』
なに焦ってるんだ、と思った。こっちは寝起きなのに、と。
『日織が倒れた』
欠伸をしようとして開いた口が閉じるのを忘れた。
心臓が血液を送り出す音が、やけに大きく聞こえた。
「え」
脳を介さない声が口から漏れる。
『だから、日織倒れたんだって!』
「……」
聞こえた慎一の声を正確に理解できなかったわけじゃない。分かったから、言葉が出なかった。
『さっきお袋から連絡あって。って聞こえてるよな!』
「……うん」
『救急車で親父の病院に運ばれてきたんだよ!』
「……」
『おい、大丈夫か! しっかりしろ』
「……うん」
かろうじて、返事をする。
『いいから、早く病院行け! 場所わかるだろ。 俺も授業終わったらすぐ向かうから』
全速力で駅に向かう。途中、二回ほど信号無視をしたけどどうでもよかった。途中メッセージを知らせる音がスマホから鳴ったが、見る間もなく駅へと自転車を飛ばす。
電車に飛び乗り、ドアに背中を預ける。思い切り咳き込み、乗客に心配された。そこでやっと息が苦しいのだと気づく。
到着までの十数分が長い。窓から流れる景色がやけにゆっくりに感じ、イライラする。タクシーに乗った方が早かっただろうか。
届いていたメッセージは慎一からで、病室の場所と、慎一が華さんから電話で聞いた内容が記されていた。日織がリビングで倒れているところを彼女の母親が見つけ、救急車で病院に運ばれたらしい。
『○○駅です』
遅い。早く。
目的の駅が見えると、僕は震える足に力を入れ、立ち上がった
病院のある駅に着きドアが開いた瞬間一目散に改札を目指す。コンコースを抜け、モールの一階を突っ切る。反対側の出口から出ると、八島総合病院が目に入った。
一時期通っていたから、だいたいの場所は把握している。メッセージに記されていた通り八階に上がり、プレートを見ながら進んでいく。
あった。プレートには倉本日織の文字。
扉は開いたままだった。
入ろうとして、直前で足を止める。中から人の話し声が聞こえてきたからだ。女の人が何か叱責していた。
「無理しちゃだめって言ったでしょ!」
「まあまあ、お母さん。幸い何事もなかったんですし」
それを誰か男の人がなだめている。
「そうですけど……」
「あまり興奮しても良くないですし、ね」
その言い方は日織が、ということだろう。
「すいません……」
「でもね日織ちゃん」
また男の人の声。
「いくら入院してないからと言っても、何してもいいってわけじゃないんだからね。一応今は、様子見の期間。手術のために待ってるのに、無茶して免疫落ちたら逆効果だよ」
優しいのに絶対に従わなければならないような、柔らかい口調の裏に凄みのある雰囲気。
僕は耳を疑う。今、なんて? 手術?
「はい……」
日織の沈んだ声が耳に届く。
「お母さん、ちょっと」
さっきから話している男の人の声は医者だろうか。その男性がお母さんと呼ばれる人物にそう言った後、外に出てくる雰囲気がして、とっさに身を隠す。別に隠さなくてもいいんだけど、思わず。
「あちらで話を」
「はい……」
「日織ちゃん、何かあったらナースコールすぐに呼んでね」
「はい」
そして白衣を着た男性と女性が僕のいるのとは逆方向に歩いていく。
どういうことだろうか。あの白衣を着た男性は確かに手術と言った。そして、日織はそれに応えた。
だめだ、考えたところで何もわからない。仕方なく僕は、閉まった扉をそっと開けて中に入った。
何度もも訪れたことのある空間。人がいるはずなのに無駄に静かな空間と消毒液のツンと鼻につくような匂い。すでに、この匂いは嫌な空気感と結びついていた。
「……ミツ君」
布団を膝まで掛け、いつも使っているひざ掛けを肩から掛けてベッドに座っている彼女と目が合う。彼女はその手に文庫本を持っていた。僕の登場に目を大きく開いた後、すぐにバツの悪そうな表情を浮かべる。
彼女の姿を見た途端、ほっとする。身体中の緊張が解け、安堵が広がっていくのが分かった。
「来てくれたんだ……」
ベッドに設置された机に持っていた本を置き、斜に構えたように少しだけこちらに体を向けた。
彼女はその言葉とは裏腹に、あまり嬉しくなさそうな表情をした。その表情が僕の心の奥にある何かを刺激した。
「……」
何を言えばいいのか分からない。頭が整理できていない。ドアを閉じ、彼女に近づく。
「もしかして慎一君から聞いた?」
彼女はここが慎一の親の病院だと知っているのだろう。
それはその通りなので僕は首を縦に振る。
「えーっと」
どこまで? と探りを入れるような雰囲気。それを隠そうとはしているようだけど、僕はもうさっきの会話を聞いてしまっている。
「救急車に運ばれたって聞いて……焦って」
ひとまず事実を述べる。
「ああ、そっか」
ほっとした表情で頷いた後、彼女はとってつけたように饒舌になった。本当に、とってつけたように。
「昨日の夜頑張って書いてたら、ちょっと体調崩しちゃって、別にそれだけだよ。集中力が裏目に出ちゃったかなー。なんかフラッとなって。でも疲れ溜まってただけだから大丈夫。大したことない」
「大したことないって……」
「本当に大丈夫だって。根詰めすぎちゃったかなー」
腕に点滴の針を刺しながら笑う彼女のそのわざとらしいその口調が大事なことを隠しているように聞こえて、不安が掻き立てられる。実際そうなのだろう。経験したことのある感覚だった。
「だから心配してくれてありがとう。別状なかったらしいし、明後日には退院できるって」
ごめんね、心配させちゃって、と軽く謝る彼女と目を合わせる。
その不自然な軽さが、気に入らなかった。
「日織」
予想以上にドスの効いた声が自分の口から出た。彼女も驚いた顔をする。
僕自身、あまり感情を表に出すタイプではない。だからこの時、自分でも気づかないうちに苛立ちがうずうずと溜まっていたのだろう。
「なに? そんな怖い顔して……大丈夫だよ?」
どうしても彼女に父親の姿が重なる。
「手術ってなんだよ」
実際、質問の裏に、さっきの言葉は聞き間違いなのかもしれない、そんな期待がなかったと言ったら嘘になる。そんな期待めいた思いは的外れでしかないということに気付かされるのに、彼女の言葉は何も必要なかった。
訊いた途端、へらへらと微笑みを浮かべていた彼女の顔が一瞬にして強張るのが見えた。
「……聞いてたんだ」
「ちょうど来た時に聞こえたんだ」
彼女は口をつぐんだまま僕を見据えている。
「……」
「ちゃんと話して」
彼女は僕と合わせた目をそらし、言わずにこの場をやり過ごすことは不可能だとも思ったのだろう、諦めたように深く息衝いた。
「私、病気なの」
彼女はそれまで隠していたことを全て話し始めた。
「脳の病気でね。詳しいことはわからないんだけど、脳の細胞の一部に異常な反応があって、それを取り除くために手術しなくちゃいけないって言われてて」
取り除かないままだと、いずれ身体中が麻痺するから手術が必要なんだって、と他人事のように彼女は説明する。
――手術。
僕は自分から訊いておきながら、その言葉に何も返すことができずひたすらに彼女の声を受け取っていた。
「ただその悪い部分がある程度表に出てくるまで待っていないといけなくて、今はそれを待っている期間。で高校二年の夏休みぐらいに様子を見て手術する予定だったの。最近はちょっと手しびれちゃったりしてたけど」
彼女の言い方に違和感を覚えた。
「夏休みって」
「そう。だから、また一週間後に準備のために入院して、二週間後に手術する」
「治るんだよな」
「ちゃんと切除すれば普通の生活はできるようになるらしいんだけど、ちょっと神経とか複雑に絡まってるところの手術らしくって、結構大変なんだって」
彼女は感情を乗せず、淡々と否定できない事実を語った。
大変ってことは……。悪い想像をしてしまい、僕は顔をしかめる。
瞬きをした彼女は、僕の表情を見てその悪い想像を理解したのか、すぐに安心させる笑顔を見せる。
「ああ、でも腕のいい先生が手術してくれるから大丈夫だよ。それに、99パーセント成功するから命のことは安心してって主治医の先生も言ってくれてるし」
「100パーじゃないってこと?」
焦る心で被せるように訊いた僕を見て彼女は口と目に笑みを浮かべる。
「それは一応データだから。何かあったときの保険のために100って言えないだけだって。それに先生も何度かやったことある手術らしいよ、だから大丈夫なんだ」
「いつから?」
僕の流れに沿わない質問に、彼女は戸惑ったように間を置く。
「いつから病気って分かってたの?」
「昔から……だけど」
それは。その言葉の意味を理解した途端、目の前が真っ暗になる。
「ずっと……」
抱えていたということか。それなのに僕は。
「大丈夫だよ。経過観察しながら、手術できるタイミングまで待ってただけなんだから。だから心配しないで」
その時、僕の背後の扉が開かれる音が耳に入った。
「日織……あら?」
振り向くと、疲弊した表情を浮かべる女性が立っていた。
整った目鼻立ちに、彼女が日織の母親なのだと確信する。
疲れ切った表情には、見覚えがあった。
父が入院した時の母の顔と同じ。
「日織のお友達?」
日織の表情が少し強張った気がした。
「もしかして、小坂くん?」
冷たい声が病室に響く。
「お母さん」
日織が慌てたように話に入ろうとする。彼女のその焦った様子で気づく。
おそらく日織の母親は僕のことを知っているのだろう。それで僕のことをよく思っていない。そのことも日織は分かっているのだろう。だから今の反応。そりゃそうだ。実の娘を振り回している赤の他人なのだから。
当然だ。だからしっかりと日織の母親を見て、
「はい。小坂満です」
淡々と答えた。
僕の回答を聞いた途端、彼女の目の奥に揺らぎが映った気がした。それはふつふつと奥から湧き上がる嫌厭のようなものだと理解した。
何かを口に出そうとして、首を振る。
僕は覚悟した。詰られることを。
彼女は何か葛藤しているように見えた。
視界の端でそんな彼女の様子を日織が心配そうに見つめているのが分かった。
深呼吸ともため息ともつかない深い息を吐き、彼女はゆっくり目を開けて僕を見据えた。
「……日織と」
彼女が何かを噛み殺したような表情でポツリと声を漏らす。
「日織と、いつも仲良くしてくれてありがとうね」
音が、止まったように感じた。周りを囲むすべてのものから自分の聴覚だけが離されてしまったような。
目をそらすことはなかったけれど、言葉が、出てこなかった。声の出し方を忘れたみたいに、彼女のいろんな感情の混ざった表情を見ていた。
どうして。どうしてそんな言葉が出てくるんだ。
彼女はそんなこと思ってないはずだ。
人は何かがあった時怒りをぶつけなければならない。実際にその現場を見たこともある。それもほとんど同じ状況で。
父親が亡くなった時、母は病院の医師に対し、汚れた言葉を漏らした。普段から我慢強い母が。
日織の母親も、僕に対して非難したい気持ちがあることは彼女の目を見ていたらわかる。だったらなんでその言葉が出てくる。
「いつも日織が嬉しそうにあなたのことを話すの。こんな子だけど、これからも一緒に遊んであげてね」
「あ……」
そして彼女は、僕の返事を聞くことなく、日織に「お母さん一度帰って着替えとってくるから」と言って病室を後にした。
耳には、心臓が血液を運ぶ、でも無機質な音しか聞こえなかった。




